第45話◇ 白樹の森
商業ギルドの受付で2時間分の利用料として銀貨1枚を払い、ミアを同伴者として資料室へ入ると、彼女は迷うことなく魔物関係の本が並んでいる棚へ向かった。
以前ここへ来た時は、自分でも読めそうな本を探すだけでかなり時間がかかっていたはずなのに、今では背表紙を1冊ずつ確認し、分からない文字があってもすぐに諦めることはない。コウイチが受付で白樹の森について尋ね、周辺の地図を借りて戻ってくる頃には、ミアはすでに何冊かの本を選んで机へ運んでいた。
「見つかった?」
「たぶん、これです」
差し出された本の表紙には、この周辺に生息する魔物についてまとめた図鑑らしい題名が書かれている。文字だけでなく簡単な挿絵も多く、以前ミアに渡した本より内容は難しそうだったが、それでも彼女は自分から椅子へ座ると、慣れない手つきながら索引を使って目的の魔物を探し始めた。
コウイチも向かいへ座り、受付から借りた白樹の森周辺の地図を机に広げる。
最初に調べるのはホーンディアだ。
商業ギルドの職員から櫛の材料になると教えてもらったとはいえ、それだけの知識で狩りに行くつもりはなかった。Fランクなら今の自分たちにとって大きな脅威ではない可能性が高いが、白樹の森にはEランクやDランクの魔物まで生息している以上、目的の魔物だけを知っていればいいという場所でもない。
「ありました」
ページをめくっていたミアが本をこちらへ向けると、そこには鹿によく似た魔物が描かれていた。普通の鹿より角が太く、その先端がやや前方へ伸びていることを除けば、見た目だけならそれほど異様な生き物には見えない。
「ホーンディア。白樹の森……外……」
読み上げていたミアの声が止まり、眉間に小さなしわが寄る。
「外縁部」
「がいえんぶ?」
「森の外側って意味だな」
「外縁部……に、生息。草食性で、おとなしい……ですが……」
そこでまた少し考えたものの、今度はコウイチを見ることなく前後の文字を確認し、自分で続きを読んだ。
「危険を感じると、角を前にして……突進する」
「そこは読めたな」
「はい」
褒められたのが嬉しかったのか、ミアの尻尾が椅子の後ろで小さく揺れる。コウイチはそれ以上何も言わず、自分でも説明へ目を通していった。
ホーンディアはFランクに分類され、単独か数匹程度で行動することが多く、こちらから刺激しなければ積極的に人間を襲うことは少ないらしい。ただし逃げ道を塞がれると角を前にして突進する習性があり、新人冒険者が正面から受け止めようとして怪我をする例があるという。
角は工芸素材として買い取られ、骨や皮にも用途があるうえ、肉も食用になる。討伐した後に捨てる部分が少ないという点では、素材を目的に狩るには都合のいい魔物だった。
「これなら外側で探せそうだな」
「角だけ持って帰るんですか?」
「いや、倒したなら他も持って帰るよ。アイテムボックスがあるんだから、わざわざ捨てる理由もないだろ。角は俺たちで使って、残りはギルドで売ればいい」
これまでなら、魔物を狩れば価値のある素材をギルドへ持ち込み、そこで金に換えて終わりだった。しかし今回は最初から欲しい素材があり、それを使って商品を作るために魔物を探すことになる。同じ狩りでも目的が少し変わっただけで、図鑑に書かれた素材の説明まで以前とは違って見えるのだから面白い。
ページをさらにめくっていくと、ホーンディア以外にも白樹の森の外縁部に生息するFランクの魔物が何種類か載っており、その中にはシルクモスという蛾型の魔物もいた。成虫そのものより幼虫の作る繭に価値があり、そこから取れる柔らかな繊維が商品になるらしい。
「これも売れるのか」
「糸にするみたいです」
「服?」
「はい。それと……小物にも使うって書いてあります」
「小物か……」
何に使われているのか少し気になったが、コウイチはそこでページを閉じずに先へ進むことにした。
売れそうな素材を見つけるたびに目的へ加えていたら、森へ入る前から何をしに行くのか分からなくなる。今回はホーンディアの角を手に入れ、それで櫛を試作して、本当に売れるのかを確かめるところまでが目的だ。シルクモスについては覚えておけば十分だった。
