第22話 職場放棄には職場放棄を
全員の目には、嵯峨が久しぶりにお蔦と過ごすためだけに早退したようにしか見えなかった。
数時間にわたって語られた感動的な過去さえ、欲望を盛り上げるための余興だったのではないか。そう疑いたくなるほど、会議室を出ていく嵯峨は満足げなものに見えていたのも事実だった。
中でも、嵯峨に対して持っていた経済的支配権を失うことで、今後嵯峨が本当に何をするか分からない状態になったことに悔いている茜と誠もまた、嵯峨の行動を理解できずにいた。遼州人は恋愛に疎い……少なくとも誠自身はそう思っている。近づいてくる女性へどう応じればよいかも分からない彼には、嵯峨の迷いのなさが腹立たしかった。
「みなさん!こんなこと……許されるんですか?要するに自分が一刻も早くセックスしたいためだけに早退するなんて……しかも部隊の隊長がですよ?おかしくありません?そんな話聞いたことがありませんよ!どこの世界にそんな理由で職場放棄する人間がいるんですか?」
誠のそんな叫びには珍しく本心から迫るものがあったので、いつもは『ああ、神前がまた何か言っている』程度の反応しかしないかなめですら珍しく真顔で誠を見つめていた。
「ああ、いましたね!ついさっきまでここに!あの出ていくときに僕たちに向けた得意満面の笑顔なんて僕が見た隊長の顔の中で一番いい顔してましたよ!あの人見た目が僕とあんまり変わらない年に見えるだけに僕にはすごく頭に来るんですけど!」
誠は正直嵯峨の早退する姿に呆れていた。ただ、同じように呆れるどころかもうすでに言葉が無く固まっている茜以外は全員が恐らく嵯峨ならばそういう結論で早退を言い出してそういう結果になるだろうことは半分想像がついていた。
「おい、神前。叔父貴が欲望に正直を通り越して人として終わっていて、そういう理由で早退を普通にする人間だなんてことは、会った初日に分からなきゃ社会人失格だぞ?これまでの半年間の付き合いの間オメエは叔父貴の何を見てきたんだよ。あんな行動をとる叔父貴が駄目なのは昔っからだろ?それにこれからはあの叔父貴の異常性欲をお蔦が受け止めてくれることで叔父貴経由で整備班が次々寝込むこともなくなるんだ。良いことじゃねえか?ここでまず叔父貴が得をする!」
突拍子もなくかなめはそういうと右手の指を一本折って皆を見回した。
「そしてはるばる甲武からあの駄目さをいいところだと言うアタシから見ると痘痕も靨のような惚れ方をしているお蔦の方もそういうことは嫌いじゃねえみたいだから叔父貴が頑張れば満足する……というか受け止められるかアタシにはそっちの方が不安だが、これはこれで叔父貴が残った分を自分で処理すればいいだけの話だからお蔦も得だ」
また指を一本折りながら得意げにかなめは周りを見回した。
「そしてこれはアタシら全員が叔父貴のせいで被害に遭ってきた叔父貴が風俗店で持ち帰ってくるあらゆる伝染病の危機から島田たち整備班が守られるから連中が次々と倒れてアタシらが整備班のやってた面倒くさい仕事も押し付けられないからこっちも得。まさに大岡裁きならぬ三方得だな!」
かなめは完全に嵯峨の事を諦めたというようにそう言って笑っていた。
「まーあの『駄目人間』が形だけとはいえ身を固めてくれればアイツの世話をしているアタシとしては助かるんだ……あの性欲の化け物があっちこっちで起こす問題でアタシが尻拭いをする必要が無くなる。島田は相変わらずだけど、最近日野もマシになってきたし、ここであの究極の問題児である『駄目人間』が起こす問題まで消えたらアタシとしては万々歳だけど……そうするとアタシは島田専属の保護司になるのか?勘弁しろよ……アイツが馬鹿で学習能力ゼロなのは昔から知ってるけど起こす問題はどれもくだらねえくせに、豊川署からは一番の危険人物扱いされているアイツの世話をアタシ一人でするのか?面倒くせーな」
ランが嵯峨を見る時だけ、他の隊員へ向けるものとは少し違う柔らかさがある。それを知っているアメリアは、わざと最もランが困る言葉を選んだ。
