第2話◇ 異世界での名前
森の中を歩き始めてから、どれくらい経ったのかは分からない。
太陽はまだ高い位置にあり、右腿には、さっきホーンラビットの角が掠めた傷が残っていた。歩くたびに鈍く痛み、致命傷ではないにしても、ここが安全な場所ではないことを思い出させるには十分だった。
コウイチ――いや、まだこの時点では神崎恒一は、木々の間を慎重に進みながら、ときどき立ち止まって周囲の音を確認した。
先ほどのホーンラビットが特別危険な魔物だったのか、それともこの森ではあれくらいが普通なのか。それすら分からない以上、無駄に動き回るより人の痕跡を探した方がいい。
そう考え、恒一は一度ステータスを開いた。
【名前】神崎恒一
【種族】人族
【年齢】35
【Lv】1
【HP】28/32
【MP】11/18
【固有スキル】
《鑑定》Lv1
《アイテムボックス》Lv1
《隠蔽》Lv1
《生成》Lv1
HPが減っているのは、ホーンラビットに受けた傷の影響だろう。
問題はMPだった。最初は18あったものが今は11まで減っており、雑草や木、小石を《鑑定》し、水や木の棒を《生成》し、さらにホーンラビットを調べたことで消費している。
使えば減る。それ自体は当たり前といえば当たり前だが、回復方法も分からない以上、気軽に使えるものではない。
恒一はステータスを閉じ、再び歩き始めた。
しばらくして、木の根元に見覚えのない草が生えているのを見つける。周囲の雑草より葉が細長く、わずかに青みがかっていた。
「……これは?」
しゃがみ込み、《鑑定》を使う。
【ヒール草】
品質:C
用途:傷薬・下級ポーションの材料
「傷薬……」
恒一は右腿へ視線を落とした。使い方までは分からないが、少なくとも傷を治すために使われる植物らしい。
そして、もう1つ気になる情報がある。
材料。
ホーンラビットの角や毛皮と同じで、材料として使われているなら、それを必要とする人間がいる可能性が高い。
「……これも売れるかもしれないな」
恒一はヒール草を根元から傷つけないよう採取し、《アイテムボックス》へ収納した。
さらに周囲を探してみると、少し離れた場所にも似た草が生えていた。今度の株は先ほどのものより葉が厚く、色もわずかに濃い。
「違うな」
見た目だけでは何が違うのか分からないため、恒一はもう一度《鑑定》を使った。
【ヒール草】
品質:B
用途:傷薬・下級ポーションの材料
「……品質が違うのか」
最初がCで、今度がB。同じヒール草でも品質に差があるらしい。
恒一は2株を並べて見比べた。完全に同じではなく、Bの方が葉に厚みがあり、色も濃く、全体的に張りがあるように見える。
試しにステータスを確認する。
【MP】9/18
ヒール草2株への《鑑定》で、MPが11から9へ減っていた。
「……1本ずつ調べてたら持たないな」
《鑑定》は便利だが、何でもかんでも使えばMPがなくなる。なら、覚えられるものは自分で覚えた方がいい。
恒一はBとCのヒール草をもう一度見比べ、葉の厚みや色、根元の形を頭に入れた。それからは、似た植物を見つけてもすぐには《鑑定》を使わず、まず目で確認することにした。
明らかに違うものは除外し、ヒール草らしい特徴を持つものだけ採取していく。正確な品質までは分からないが、それでも片っ端から《鑑定》を使うよりはいい。
森を歩きながら、恒一は少しずつヒール草を集めていった。最終的に集まったのは9株で、あとで分かることになるが、内訳はBが1株、Cが4株、Dが4株だった。
少なくとも、完全に見当外れの草ばかり集めたわけではないらしい。それだけでも、《鑑定》に頼り切らず覚える意味はあった。
しばらくすると、木々の間から不自然な音が聞こえてきた。枝を折るような音に続いて、低い声がする。
恒一はすぐに足を止め、近くの木の陰へ身を寄せた。隙間から様子を窺うと、少し先に人影のようなものが見える。
いや、人ではない。
背丈は恒一の胸ほどしかなく、緑がかった肌をしている。粗末な布を腰に巻き、手には木の棍棒を持っていた。
1匹ではなく、2匹いる。
「……あれが、ゴブリンか?」
異世界ものの知識が役に立つかは分からないが、見た目だけならそう呼ぶのが一番しっくりくる。
恒一は少し迷った末、《鑑定》を使った。
【ゴブリン】
Lv2
小型の魔物。
集団で行動することが多い。
棍棒や石など、簡単な武器を使用する。
ステータスを開く。
【MP】8/18
やはり1回で1減っている。