「次はEランクを調べよう。ホーンディアを追ってるうちに中央の方へ入るつもりはないけど、知らない魔物と出会ってから調べるわけにはいかないからな」
「オイルリザードとグラスビーですね」
「その2つは商業ギルドの人も言ってたから、少なくとも見分けられるようにしておこう」
「分かりました」
ミアは索引へ戻ると、指で文字を追いながら目的のページを探し始めた。以前なら難しい文字が並んでいるだけでコウイチへ本を渡していたのに、今では時間がかかっても自分で調べようとする。
奴隷商館で初めて会った時には文字も満足に読めないと言っていたミアが、知らない森へ行く前に自分から魔物図鑑を開いている。その変化を見ていると、コウイチも少し嬉しくなった。
「ありました」
しばらくして見つけたオイルリザードは、全長1メートル半ほどの太った蜥蜴型魔物だった。
動きそのものは極端に速くないものの、全身を覆う鱗が硬く、危険を感じると岩場や倒木の隙間へ逃げ込むため、仕留め損ねることが多いらしい。噛む力も強く、Fランクから上がったばかりの冒険者が油断して手を出せば怪我をすることもあるという。
ただ、コウイチが興味を引かれたのは戦い方よりも、その下に書かれた素材の説明だった。
「脂腺……皮の下にあるのか」
「これが油になるんですよね?」
「商業ギルドの人はそう言ってたな」
資料によれば、皮下から採れる脂はそのままでは臭いが強く、商品として使うには加熱や濾過など、いくつかの処理を行って不純物を取り除かなければならない。それを済ませた油は革製品の手入れや軟膏の材料として利用されているらしい。
その説明を読みながら、コウイチはミスリルについて調べた時のことを思い出していた。
鉱石を持っているからといって、それだけで金属について理解したことにはならない。鉱石を選び、精錬し、必要なら他の金属と混ぜ、形を整えることで初めて目的の品になる。オイルリザードの脂も似たようなもので、魔物から採取した時点ではまだ材料にすぎず、その先に商品へ変えるための工程がある。
「これ、今の俺が《生成》したらどうなるんだろうな」
「油をですか?」
「うん。完成品を見て、材料になる脂も持っていれば作れるかもしれない。でも、途中でどう処理してるのか知らないまま完成品だけ作ろうとしたら、ミスリルの短剣みたいに余計なMPを使う可能性もある」
あの短剣を作った時に感じた疑問には、まだ答えが出ていない。自分が対象を理解しているほど《生成》しやすくなるという仮説が正しいなら、素材そのものだけでなく、完成するまでの工程を知ることにも意味があるはずだった。
「じゃあ、オイルリザードも狩りますか?」
ミアに聞かれ、コウイチは少し考えてから首を横に振った。
「いや、やめとこう。今の時点で気になったものを全部狙ってたら、結局何も調べられなくなる。見つけて、安全に狩れそうなら考えるくらいでいいよ」
「はい」
「まず櫛を作って、それが売れるか確認する。油はその後だな」
そう言っておかないと、自分自身が次々と目移りしそうだった。
続いて調べたグラスビーは、オイルリザードとは別の意味で厄介な魔物だった。
人間の拳より大きな蜂型の魔物で、1匹だけならFランクの冒険者でも十分に倒せる程度の強さしかない。しかし巣の周囲では数十匹が群れを作り、さらに毒まで持っているため、群れとしてEランクに指定されている。
「これは近づきたくないな」
「私も嫌です」
「ミアなら先に気づけそう?」
そう尋ねると、ミアはすぐに答えず、図鑑の挿絵を見ながら少し考えた。
「匂いなら分かるかもしれません。でも、風向きによっては難しいと思います。羽の音は近づけば聞こえると思いますけど……」
「近づいてから分かっても遅いか」
「たぶん」
グラスビーの巣から採れる蝋には価値があり、革製品や木工品の仕上げ、薬の材料など複数の用途があるらしい。それでも初めて白樹の森へ行く日に、数十匹の蜂を相手にしてまで手に入れたい素材ではなかった。
「巣を見つけても近づかないで、場所だけ覚えておこう。必要になったら対策を考えてから来ればいい」
「はい」
