第九章 墓の前で
父は焼酎のグラスを回した。氷が内側に当たって、音が二つした。
「調べは電気ってことになってる。それでいい。俺も疑っちゃいない」
じゃあ何の話だ、と僕は訊いた。台所の水音は止まったままで、桃の皮が流しの縁に一本掛かっている。
「疑ってないが、考えることはある」と父は言った。「由紀だって、あの暮らしから抜け出したかったんじゃないか」
僕はグラスに伸ばしかけた手を戻した。
「順番の話だよ。あの人は、娘さんと二人で山へ行くつもりだった。行くつもりで、行かないで済んだ。済んでから、うちへ来た」
事故だろ、と僕は言った。
「事故だ。事故ってのは、誰かにとっては都合がいいことがある」
父は氷を一つ口に入れて噛んだ。それから、あの晩はよく寝ていたそうだな、と言った。長いこと浅い眠りで暮らしてきた人がだ、と続ける。疲れてたからだよ、と僕は返した。あんな生活をしていたら誰だってそうなる。父は、だろうな、それでいい、と言って、グラスの底を卓に置いた。
「戸の話もある。娘さんの戸は開いた。あの人の戸は開かなかった。同じ家で、二つの戸だ」
「火が違うところにあったんだろ。父さん、消防でもないのに」
そうだな、と父は頷き、それきり戸の話はしなかった。代わりに、山だの歩くだのをあの人は前の年からあちこちで言っていたらしいな、娘さんと二人で山へ入るんだと、と言う。それがどうかしたのかと僕が訊くと、言っておけばそういう暮らしだったということになる、と返ってきた。
僕は父の指を見ていた。爪の脇が割れている。会社の名前の入ったライターを、さっきから卓の上で立てては倒していた。
僕は椅子を鳴らして立った。
「父さん、酔ってる」
酔ってるよ、と父は言った。
「じゃあ言うけど」声が思ったより高く出た。「先生に父さんを会わせたのは僕だ。面談の帰りに職員室へ行かせたのも僕。断ったのは父さんだろ。あの子がいなけりゃ話は簡単だった、って言ったのも父さんだ」
台所のほうは見なかった。見ないでいることに、力を使った。
「火事のあとで、もう一度会ってくれって頼んだのも僕だよ。父さんは本気かって訊いて、僕が本気だって言ったから会ったんだ。お母さんは、一度だって自分から何か頼んだことがあるか」
父はグラスを置いた。
「ないな」
だろ、と僕は言った。
「ないから、言ってる」
それから父は、自分のいちばん得意な言い方をした。誰かを悪い人間だと決めるのも、いい人間だと決めるのも苦手だ、人はそんなふうにはできていない、という言い方だ。僕は何度も聞いている。聞くたびに、何も言い返せなかった。
お母さんが桃を持ってきた。皿に六切れ、切り口を上にして並んでいる。
「食べて」
卓に置いて、自分も椅子に座った。一切れ取って、しばらく持っていて、皿へ戻した。
父は二日後にまた出張へ出た。玄関で靴べらを使いながら、桃、うまかったな、と言う。返事をしたのは僕だった。
*
八月の終わりに、お母さんが奥槙へ行くと言った。
家の様子を見て、二泊。父は出張のままだ。僕は休みが残っていたので、ついていった。電車は空いていて、二人で四人掛けに座った。窓の外は、途中から川と杉ばかりになる。
山屋は前より閉じて見えた。窓に内から紙が貼ってあって、中は見えない。お母さんは鍵を開けて中に入り、二十分ほどで出てきた。その日は上がらなかった。
二日目の晩、宿の屋上に上がった。
テラスに低い手すりがあって、洗濯物を干す紐が張ってある。町の灯は商店街の一筋だけで、あとは黒い。見上げると星の数が多すぎて、知っている形を探すのに手間がかかった。
お母さんは手すりに寄りかかり、北のほうを指した。
「北斗七星は、あっち」
僕は指の先を見た。柄の四つと、枡の三つ。
指はしばらく下りなかった。
「前にも、同じことを言ってた」と僕は言った。「テレビの前で。風の向きの見分け方のつぎに」
お母さんは指を下ろした。覚えてたの、と訊かれて、覚えてます、と答えた。
それから、どちらも何も言わなかった。
風が下から来て、洗濯ばさみが紐の上で動いた。
「会いたい」
声は低くて、町の音より小さい。
「千尋に、会いたい」
僕は手すりの鉄を握った。握ってから離して、その手をお母さんの手の甲に置く。言おうとしたのは、そんなこと言わないで、とか、その種類のものばかりだった。全部やめて、手だけ置いておいた。
お母さんは声を出さずに泣いた。肩が動いて、僕の手の下で、手の甲が濡れていった。
「明日、お墓に行ってもいい」