情報は得られたが、「集団で行動することが多い」という一文が気になった。目の前には2匹しかいないものの、近くに別の個体がいる可能性もある。
恒一は戦わずに離れることを選んだ。ホーンラビット1匹ですら、さっきは死にかけている。わざわざ2匹いる魔物を相手にする理由はない。
音を立てないよう慎重に後退していたが、足元に落ちていた枝を踏んでしまった。
パキッ、と乾いた音が森に響く。
ゴブリンの1匹がこちらを向いた。
「……まずい」
甲高い声が上がると、もう1匹もこちらに気づき、2匹そろって棍棒を手に走り出した。恒一はすぐに背を向けて走る。まともに相手をする必要はないし、逃げ切れるならそれが一番いい。
だが、木々が密集した森の中では思うように速度が出ず、こちらより身体の小さいゴブリンの方が木の間を抜けるのに慣れているようだった。徐々に距離が縮まり、このまま背中を向け続ける方が危険かもしれない。
恒一は前方を見ながら戦えそうな場所を探し、木と木の間隔が狭くなっている場所を見つけた。あそこなら、2匹が横に並んで近づくのは難しい。
「……あそこなら」
《生成》を使う。
頭に思い浮かべたのは、先ほど使った木の棒よりもう少し武器らしいものだった。先端を尖らせた石を長い柄に固定した、簡素な槍。
理解できる範囲で構造を想像すると、次の瞬間、手の中に重量が生まれた。
石槍だった。
MPがいくつ減ったのか確認したかったが、その余裕はない。恒一は木々の狭い隙間へ入り、振り返った。
先頭のゴブリンが棍棒を振り上げてくる。ホーンラビットのときとは違い、相手は武器を持っているうえ、こちらを殺すつもりで向かってきている。
怖い。それでも、今は逃げ切れない。
ゴブリンが棍棒を振り下ろした。
恒一は1歩下がってかわし、そのまま石槍を突き出した。穂先がゴブリンの腹へ刺さり、甲高い叫び声が上がる。
完全には止まらなかったため、すぐに槍を引いてもう1度胸元へ突き込む。今度は深く入り、ゴブリンの身体から力が抜けて、その場に崩れ落ちた。
後ろから来ていたもう1匹は、倒れた仲間の身体につまずくように動きを止めた。
恒一は考えるより先に槍を引き、距離を取る。
それでも、今は手を止めなかった。
2匹目のゴブリンが死体を避けて向かってくる。棍棒を振り上げる動きを見て横へずれ、空振りしたところへ石槍を突き込んだ。
1度目で動きを止め、さらにもう1度槍を突き込むと、ゴブリンは地面へ倒れた。
しばらく動かないことを確認してから、恒一は石槍を構えたまま呼吸を整えた。ホーンラビットを殺したときとは違い、人に近い形をしているせいか、胃の奥から込み上げてくるものも強かった。
それでも、吐かなかった。
「……慣れたくはないな」
呟いてから、ようやく槍を下ろす。
そのとき、視界に文字が浮かんだ。
【レベルが上がりました】
【Lv:1 → Lv:2】
続けてステータスが表示される。
【名前】神崎恒一
【種族】人族
【年齢】35
【Lv】2
【HP】36/36
【MP】21/21
《鑑定》Lv1
《アイテムボックス》Lv1
《隠蔽》Lv1
《生成》Lv1
「……回復してる」
右腿の痛みも消えていた。傷口を確認すると、さっきまであった裂けた跡までほとんど残っていない。
レベルアップでHPとMPが全回復したらしい。ありがたいが、これを当てにするのは危険だ。いつレベルが上がるのか分からない以上、回復手段として計算には入れられない。
恒一は手に持った石槍を見て、そこで気づいた。
「……しまった。これにいくつ使ったのか分からないな」
《生成》直後にMPを確認する余裕がなく、そのままゴブリンを倒してレベルが上がったため、消費量が分からなくなってしまった。
水や木の棒は1だったが、石槍も同じとは限らない。
「今度、余裕があるときに試すしかないか」
恒一は石槍を《アイテムボックス》へ収納した。
続いてゴブリンの死体も確認する。生きている相手に使うときとは情報が変わるかもしれないと考え、《鑑定》を使った。
【ゴブリン】
状態:死亡
耳:討伐証明として利用可能
小魔石:素材として利用可能
「討伐証明……」
つまり、ゴブリンを倒したこと自体に価値がある可能性が高く、さらに魔石は素材になる。死体をそのまま持っていけば、どこかで処理してもらえるかもしれない。
恒一は2匹とも《アイテムボックス》へ収納した。
森を歩き始めてから、かなり時間が経っている。そろそろ人のいる場所を見つけたい。
それからさらに歩き続け、途中で何度か立ち止まりながら木々の間から空の位置を確認した。日が少しずつ傾き始めており、このまま森の中で暗くなるのはまずい。