コウイチは地図の中央付近にグラスビーの生息域を示す印をつけ、次に調べる予定だったムーンディアのページを開いた。実際の巣の位置を知っているわけではないが、中央部へ進む時には注意すべき場所として覚えておくつもりだった。
挿絵を見ただけでも、ホーンディアとは別物だと分かる。
大きな個体になると人間の背丈を優に超える体格を持ち、頭から伸びる角は太く複雑に枝分かれしていた。その内部には薄く魔力が流れているらしく、光の当たり方によって白銀にも乳白色にも見えると記されている。
「綺麗ですね」
ミアが挿絵を眺めながら呟いた。
「これが高級な櫛になるらしい」
「……高そうです」
「実際、高いみたいだな。ただ、その分だけ狩るのも大変そうだ」
ムーンディアは人間を積極的に襲う魔物ではなく、むしろ警戒心が強いため、人の気配を察すれば先に逃げることが多いらしい。しかし足が非常に速く、普通の冒険者では追いつくことが難しいうえ、逃げ道を塞いだり追い詰めたりすれば態度が一変する。
角へ魔力を集中させた突進は盾ごと人間を弾き飛ばすほど強力で、さらに聴覚と嗅覚にも優れているため、こちらが見つけるより先に逃げられることも多い。
「音にも匂いにも敏感か。狩る以前に、近づくのが難しいんだな」
「私と少し似てます」
「そう考えると、ミアがいても簡単じゃなさそうだな。向こうもこっちを見つけるのが得意なら、索敵だけでどうにかなる相手じゃない」
資格の上では、Dランクになったコウイチなら討伐対象にしても問題はない。だが、DランクになったからDランクの魔物を安全に倒せるわけではなく、グレイヴァルとの戦いでは実際に撤退も経験している。しかも今回は討伐依頼ではなく、櫛の材料を探しに行くだけなのだから、わざわざ危険を増やす理由もなかった。
「ムーンディアは今回は狙わない。まずホーンディアの角で普通の櫛を作って、それが売れてから考えよう」
「はい。まだ安い櫛も作ってませんから」
すぐに返された言葉に、コウイチは一瞬黙ってからミアを見る。
「……ミアの方が商売人に向いてきたんじゃないか?」
「お給料、増えますか?」
「そこまで覚えなくていい」
ミアが小さく笑い、コウイチもつられて笑った。
必要な魔物について一通り確認した後は、白樹の森そのものについても調べておくことにした。
外縁部には白い樹皮を持つ木々が多く、下草もそれほど深くないため比較的視界が通る。しかし中央へ進むにつれて岩場や湿った低地が増え、その環境の変化に合わせるように生息する魔物もFからEへ変わっていく。さらに深部まで進めばムーンディア以外のDランク魔物もいるらしく、同じ森だからといってどこまで行っても同じ危険度ではない。
今回向かうのは外縁部までで、目的はホーンディアの角を確保し、櫛を試作すること。それ以外の素材については、見つけたからといって無理に手を出さず、まず存在と場所を覚えて帰ればいい。
そこまで決めてから本を閉じると、コウイチは向かいに座るミアへ目を向けた。
「こんなところかな」
「はい」
「明日行ってみよう。知らない森だから、いつもより早めに出ようか」
「分かりました」
ミアは自分が使った本を抱えて棚へ戻しに行った。コウイチも借りていた地図を畳み、受付へ返すために立ち上がる。
最初は櫛の材料を探していただけだったが、調べてみれば外縁部には角や繭があり、中央には油や蝋があり、さらに奥へ行けば高級素材になる魔物までいる。今すぐ全部を利用することはできなくても、知っておけば後から使えるかもしれない。
魔物の狩場というより、商品の材料が眠っている場所として見えてきた。
もっとも、その材料には牙も爪もあれば、こちらを殺せるだけの力もある。市場の商品棚を見るような気分で森へ入れば、いつか痛い目を見るだろう。
◇
翌朝、ラグナードの南東門を出たコウイチとミアは、白樹の森へ続く街道を歩いていた。
空はよく晴れており、街道では時折荷馬車とすれ違う。商業ギルドで聞いた通り、少なくとも森の近くまでは比較的安全な道らしく、護衛を数人つけただけの商人や、採取道具を背負った冒険者の姿も見かけた。
