第31話◇ コウイチ回顧――信じていた頃
規則正しく響いていた小さな音が、不意に止まった。
「……あれ?」
神崎恒一は作業台へ顔を近づけ、ルーペ越しに小さな機械式時計を覗き込んだ。数十年も前に作られた腕時計で、持ち主の父親が使っていたものらしい。部品の摩耗が激しく、持ち込まれた時には数時間動けば止まってしまう状態だった。
分解して洗浄し、摩耗していた部品を調整して組み直したところまではよかった。先ほどまでは問題なく動いていたのに、しばらく様子を見ているうちに再び止まってしまった。
「何でだ……」
独り言を漏らしながらピンセットを手にしたところで、向かいの作業台から声が飛んできた。
「神崎」
「はい?」
「今、何でだって言ったか?」
「言いましたけど」
「なら、そこからだ」
そう言って椅子から立ち上がったのは、この工房で30年以上時計を扱っている職人だった。恒一がここへ入った頃から仕事を教えてくれている人で、他の職人たちからは親方と呼ばれている。
親方は恒一の隣まで来ると時計を覗き込み、すぐに答えを言うのではなく、顎で時計を示した。
「何で止まった」
「それが分からないから見てるんですけど」
「馬鹿野郎。分からねえから聞いてんじゃねえ。何が原因だと思ってるか聞いてんだ」
「……面倒くさいなあ」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言いました」
少し離れた作業台から笑い声が上がった。
親方は恒一の頭を軽く小突くと、もう1度時計を見るよう促した。
「動いたからって直ったと思うなよ」
「さっきまで動いてたじゃないですか」
「明日止まったら、それは直したんじゃねえ。たまたま動かしただけだ」
「はいはい」
「返事は1回だ」
「はい」
恒一は苦笑しながら再びルーペを目へ当てた。
どこかに理由がある。
ゼンマイから生まれた力が歯車へ伝わり、調速機構によって動く速さを整えられながら針を動かしていく。部品の1つ1つは驚くほど小さいが、どれか1つが僅かに狂っただけでも時計は正確に動かなくなる。
洗浄も調整もした。それでも止まるのなら、まだ見落としている原因があるはずだ。
しばらく観察していると、ある歯車の動きがほんの僅かに鈍いことに気づいた。
「……ここか?」
時計を止め、慎重に部品を外して確認すると、軸に僅かな歪みがあった。
「親方」
「何だ」
「たぶん分かりました」
「たぶんじゃ客に返せねえぞ」
「今から確かめますよ」
「なら最初からそう言え」
また笑い声が聞こえた。
恒一も笑った。
それが、当たり前だった。
◇
「神崎、昼どうする?」
「いつもの定食屋でいいんじゃないですか」
「昨日も行っただろ」
「じゃあ何食いたいんです?」
「ラーメン」
「一昨日食ったでしょうが」
「時計屋が細けえこと気にすんなよ」
「細かいこと気にする仕事でしょうが」
そう返すと、隣を歩いていた先輩職人が声を上げて笑った。
恒一より5歳ほど年上で、恒一が工房へ入った頃にはすでに一人前として仕事を任されていた。失敗すればからかわれ、難しい修理が入れば一緒に頭を悩ませ、仕事が終われば何度も酒を飲みに行った。
恒一にとっては、親方とは違う意味で頼りになる先輩だった。
「じゃあ定食屋な。その代わり神崎の奢り」
「何でそうなるんです?」
「この前、残業してただろ」
「先輩もしてたじゃないですか」
「俺は家庭があるから金がない」
「それ俺に関係あります?」
「ある。独身は先輩に飯を奢る義務がある」
「初めて聞きましたよ、そんな法律」
くだらない話をしながら歩き、いつもの店へ入る。
あの頃の恒一は、人を信じることについて考えたことなどなかった。
考える必要がなかったのだ。
仕事を任せ、任され、分からないことがあれば聞き、困っている人間がいれば手を貸す。誰かが「やっておく」と言えば、その言葉を疑う理由などなかった。
少なくとも、あの日までは。
◇
警察が工房へ来たのは、何でもない平日の午後だった。
客から修理のために預かっていたアンティークの腕時計がなくなったという話を聞いた時も、恒一は自分が疑われるとは思っていなかった。
非常に高価な時計だった。
製造数が少なく、保存状態もよかったため、金額にすれば数百万円になるという。
「神崎さん、この時計を最後に作業されたのはあなたで間違いありませんか?」
「はい。昨日、状態を確認しました」
「その後は?」
「保管庫へ戻しましたよ」
「それを見ていた人は?」
恒一は少し考えた。
「いないと思います」
警察官が何かを書き留めた。
その時になって、ようやく恒一は質問の意味に気づいた。
「……俺を疑ってるんですか?」