焦りが出始めたころ、足元の土の様子が変わった。地面が踏み固められており、自然にできた獣道ではなく、人が通っているように見える。
さらに少し進むと木々が途切れ、その向こうに幅のある道が現れた。
「……道だ」
初めて、人間の生活の痕跡を見つけた。
恒一は道へ出て左右を確認する。片方には何も見えないが、もう片方を遠くまで見ると石造りの壁のようなものが見え、その向こうには建物の屋根らしきものもある。
街だ。
恒一は自然と歩く速度を上げた。
近づくにつれ、街の規模が分かってくる。高い石壁に囲まれ、大きな門が開いており、荷車や人が出入りしている。門の前には武装した兵士らしき男たちも立っていた。
ラグナード。
もちろん、そのときの恒一はまだ街の名前を知らない。
それでも、森の中で目を覚ましてから初めて見つけた人間の街だった。
安心した一方で、別の問題が浮かぶ。
「……金、使えるのか?」
財布の中には日本円しかない。この世界で通用するとは思えず、身分証もない。
門へ近づくほどその問題が現実味を増してきたが、逃げるわけにもいかない。恒一は列に並び、自分の順番を待った。
やがて門番の男がこちらを見る。
「身分証を」
「持ってません」
正直に答えると、門番が少し眉を寄せた。
「どこから来た?」
「……森の方からです」
嘘ではない。
「旅人か?」
「まあ、そんな感じです」
怪しまれている気がするが、当然だ。自分でも相当怪しいと思う。
門番は恒一の服装を一度見たあと、事務的な口調で言った。
「身分証がないなら、入場料は銅貨5枚だ」
「……銅貨?」
やはり通貨が違う。
「持ってないのか?」
「この街で使える金は、今はありません」
門番の表情がさらに険しくなったため、恒一は慌てて続けた。
「ただ、森で魔物と薬草をいくつか取ってきました。売れるなら、そこから払えると思います」
門番は少し考え、隣にいた兵士と短く話した。
「冒険者ギルドへ行くつもりなら、仮入場を出せる。そこで素材を売ってから払え」
「できるんですか?」
「逃げれば次から入れんぞ」
「逃げません」
むしろ入れてもらえるだけありがたい。
恒一は仮の入場証を受け取った。
「冒険者ギルドは門を入って大通りを真っ直ぐだ。大きな剣の看板が出てる」
「ありがとうございます」
門をくぐると、石造りの建物が並び、大通りを多くの人が行き交っていた。露店からは焼いた肉やパンの匂いが漂い、荷車の車輪が石畳を転がる音や商人の呼び声が重なっている。
森の静けさとは比べものにならないほどの音と人の気配だった。その匂いを嗅いだ途端に腹が鳴り、金がないという現実を改めて突きつけられる。
「……飯も必要か」
まずは売るしかない。
門番に教えられた通り大通りを進むと、やがて大きな建物が見えてきた。入口には剣と盾を組み合わせた看板があり、中へ入ると剣を持つ者や槍を背負う者、鎧を着た者など、多くの武装した人間が行き交っている。
森で見たゴブリンとは違う意味で少し緊張しながら、恒一は奥にある長い受付カウンターへ向かった。その向こうには数人の職員が座っている。
空いている受付へ行き、声をかけた。
「すみません」
受付にいた若い女性が顔を上げた。
「はい。ご依頼ですか?」
「いや、冒険者登録をしたいんですが」
「初めてですね。では登録料として銅貨10枚が必要になります」
やはり金がいる。
「今、銅貨を持ってなくて。森で取った素材ならあるんですが」
受付嬢は少しだけ驚いたあと、頷いた。
「でしたら、先に買い取り査定をして、その金額から登録料を差し引くこともできますよ」
「お願いします」
これでようやく前へ進める。
受付嬢が書類を出した。
「お名前をお願いします」
「神崎恒一です」
受付嬢の手が止まる。
「……カンザキ?」
「はい。神崎が名字で、恒一が名前です」
「名字をお持ちなんですか?」
その反応で、この世界では名字を持つこと自体が珍しいのかもしれないと気づいた。
「珍しいんですか?」
「貴族の方などはお持ちですが……」
まずい。
恒一はすぐに考えた。貴族扱いされるのは面倒だし、この世界の常識も分からない状態で余計な誤解を増やしたくない。
「じゃあ、コウイチだけで登録できますか?」
「はい。もちろんです」
「それでお願いします」
受付嬢が書類へ記入し、しばらくすると小さな金属製のプレートを渡された。
【冒険者証】
名前:コウイチ
ランク:F
所属:ラグナード冒険者ギルド
登録番号:R-18427
恒一――いや、コウイチはプレートを手の中で見つめた。