コウイチの武器は、これまで使い続けてきたB品質の鉄槍だ。腰には投擲用の短剣を収め、鎧も動きやすさを損なわない範囲で補強されたものに替えてある。隣を歩くミアも軽量の革鎧を身につけ、腰にはミスリル合金の短剣と、以前から使っているB品質の短剣を予備として下げていた。
装備だけを見れば、初めて黒狼の森へ入った頃とは比べものにならない。それでも、知らない狩場へ向かう以上、装備が良くなったことを安心材料にしすぎるつもりはなかった。
「ミア、今日はホーンディアが目的だから、中央部には入らないようにしよう。何か分からない気配を感じたら、倒せるか考える前に教えて。それと、ホーンディアを見つけても追いすぎない。逃げられたら――」
「コウイチ様」
「何?」
「昨日も聞きました」
そこで言葉を止めると、ミアの口元が少しだけ緩んでいた。
「……そうだったな」
「3回目です」
「3回も言った?」
「はい」
自分でも慎重すぎるとは思うが、初めて入る森で慎重すぎて困ることはないだろう。それでも4回目を言えばさすがに鬱陶しがられそうなので、コウイチは続きを飲み込んだ。
街道を進んでいくと、やがて遠くに白っぽい森が見えてきた。近づくにつれて、その名前の由来も分かってくる。幹の表面が灰白色をした木々が広い範囲に連なり、差し込む陽光を反射するため、黒狼の森より全体が明るく見えるのだ。
森の手前には数人の冒険者がおり、中には装備がまだ新しい若者たちもいる。外縁部にFランクの魔物が多く、新人冒険者も利用するという話は本当らしい。
「見た感じは歩きやすそうだな」
「でも、匂いは多いです」
森へ入ってすぐ、ミアが鼻をわずかに動かしながら周囲を見回した。
「魔物?」
「動物もいます。草と木の匂いも強いですし……人も何人か通ってます」
「冒険者が多いからかな」
「たぶん」
黒狼の森とは違って頻繁に人が入る場所なのだろう。地面には何度も踏み固められた跡が残っており、入口からしばらくは獣道というより細い山道に近かった。
それでも少し奥へ入れば人の声は聞こえなくなり、代わりに葉が擦れる音や小動物の気配が目立ち始める。
途中で小型の魔物を1匹見かけたものの、こちらに気づくと茂みの中へ逃げていった。依頼を受けているわけでもなく、その素材にも今のところ用はないので追わず、そのまま周囲を警戒しながら進んでいく。
それから30分ほど歩いたところで、少し前を進んでいたミアが片手を上げた。
その合図を見た瞬間、コウイチも足を止める。
「何かいる?」
「はい。前の方に1匹います。あまり大きくないですけど、動物じゃなくて魔物だと思います」
「こっちには?」
「まだ気づいてないと思います」
ミアが視線で示した方向には、灰白色の木々が並んでいるだけで、コウイチにはまだ何も見えない。
槍をいつでも使える位置へ持ち替え、ミアの少し後ろを進みながら音を立てないよう距離を詰めていくと、やがて白い幹の隙間に茶色い体が見えた。
4本の脚で下草の間をゆっくり歩きながら、ときおり地面へ顔を下ろして草を食べている。その頭には、図鑑で見たものと同じ太い角が前方へ伸びていた。
コウイチは木の陰からその姿を確認し、声に出さず《鑑定》Lv3を使った。
【ホーンディア】
【Lv:4】
【危険度:F】
【状態:警戒なし】
MPを4消費したが、探していた魔物で間違いないことが分かり、幸いこちらの存在にもまだ気づいていない。
ここで正面から近づけば、逃げられるか、追い詰めた場合にはあの角で突進してくる。今のコウイチなら正面から戦っても負ける相手ではないだろうが、わざわざ相手が一番強い形で戦ってやる理由もなかった。
隣のミアを見ると、彼女もすでにこちらを見ていた。
コウイチは声を出さず、自分が右から回ることを指で示したあと、反対側を軽く指す。ミアはすぐに意図を理解して小さく頷くと、腰を落としたまま左側の木々へ紛れていった。
黒狼の森へ初めて入った時は、魔物の名前すら知らず、どう動くのかも分からないまま命を懸けた。
今は違う。
相手の習性を調べ、危険な行動を知り、隣には自分より先に敵を見つけてくれる仲間がいる。だからこそ、その知識を過信してはいけない。
コウイチはホーンディアから目を離さないまま、足元の枝を踏まないよう慎重に右側へ回り込んでいった。