行きます、と僕は言った。
「いやなら、宿で待ってて」
行く、と僕は繰り返した。
*
共同墓地は集落から歩いて十分ほど、斜面の中腹にある。
入口に水場があった。蛇口が三つ並んでいて、右端はハンドルが回らない。回るほうの付け根に、白いものが輪になって固まっている。桶に水が溜まるあいだ、僕はそれを見ていた。柄杓は木の柄が痩せて、細くなっている。
墓は小さかった。
お母さんが草を抜き、僕が石に水をかけた。たわしは持ってきたものを使う。目地に入った土は取れなかった。
花は町で買ってきた。菊と、名前を知らない白いのと、緑の葉。二つの筒に半分ずつ挿す。線香に火をつけると、煙が立って、風で横へ流れた。
お母さんは鞄から、小さな写真立てを出した。
立てて、石の前に置く。入学のときの写真だ。色がついている。斎場で高いところに掛かっていたのと、同じ日に撮ったものだ。口の端が下がっていて、目がまっすぐこちらを向いている。
鞄の口が開いたままで、中に、画面の角が欠けた古い型が入っているのが見えた。使っていないはずのやつだ。
お母さんの携帯が鳴った。画面を見て、修司さんだ、と言う。
「ちょっと、離れて出るね。ここ、聞こえにくいから」
鞄は石の脇に置いたまま、お母さんは石段を下りていった。背中が木の陰に入って、見えなくなる。木の向こうで話し声はしなかった。風の音のほうが大きかったからだと、そのときの僕は思っていた。
僕は写真立ての前に一人になった。
線香の灰が伸びて、途中で折れて、落ちた。
膝が先に落ちた。草に手をついて、額を下げる。土が冷たくて、額の皮が張った。
「藤崎さん」
声が出ることに、自分で驚いた。
「僕だ。あの家に火をつけたのは、僕だ」
言ってから息を吸った。吸った分だけ、次が出た。
「ごめん。ごめんなさい。どうしても、お母さんが欲しかった。欲しくて、それで」
あとは続かなかった。続かないまま、同じことを繰り返した。ごめん。許してくれ。もう出てこないでくれ。夢に、出てこないでくれ。
草の匂いがして、線香の匂いがした。額は上げられなかった。
ポケットの中で、携帯が震えていた。
震えて、少ししてまた震える。何度も震えた。そのことを、僕はずっとあとになるまで思い出さなかった。
お母さんが戻ってきたとき、僕は立って、袖で顔を拭いていた。
「暑いね」
お母さんは写真立てを取って、布で拭いて、鞄に入れた。桶の水を流し、柄杓を伏せて、蛇口を締める。
帰りの坂で携帯を見た。父からのメッセージが四つ入っていた。いつ帰る、何日に帰る、返事をしろ。言い方を変えて、同じことが四回あった。
僕は、あと二日で帰る、と返した。
*
家に戻って三日目に、熱が出た。
朝から喉が痛くて、昼には立てなくなった。父は出張で、家にはお母さんだけだ。薬箱の音がして、水の音がして、それから足音が近づいた。体温計が鳴るたびに、数字を読み上げる声が枕のそばでする。三十九度二分。三十八度八分。読み上げてから、必ず少し間があった。
半分眠っているあいだ、廊下を歩く足音が耳のそばでした。中学のときと同じだ。あのときは、いない人の足音だと思って呼んだ。今度は、呼ぶ相手が家にいる。
僕は呼んだ。手を伸ばして、長いこと何かを喋った。中身は覚えていない。
目を開けると、お母さんがベッドの横に座っていた。
膝の上に洗面器がある。絞ったタオルを額に載せ、少ししてから取って、また絞る。汗を拭く手は、首から鎖骨のところで止まった。
薬を出して、水を飲ませて、コップを受け取る。そのあいだ、何も言わない。
「お母さん」
タオルを絞る手は動いていた。返事はなかった。
僕はもう一度呼ばなかった。呼ばないまま、目を閉じた。
翌朝、熱は下がっていた。
台所でお母さんが味噌汁を作っていて、振り向いて、おはよう、と言った。前の日までと同じ声だ。僕は昨日のことを聞き違いにした。聞き違いにするのは、慣れている。
昼に、お母さんが手帳を開いた。
「十一月にね、もう一度あっちへ行くの。内装の最後、見ておかないといけなくて」
一人で行くのか、と僕は訊いた。
「修司さんは無理だって。直人くんは、仕事があるでしょう」
行く、と僕は言って、箸を置いた。いつ、と訊く。
「まだ決めてない。第二週くらい」
「十一月の、第二週の土曜。朝の電車に乗る」
お母さんは手帳のその日に、ペンで日付を書いた。書いてから、丸で囲む。丸の線が一周して閉じるまで、ペンの先を紙から離さなかった。




