第八章 住まない家
高校に上がった年の秋に、お母さんが電話をしているのを聞いた。
台所の戸が半分閉まっていて、声は低い。基礎、屋根、外壁。数字をいくつか繰り返して、それから、急がなくていいです、と言っていた。受話器を置いてからも、しばらく流しの前に立っている。手には何も持っていない。
僕は廊下で足を止めて、そのまま自分の部屋へ入った。
そういう電話は、季節に一度くらいあった。
電話のあとのお母さんは、少しのあいだ、こちらの話が二拍遅れて届く人になる。洗い物の途中で手が止まって、水だけが流れている。畳んだタオルを広げて、もう一度畳み直す。
僕は台所へ入らないようにした。入らないようにして、廊下でそれが終わるのを待った。終わると、お母さんのほうから僕の名前を呼ぶ。
冬のある晩、居間でお母さんが本を読んでいた。
僕は床に座って、その膝のところに頭を置いた。高校生の男が、と自分でも思う。思いながら、どけなかった。お母さんは本を持ったまま、片手を僕の髪に置いた。
「お母さん」
「なあに」
「あの家、まだ建ててるんだよね」
髪の上の手は止まらない。うん、という返事があって、それから、ページをめくる音がした。僕はどうして、と訊いた。
「少しは、残しておかないと」
何を、とは訊かなかった。訊かなくても、この家にはもう一人分の名前がある。仏壇はない。写真も出ていない。それでも、十一月に入ると、お母さんの帰りが一日だけ遅くなった。
「村って、どんなとこ」と僕は訊いた。
「山の中。川が細くて、杉が多い」
古い家のほうを訊くと、返事が半拍遅れた。
「屋根が落ちてたの。写真、見せたことあったね」
僕は頷いた。頭が膝の上で動いた。
それから、お母さんはぽつぽつと話した。井戸のこと。祖父母の使っていた農具が納屋に残っていること。冬は坂が凍って、歩くときは端を選ぶこと。話しているあいだ、髪の上の手は動いていた。話が途切れると止まり、少ししてから、また動いた。
僕は井戸の深さと、納屋の農具の数を覚えた。覚えたところで、使い道はない。
十一月のその一日、僕は先に帰って飯を作った。お母さんは八時すぎに帰ってくる。上着を掛けて、手を洗って、卓についた。髪に雨の匂いがある。二人で食べて、二人で片付けて、それで終いだ。何も訊かないでいることは、訊くことより難しい。僕は毎年それをやった。
*
高校二年の夏に、お母さんと二人で奥槙へ行った。
槙瀬から電車で二時間。乗り換えが一度ある。奥槙の駅を出ると、ロータリーに車が一台だけ停まっていて、運転手が紙を持って立っていた。紙の名前は宮原になっていた。
車は川に沿って上がっていく。対向車は三台とすれ違った。三十分ほどで、道の脇に集落が開けた。
折沢は、思っていたより明るい場所だった。
斜面に段になって家が並び、そのあいだを細い舗装路が上がっている。畑にはトマトの支柱が立ち、実が赤い。物干し竿に大人の服が干してある家が、数えられるくらいあった。
数えられるくらい、ということは、それ以外は違うということでもある。道の左手の家は、雨戸が全部閉まっていた。戸の下の隙間から草が伸びて、戸板の節と同じ高さで止まっている。その隣も閉まっていた。ポストの口に、水を吸って膨らんだ紙が挟まっている。
車を降りたところで、向かいの家から人が出てきた。
「宮原さん。お暑いところを」
六十くらいの男の人で、首に手拭いをかけていた。お母さんは頭を下げて、去年の礼を言った。男の人は軽トラの荷台から瓜を二つ出して、押しつけるように渡す。
「奥の道、草刈っときましたから」
「すみません、いつも」
どこかの庭で犬が鳴いた。鎖の擦れる音が続いて、それから止んだ。
道の分かれ目に、バスの標識が立っていた。時刻表は日に焼けて、縁が反っている。上りと下りを足しても、字は八つしかない。四本ずつだ。僕はその数を、三年前に廊下で聞いている。聞いたときは、覚えておけと言われたはずだった。
お母さんの家は、集落のいちばん上にあった。
木の匂いがする。屋根と外壁はできていて、雨樋も付いていた。玄関の引き戸は新しく、下の敷居に削りかすが白く落ちている。
