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荒木謀叛

 信長は鉄張りの大船を建造するように指示していた。九鬼が六隻、滝川が一隻を建造した。

 完成した七隻を中心に船団を形成させ、大阪に向けて出港した。これに対して大阪方から小船が大挙して攻め寄せてきた。これを織田勢は敵を引き寄せ、あしらうように応戦する。機を見て鉄砲を撃ち掛けて敵船の多数を撃沈。海戦に勝利した織田勢は大阪湾の要所要所に配置され海上を封鎖した。


 九月。

 信長は鉄船を検分するために堺へと向かう。その見事な出来栄えに、九鬼と滝川には褒美が与えられた。


 十月。

 荒木村重に謀叛の恐れあり、との報せが入る。信長はこれを疑い、荒木に使者を出した。荒木は「野心などない」と答え、信長は「なら登城いたせ」と返答する。

 しかし荒木が登城することはなく、「この上は是非に及ばず」と信長は安土を出た。その間にも説得は続けらるが、荒木は応じなかった。


 十一月六日。

 毛利水軍の兵船六百艘が木津川口に押し寄せてきた。これを織田水軍が迎え撃つ。始めは毛利水軍に包囲されてしまった織田水軍が敗れるかと思われたが、敵大将船と思わしき船を大鉄砲で攻撃し撃破した。これに毛利水軍は怯み、織田水軍は敵を押し返すことに成功する。


 九日。

 信長は摂津に出陣し、軍勢を高槻と茨木に向かわせ城を包囲させた。高槻城主の高山右近はキリシタンであったので、宣教師を呼び「右近を説得してみせよ、さすれば教会の建設を許可する。失敗すれば宗門は断絶する」と申し渡す。これには宣教師は承諾するしかなく、高山も荒木に人質を出していたが大事の前の小事と説得に応じて開城した。

 茨木城も調略により開城させることに成功した。

 二城を攻略した織田勢は荒木の籠る有岡城を攻囲した。


 天正七(一五七九)年、八月。

 去年より明智光秀が攻略を進めていた丹波の平定がなる。


 九月。

 荒木が突如妻子を置き去りに供を五・六人連れて有岡城を脱出する。

 また、播磨からは羽柴秀吉が「宇喜多が赦免を申し入れてきた」と報告してきた。信長は秀吉が勝手に調略を進めていた事に怒り、追い返してしまった。秀吉も悪いが、信長もここに来て予定を狂わせるような出来事が多発することに苛立ちを感じていたのかも知れない。

 また同時期に信長の次男であり、伊勢国司の北畠家へ養子に入っていた北畠信雄が勝手に伊賀国(現在の三重県西部)へと攻め込んだ。その上、敗北してしまい「上方の戦に参加せず、勝手な戦を起こすな」と叱責された。


 十月。

 遂に有岡城が落城し、荒木の親類縁者は処刑されることになった。ある者は槍で刺し殺され、ある者は鉄砲で撃ち殺され、ある者は刀で斬り殺された。他にも家に押し込められた上で、火を放たれ焼き殺された者たちもいた。


 荒木は毛利の出兵を待っていたようだが、時間を稼ぐための堅城の高槻・茨木城は早々に開城。肝心の毛利勢は播磨で釘付けにされ、水軍も木津川口で阻まれてしまった。

 荒木の一党を苛烈な仕置きで処分したが、相次ぐ離反に歯止めをかけようとしたのかもしれない。だが、これが逆効果だったことは歴史が証明している。

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