「島田君の話でずらしてるけど……ランちゃん、それ本音?隊長を他の女に取られて嫉妬してるんじゃないの?正直に言いなさいよ……お姉さんがしっかり聞いてあげるから!ランちゃんがあの駄目隊長を見ている時の視線を『お見合いで 振られ続けて 百回目』なんて句が浮かんじゃう私の目から見ると他の女子とは違うように見えるんだけど……それって気のせいだって言いたいの?正直に吐いちゃいなさいよ!あの『駄目人間』が大好きだって!」
冷やかすような調子でアメリアはランに向けてそう言った。これは完全にアメリアの『面白ければすべてよし』モードの発動だと誠は諦めた。
ランが嵯峨の言うことを聞く理由の一つに、彼への好意がある。それくらいはこの場の全員が知っていた。
ただしランの恋愛感覚は見た目どおり八歳児程度で、『好き』と性的な感情はまるで結びついていない。ランにとって嵯峨はせいぜい特別な『仲良しさん』なのだ。
それを承知で大人の恋愛に仕立て上げ、ランをかき回す。それこそがアメリアの喜びだった。
当然、恋愛感覚が8歳児でアメリアがこんなことを言う時は自分を何か面白い行動をとる珍生物扱いする時だと経験で分かっているランは顔を真っ赤にしてアメリアをにらみつけた。
「別に嫉妬なんかしてねーよ!嫉妬?なんでそんなもんをあのどこからどう見ても『駄目人間』以外の何者にも見えねえあの馬鹿にアタシがしなきゃなんねーんだ?アタシのあの馬鹿に対する見方は安城と一緒だ!隊長はただのアタシの上司でちょっと頭の回転の速いだけの駄目な奴だ!確かにアイツには一生かかっても返せない恩があるが……そんなことは関係ねー!アイツは銀河最悪の『駄目人間』!エロいことが出来る女なら相手は誰でも良い最低の男なんだ!そんな男の逸脱行動について考えるなんざ、脳みその無駄遣い以外の何ものでもねえ!」
完全にランを弄るモードに入ったアメリアの冷やかしにランは真っ赤になって反論した。ただ、反論すればするほどドツボにはまるのはアメリアのいつもの言動からして分かっていたので全員がその様子を生暖かい目で見守っていた。
ただ、これ以上ランが感情的になると『自分は機動部隊の半端者を鍛えなければいけない』モードに入ってその被害を受けるのが自分だと知っている誠は何とか話を元に戻そうとした。
しかし、それより早くその誠の苦悩を察して口を出せる自称誠の『許婚』がここで誠よりもうまく場を回そうと口を挟んできた。
「クバルカ中佐の恋愛論は僕も興味があるけれども、それは大人の恋愛ではないから正直今は置いておくべきだと思うんだ。義父上が望んでいるのは大人の恋愛なんだ。その点はクバルカ中佐も覚えておいた方が良いかもしれないね」
自称『美しい女性限定の恋の狩人』である『男装の麗人』かえではそう言ってランを見つめるが、ランが一瞬『性犯罪者のオメーが言うか?』と呆れた表情になるのを誠は見逃さなかった。
「そう考えてみると義父上とお蔦さんが、もう一度関係を築こうとしていることは喜ばしいことだと僕は思うよ。義父上の並外れた性欲を満たせるのは花街の太夫くらいしかいないだろうが……それでも不安なのは事実なんだ。お蔦さん……ああ、今の名は清原蔦と言ったね。義父上の妻としてこれ以上最適な存在は無いと言えるね」
再びランがかえでを見て『ああ、オメー等が義理の親子で無かったらアタシはとっくにオメー等をくっつけてたわ!』と言う顔をしているのが面白くなって誠はつい吹き出していた。
「そこで、茜お姉さま。いい加減その事実はお認めになった方が良いと僕は思うんだけど……義父上は昔からそういうお方で、今でもそういうお方だ。実際僕が前回の『殿上会』の時に僕やお母様の隙をついて何度も花街に金も持たずに向かおうとする義父上をお止めしたことを考えるとこれはむしろ歓迎すべきことだと考えた方がいいのではないですか?」
一人、頭を抱えて黙り込んでいる茜に向けてかえではそう言って笑いかけた。