「可能性を1つずつ確認しているだけです」
その言葉を聞いても、まだ腹は立たなかった。
自分は盗んでいない。
調べれば分かる。
それだけのことだと思っていた。
ところが、恒一の作業台からなくなった時計の付属品が見つかった。
さらに時計がなくなったと考えられる時間帯まで工房に残っていた人間の中に、恒一が含まれていた。
「これは?」
警察官から見せられた付属品を見ても、恒一には覚えがなかった。
「知りません」
「あなたの作業台にありました」
「だから何です?」
「心当たりは?」
「ありませんよ。俺が盗んだなら、何でそんな物を自分の作業台に置いておくんですか」
説明すれば分かると思った。
だが、同じ質問が形を変えて何度も繰り返された。
「何かお金に困るような事情はありませんでしたか?」
「ありません」
「誰かに借金は?」
「ないです」
「売却するつもりは?」
「だから、盗ってません」
何度答えても終わらない。
それでも恒一は、まだ信じていた。
事実を調べれば分かる。
自分を知っている人間なら分かってくれる。
だが、工房へ戻った時、最初に違和感を覚えた。
休憩室の扉を開けた途端、それまで聞こえていた会話が止まった。
「……お疲れ」
「お疲れ様です」
いつもなら誰かしらがくだらない話を振ってくるのに、その日は誰も何も言わなかった。
恒一が自分の席へ座ると、少し離れたところで会話が再開した。
聞くつもりはなかった。
それでも、聞こえた。
「本人は違うって言ってるらしいけどな」
「でも警察が何度も来るって、普通じゃないだろ」
「まあ……俺らには分からんよ」
声の主は分かった。
何度も一緒に飯を食った人間だった。
恒一は黙って缶コーヒーを飲んだ。
時間が経てば分かる。
そう思うことにした。
◇
時間が経つほど、元には戻らなかった。
露骨に犯人扱いしてくる人間はほとんどいなかったが、昼飯へ誘われることは減り、恒一が作業場へ入ると一瞬だけ視線が集まるようになった。
「神崎」
作業台へ向かっていた恒一を親方が呼び止めた。
「はい」
「お前、飯食ったか」
「まだです」
「なら食ってこい」
「……食欲ないんで」
「腹減ってる時に細けえ部品触んな。壊すぞ」
「子供じゃないんですから」
「いいから行け」
親方だけは何も変わらなかった。
それが逆に、恒一には分からなかった。
「親方」
「何だ」
「俺が盗ったと思わないんですか」
親方は手にしていた工具を置いた。
「知らん」
恒一は思わず笑いそうになった。
「……親方もそうですか」
「最後まで聞け」
低い声だった。
恒一が顔を上げると、親方は真っ直ぐこちらを見ていた。
「俺は警察じゃねえから、誰が盗ったかなんて知らん。だがな、俺が知ってんのは何年も一緒に仕事してきたお前だ。知らねえ誰かの話より、そっちで判断する」
以前なら、嬉しかったのかもしれない。
だがその時の恒一には、その言葉さえ素直に受け取れなかった。
この人だって、本当は疑っているんじゃないか。ただ口に出さないだけじゃないのかという考えが頭から離れず、親方の言葉を信じたい自分まで疑うようになっていた。
「……そういうの、もういいですよ」
「神崎」
「仕事戻ります」
親方の横を通り過ぎた。
呼び止める声は聞こえなかった。
◇
真相が分かったのは、それからしばらく経ってからだった。
時計を盗んだのは、恒一ではなかった。
ずっと一緒に働いていた、あの先輩だった。
金に困っていた先輩は、恒一が状態を確認して保管庫へ戻した後、時計を持ち出して売却しようとしていた。さらに、自分へ疑いが向かないよう、付属品を恒一の作業台へ置いていた。
話を聞かされた時、恒一はすぐには理解できなかった。
何度も一緒に飯を食った。仕事を教えてもらったこともあるし、酒も飲んだ。くだらないことで笑い、難しい修理を前に一緒になって頭を抱えたことも1度や2度ではない。
その人間が、自分に罪を被せた。
警察から事情を聞いた後、顔を合わせる機会があった。
「……悪かった」
先輩は俯いたまま言った。
恒一は何も答えなかった。
「お前なら……すぐ疑いが晴れると思ったんだよ」
その言葉を聞いた時、怒りより先に、何かが冷えていく感覚があった。
「俺なら?」
「いや、そういう意味じゃ……」
「俺なら疑われても大丈夫だと思ったから、俺にしたんですか」
「神崎……」
「もういいです」
それ以上聞く気にはなれなかった。
無実は証明された。
警察からも説明があり、工房の人間たちも恒一が盗んでいなかったことを知った。
それで全部元通りになると思っていたのかもしれない。
「神崎、悪かったな」
「いや、俺は信じてたんだけどさ」