中に入ると、床は張ってあった。壁は途中だ。石膏の板が貼ってあるだけの面と、柱と筋交いが見えている面がある。部屋を仕切るはずのところに建具が入っていなくて、どこまでが部屋なのかがわからない。
電気は来ていた。裸の電球が天井から下がっていて、点けると床の木目が黄色く見える。
お母さんは家の中を一回りした。
柱を叩き、窓の鍵を開けて閉め、床を踏んで歩く。踏む場所を変えながら、音を聞いていた。
「水は」
「止めてある。来週、業者さんが来るって」
台所になる場所には、流しの箱だけが置いてあった。箱の上に段ボールが二つ載っていて、上の一つは口が開いている。中身は座布団だった。
僕は部屋を数えた。玄関を入って広い一間。その北側に一部屋。東南側にもう一部屋。廊下は短い。石膏の板に、鉛筆で数字が書いてあった。職人が書いたものだろう。
二階はない。屋根裏へ上がる口もなかった。
お母さんは縁側になる予定の場所に腰を下ろして、外を見ていた。杉が斜面の上まで立っている。風が来ると、上のほうの枝だけが揺れた。
僕は玄関の土間に立って、外の光の入り方を見ていた。日が傾くと、床の途中まで四角い形が伸びてくる。形の縁が、建具の入っていない柱のところで切れた。
「涼しいでしょう」
僕は土間から、涼しい、と返した。
「ここに座るとね」
言いかけて、やめた。やめたことに、僕は気づかないふりをする。瓜の袋が足もとで倒れて、僕はそれを起こした。
その日は泊まらなかった。
宿は町の中心にある。車で三十分下って、商店街の端の二階建てだ。夕飯は広間で、鮎が出た。お母さんは骨を外して、僕の皿に半分置いた。
「食べられる?」
僕は皿を少し寄せた。
箸の先で身をほぐしながら、僕はあの家に誰が住むのかを訊かなかった。訊かなくても答えは出ている。誰も住まない。屋根と壁だけがあって、中は途中で止まっている。止まったまま、雨と雪をしのいでいる。
*
高校を出て、僕は市の外の大学へ出た。
部屋を借りて、自分で飯を作る生活に戻った。中学のころにやっていたことを、誰にも見せずにもう一度やるだけだ。
帰るのは盆と正月と、あとは年に何度か。行く前には必ず電話をした。
「お母さん、日曜も家にいる? 僕も、その日に帰るよ」
「いるよ。何か食べたいものある」
「なんでもいい」
「なんでもいいが、いちばん困るの」
それで生姜焼きになる。切り方は、僕が中学で覚えたのと同じだった。どちらが先に覚えたのかは、もうわからない。
家の道具は少しずつ替わった。炊飯器が替わり、掃除機が替わり、湯呑みが一つ欠けて、同じ形のものになった。水切りかごは古いままで、椀を伏せるたびに底の網へ水滴が三つ四つ残る。拭いても、次に伏せればまた残った。
父とお母さんは喧嘩をしない。
用件は届く。父が出張から戻れば、お母さんは食事を出す。出張の日程は冷蔵庫に貼ってあって、字はお母さんのものだ。父はそれを見て、自分の予定を口で言う。
食卓では、父は僕に話し、お母さんも僕に話した。二人が直接やりとりするのは、醤油を回すときと、明日の時間を確かめるときくらいだ。僕は両方に話しかける。話しかけて、二人のあいだに言葉を渡した。渡すのは、中学のころから僕のいちばん得意な仕事だ。
大学のことは、家ではあまり話さなかった。何を専攻しているかは伝えてある。伝えてあれば足りる。電話は月に二度ほどかけた。用がなくてもかけて、天気と、父の出張の予定を訊いて、切る。切ってから、携帯を机に伏せて、しばらくそのままにしていることがあった。
帰省の回数は減らなかった。
大学を出てからも、盆には帰る。玄関で靴を揃えると、廊下の奥から返事が来る。返事の声は、年ごとに少しずつ低くなっていった。
僕は二十四になった。父は腹が出て、酒の量が増えた。お母さんは学校を替わって、まだ社会科を持っている。家の中で、誰もあの家の話をしない。話さないという決まりがあるわけではなく、話題にならないだけだった。
その年の盆も、そうして帰った。
夕飯のあと、父は早い時間から飲んでいた。ビールが二本。そのあと焼酎に替わる。お母さんは台所で桃を剝いていて、皮が一本につながって落ちていた。
父は箸置きを指で立てては、倒していた。
「なあ、直人」
「うん」
「あの火事な」
台所で、包丁の音が止まった。