「かえでさんの言う通り、理屈では分かっています。でも、昨日まで知らなかった女性を、今日から母と呼べと言われても無理です。少しくらい、気持ちを整理する時間をください。それにみじめな私をそんな勝ち誇ったような視線で父の破廉恥行為を正当化なさっても私の現実を受け止めるための条件整理の役には何にも立ちませんことよ」
茜は明らかに事態が自分にとって最悪の形へ落ち着いたことに絶望していた。
「しかし、隊長だけが良い思いをするというのはつまらないな……クバルカ中佐。私から提案があるのですが……」
状況をいつもの無表情で見守っていたカウラが突然そんなことを言い出した。
「おう、カウラ。この状況を打開できる考えがオメーにあると言うのならじっくり聞こーじゃねーか。アタシは今最低最悪な気分なんだ。それをなんとかできる案があればアタシがどーにかできることならなんでも受け入れるぞ」
ランは相変わらず面白くないと言う顔でカウラの言葉に応えた。
「隊長がああいった無責任な形で早退した以上、本日の隊長代行はクバルカ中佐です。隊長代行が現在緊急案件を一つも抱えていない主だった隊員に半休を認めることは規則上も隊の運用上も問題ありません。そもそも隊長だけがふざけた口実を使って堂々と職場放棄をするのは不平等です。どうせうちの部隊はすることも無いのですから、午後はここに居る全員が半休を取って月島屋に飲みに行くというのはどうでしょうか?いい加減な隊長に対する当てつけのサボタージュくらいする権利は我々にもあると思うのですがそれは間違っていますか?それに以前から女将の春子さんからは昼飲みを始めたからぜひ来てくれと言われていたので良い機会だと思うのです。こんな日に真面目に仕事をする気になどなれません。あの究極の『駄目人間』の部下であることを受け入れる時間を月島屋のあの美味しい焼鳥……中でもねぎまを食べながら検討すると言うのが現時点で我々に残された最高の選択肢であると私は考えています」
これまで常識人だと誠が信じてきたカウラは彼女のいつもの態度から考えられないような理論を展開して合法的なサボタージュを宣言した。誠は普段は仕事に関しては常識人であるカウラまでもが嵯峨の職場放棄の影響を受けてすでに自分たちも職場放棄をする権利があると言う理由を発見する方向に思考を変えていることに愕然とした。
「カウラさん……それはあまりに無責任じゃ……一応、勤務規則とか……管理部の人たちが何を言っても知りませんよ?特に高梨部長とかこういうことには厳しそうじゃないですか?」
誠は普段は真面目なカウラの一言に衝撃を受けていた。
「神前!高梨部長が何を言おうが関係ねえ!あっちは平常運転であることが褒められる組織だ!アタシらはいざという時に何かを成し遂げることにこそ意味がある組織!そして今はそんな何かは起きてねえ!つまりアタシらは何をしようが関係ねえってことだ!神前はこの半年で何を学んで来たんだ?管理部の話をここで持ち出すなんてその辺をアタシは疑いたくなってくるぞ?そうだな。叔父貴の野郎はその間に女とよろしくやってるんだ。アタシらが酒を飲んで夜まで騒いで何が悪い!ランの姐御!ご決断を!アタシらは今することはねえ!そして叔父貴の好き勝手に心底呆れ果てている!そうしたらすることは一つしかねえんじゃねえのか?なあ、姐御!」
かなめはすっかりサボる気満々でそう言ってランに目をやった。
「そうだな。あの馬鹿の話を散々聞かされてアタシも頭に来てる!仕事なんかできるか!昼になったら管理部、それと当直と緊急待機の連中は残れ。代休は後で出す。それ以外は半休だ!そしてここに居るメンツと外で聞き耳を立てていた連中の中の有志で月島屋に乗り込む!お代は全部アタシのおごりだ!徹底的に飲むからな!中途半端で済ます気はねーから徹底的に昼から飲むからな!アタシは遼南共和国が終わった時に遼州圏の主要国はおろか、遥か地球圏からもアタシが欲しいと言ってきてそれほど奪い合いになって東和共和国が金にモノを言わせた給料を提示して今ここにいるわけだ……そのことを舐めるんじゃねーぞ?」
ランは完全に責任を放棄してそう言い放った。
誠はもうすでにこれは自分を待っているのは地獄の飲み会だけだと言う事実を再確認していた。