この世界で初めて手に入れた身分証だった。
「これで冒険者登録は完了です。最初はFランクからになります」
「分かりました」
「それでは、素材の査定をしましょうか」
「お願いします」
まず、採取したヒール草を取り出す。
受付嬢が1株ずつ確認していった。
「全部で9株ですね」
「はい」
「品質は……Bが1株、Cが4株、Dが4株です」
やはり、自分の見立ては完全ではなかった。それでも、Bの特徴についてはおおよそ合っている。
受付嬢はそのまま計算を続けた。
「通常の買い取りなら、Dが銅貨1枚、Cが4枚、Bなら16枚です」
「そんなに違うんですか?」
「品質が上がるほど薬効も安定しますから。B品質はいつでも見つかるわけではありませんし、下級ポーションの材料としても扱いやすいんです」
コウイチは頭の中で計算した。Bが1株で16枚、Cが4株で16枚、Dが4株で4枚だから、合計36枚になる。
同じヒール草でも、品質によってこれだけ差が出る。《鑑定》で品質を見分けられる意味が、一気に大きくなった。
「薬草だけで銅貨36枚ですね」
「お願いします」
次は魔物だ。
「魔物の方は解体所で査定します。こちらへどうぞ」
受付嬢に案内され、建物の奥へ進む。広い作業場には大きな台が並び、刃物や桶、吊り下げ用の器具が置かれていた。
「では、魔物をこちらへ」
「分かりました」
コウイチは何も考えず、《アイテムボックス》を開いた。ホーンラビットに続いてゴブリン2匹を取り出し、3体の死体が作業台の上へ現れる。
その瞬間、解体師の手が止まり、近くにいた職員もこちらを見た。
「……兄ちゃん、それ収納系のスキルか?」
解体師の声を聞いて、コウイチはようやく気づいた。
「あ……はい」
「へぇ。新人でそいつ持ってんのか」
周囲の視線が集まっている。
まずい。
さっきまで能力は知られない方がいいと考えていたはずなのに、人のいる場所へ来られたことで完全に気が緩んでいた。
「珍しいんですか?」
「ああ。持ってる奴はいるが、そう多くはねぇな。荷物を運べるだけで仕事になるくらいだ」
コウイチは曖昧に笑った。今さら見せなかったことにはできない以上、これ以上余計なことを言わない方がいい。
失敗した。
解体師が査定を始める。
ホーンラビットは肉、毛皮、角。ゴブリンは討伐証明の耳と小魔石が買い取り対象になるらしい。
解体師の説明では、ホーンラビットは1匹で素材価値が銅貨22枚。解体料4枚を差し引き、手取りは18枚になる。
ゴブリンは1匹あたり素材価値が銅貨11枚で、通常は現場で耳と魔石だけを回収するため、処理料は2枚で済み、手取りは9枚だった。
ホーンラビット1匹で18枚、ゴブリン2匹で18枚なので、魔物の合計は36枚になる。薬草の36枚と合わせれば、今日の売却額は72枚だった。
受付へ戻ると、そこから冒険者登録料10枚と、門で立て替えてもらった入場料5枚が差し引かれた。手元に残ったのは57枚で、ようやくこの世界で使える金を手に入れることができた。
だが、安心するにはまだ早い。
「この辺で安く泊まれる宿ってありますか?」
受付嬢に聞くと、いくつか候補を教えてくれた。最も安いところならもっと抑えられるらしいが、食事が付かず、治安もあまり良くないという。
コウイチは迷った末、夕食と朝食が付く銅貨38枚の宿を選んだ。金は惜しいが、初めての街で治安の悪い宿へ泊まる方が怖かった。
宿代38枚を払うと、残ったのは19枚。明日も同じ宿へ泊まるなら、あと19枚必要になる。
身分証と今夜寝る場所は確保できたが、明日の宿代にはまだ届かない。
ギルドを出たあと、コウイチはすぐ宿へ向かわず、大通りを少し歩いた。武器屋、防具屋、道具屋、食料を売る露店を眺めながら、店先に何が並び、人々が何に金を払っているのかを少しでも覚えようとする。
手元にある銅貨19枚では大した物は買えないが、何がどれくらいの値段で売られているのかを知るだけでも意味はある。今日、自分が売ったヒール草は品質によって値段が大きく違い、魔物も種類によって価値が変わった。なら、ただ魔物を倒して素材を売るだけではなく、何が高く売れるのかを知ることも必要になる。
宿へ向かうころには、空が赤く染まり始めていた。
森で目を覚ましたときよりは、確実に前へ進んでいる。金を手に入れ、身分証も手に入れた。そして何より、この世界で生きていくための名前ができた。
コウイチ。
その名前で生きるための、最初の1日が終わろうとしていた。
感想や応援宜しくお願いします。




