播磨戦線
二月末日。
信長は相撲取り三百人を集めて安土で相撲見物をした。その中から二十三人の者が見事な相撲を取ったので褒美を与えられた。この様に信長は度々と相撲見物を催していた。
三月。
鷹狩りを行う。鷹狩りは信長の趣味の一つで、獲物を朝廷に献上したりしている。諸将が信長への贈り物に鷹を贈る程には浸透していた。
七日。
信長は上杉謙信の死亡を受けて越中への進出を考えていた。その為か越中の神保長住に気遣いをみせていた。
十日。
滝川・明智・丹羽を丹波へ送り城を落とさせた。
ところが、下旬に毛利・吉川・小早川・宇喜多ら中国地方の諸勢が来襲した。敵勢は山中鹿之助が籠る上月城を包囲した。山中は「我に七難八苦を」と月に願った変態だ。
これに対して羽柴と荒木が救援に向かうが、難所を何ヵ所も越えなくてはならず困難であった。
信長はこの機に中国勢を打ち破り一気に併呑しようと出陣を決意するが、重臣らに「敵は難所に要害を築いて在陣している。我々がまず様子を見て参るので、しばしご配慮ください」と諫められた。俺も一気にヤってしまえば良いと思ったが、そうでもないんだな。
そして、滝川・明智・丹羽が出陣した。
五月には後続が続々と出陣する。
十三日に信長が出陣となったとき、大雨が降った。この大雨により川が増水してしまった。信長は一度出陣すると決めたら頑として変更しないので、地元の者が船をあらかじめ用意していた。この事に信長は大変機嫌を良くした。
信長は戦況報告を受けて、安土の洪水被害を調べるために帰陣する。
六月。
信長は祇園祭を見物する。供には軽装で参加させる。
十六日。
羽柴秀吉が播磨戦線が膠着状態に陥ったため、指示を仰ごうと信長の下へと赴いた。信長は「ただ睨み合っても意味はない。軍勢を神吉・志方に向かわせて攻め破り、三木の城を囲め」と指示した。
二十六日。
織田勢は神吉・志方の城を攻囲した。織田勢の猛攻の前に城方は降伏を願い出るが、信長は全てをはねつけさせた。
七月。
まず神吉が落城。志方も敵わぬと城を捨てて退去した。その後、軍勢は三木城をした。