「あの状況じゃ仕方なかっただろ。証拠まで出てきたんだから」
謝られるたびに、恒一は笑えなくなった。
誰かを責めたいわけではなかった。もし自分が同じ立場なら、疑わなかったと言い切れる自信もない。
だから余計に嫌だった。
昨日まで同じ場所で笑っていた人間でも、状況が変われば態度を変える。口では何とでも言えるし、後からなら「信じていた」と言うことだってできる。
それなら、言葉だけを信じなければいい。
結局、恒一は工房を辞めることにした。
退職の手続きをしている時、担当者から「残ってもいいんじゃないか」と言われたが、気持ちは変わらなかった。
「退職金と未払い分の給与については、後日振り込みます」
「書面でもらえますか」
「え?」
「金額と振込日。書面にしてください」
「いや、そこまでしなくても大丈夫だよ」
「お願いします」
以前の自分なら、そんな確認はしなかったかもしれない。
だが今は、口で「大丈夫」と言われるより、書かれたものの方が安心できた。
工房を出る前、親方の作業台へ挨拶に行った。
「お世話になりました」
「そうか」
「……すみません」
「何がだ」
恒一は答えられなかった。
あの時のことだった。
最後まで態度を変えなかったこの人の言葉さえ、自分は疑った。
だが、それを謝ったところで何かが戻るとも思えなかった。
親方はしばらく恒一を見ていたが、やがて作業台の上にあった古い腕時計を手に取った。
「神崎」
「はい」
「時計はな、止まったら原因を探せる。歯車かもしれんし、油かもしれんし、ゼンマイかもしれん。見つけて直せば、また動く」
「……はい」
「人間は面倒くせえな」
恒一は少しだけ笑った。
「本当ですね」
久しぶりに自然に出た笑いだった。
それが、この工房で笑った最後になった。
◇
――そこです!
声が聞こえた。
コウイチは目を開けた。
一瞬、どこにいるのか分からなかった。見上げた天井は、もう何日も過ごしているラグナードの宿のものだった。
身体を起こすと、肩にまだ僅かな違和感が残っていた。
昨日、グレイヴァルに岩壁へ叩きつけられたことを思い出す。
「……夢か」
時計の音は聞こえない。
機械油の匂いもしない。
もう、あの工房は遠い場所にある。
コウイチは再び枕へ頭を戻し、しばらく天井を眺めていた。
なぜ今になって、あんな夢を見たのか。
考えてみれば、きっかけは分かる。
昨日のグレイヴァルとの戦いで、自分には首の付け根が本当に弱点なのか、そこへ槍を突けば通るのか分かっていなかった。《鑑定》で確かめる時間もなく、普段なら確信できないものへ命を賭けるような状況だった。
それなのに、ミアが「そこです」と叫んだ瞬間、コウイチは迷わず踏み込んだ。
ロックリザードの時も、ストーンエイプの時も、ブレードホークの時も、ミアが相手を見続けていたことを知っている。分からないことを無理に分かったとは言わず、昨日だって最初に聞いた時には、はっきり「分かりません」と答えていた。
そのミアが最後には、迷わず言った。
――そこです!
だから身体が動いた。
そこまで考えたところで、昔の親方の声が蘇った。
――俺が知ってんのは何年も一緒に仕事してきたお前だ。知らねえ誰かの話より、そっちで判断する。
あの頃は、その言葉すら疑った。
親方が何を根拠に自分を信じていたのか、理解しようともしなかった。
だが昨日、自分がしたことは――。
「……俺、ミアを信じたのか」
口にすると、妙に落ち着かなかった。
何も知らずに信じたわけではない。
一緒に森へ行き、一緒に戦い、失敗したところも、怖がっているところも、それでも逃げずに少しずつ強くなっていくところも見てきた。分からない時に分からないと言えることも、できると思った時には自分から前へ出ることも知っている。
それでも最後の最後、自分では正しいかどうか確かめられなかったところだけを、ミアへ預けた。
親方も、そうだったのだろうか。
何年も一緒に働き、失敗も成功も見てきたうえで、最後に自分で判断した。
あの時には受け取れなかった言葉が、今になって少しだけ違って聞こえた。
もちろん、昨日1度ミアを信じられたからといって、全部が変わったわけではない。人を疑う癖が消えたわけでも、昔の出来事を許せたわけでもなかった。
ただ、ミアの声を聞いて踏み込んだ自分まで否定する必要はない。
静かな宿の中で、どこかの部屋の扉が開く音がした。
やがて廊下から小さな足音が近づいてくる。
誰なのかは、考えるまでもなかった。
コウイチは天井を見ながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
信じるって、こういうことだったか。




