第十章 同じ間取り
電車は空いていた。
乗り換えの駅で二十分待つあいだ、ホームの端の自動販売機で温かいのを買って、手を温めてから飲んだ。上着のファスナーの引き手は相変わらず小さい。手袋を外して上げ、外したついでに首もとを直した。
紙は内ポケットに入れたままだ。三段に分けて書いた時刻の、二段目までは合っている。
山へ入ると、窓の外は杉と川になった。
十一月の川は水が少なく、石が白く出ている。日は午後の早いうちから斜めになって、谷の片側だけが陰になった。車内は暖房が効きすぎていて、途中で上着を脱ぐ。脱いで、膝に載せて、また着た。
奥槙の駅前には、夏と同じロータリーがある。停まっている車は一台で、運転手は夏と同じ人だった。向こうも覚えていて、こちらが名乗る前に後ろのドアを開けた。
車は川に沿って上がっていく。
途中で対向車と一度すれ違い、そのあとは一台も来ない。道の脇の温度の表示が四度を出していて、次の表示は三度だった。集落の手前で、運転手が、今夜は冷えます、と言った。窓を少し下げると、空気に煙の匂いが混じる。どこかで枯れ草を焼いているのだと、運転手が付け足した。
バスの標識を通り過ぎた。時刻表の字は、三年前と同じ数だ。
折沢に着いたのは、日が斜面の向こうへ落ちる少し前だった。家々の窓に明かりが入りはじめている。雨戸を閉めたままの家は、閉めたままだった。
いちばん上の家の前に、お母さんが立っていた。
「早かったね」
「乗り継ぎ、うまくいって」
お母さんは僕の鞄を見て、それだけ、と言う。三日分くらいです、と僕は答えた。車が坂を下りていく音が、しばらく聞こえていた。
道の向かいの家には明かりが入っていた。硝子の向こうで人の影が動いて、それからカーテンが引かれた。夏に瓜をくれた人の家だ。僕は会釈をする相手を探したが、もう誰も外にはいなかった。
*
家は、夏に見たときとは別のものになっていた。
玄関の引き戸を開けると、土間の奥に上がり框があって、その先が広い一間だ。お母さんは戸を閉め、鍵を回し、壁のスイッチを押した。
明かりがつく。目が痛くて、二度瞬きをした。
西側に窓が一つあった。
窓の脇に書架が立っていて、入りきらない本が床に積んである。背の高さがそろわない山が三つ、窓の下に寄せてあった。
北側に戸が一つ。東南側に戸が一つ。玄関へ出る短い廊下は、南西へ抜けている。
床の一角に絵本が並べてあった。並べてあるというより、置き場所が決まっている、という置き方だ。
僕は鞄を下ろした。下ろす場所も、体が先に覚えていた。
食器棚の硝子の向こうに、茶碗が二つと、湯呑みが二つ並んでいる。箸置きも二つだ。三人ぶんではない。この家は、はじめから二人が住むために建てられている。夏に来たときは建具も入っていなかったのに、いまは戸が閉まる。閉まる戸の向こうに、部屋が二つある。
本の背に指で触れると、新しいものと、そうでないものがあった。
角が焦げて、水を吸って波打っている一冊が、山のいちばん下にある。その上に積んであるのは、まだ帯の付いた同じ題の本だった。絵本も、表紙の色が一冊だけ褪せている。
僕は台所のほうを見た。流しの上の壁に、月ごとの予定表が貼ってある。枠は全部空白だった。
「お茶、いれるね」
お母さんは台所へ入っていった。薬缶に水を入れる音がして、火のつく音がする。棚を開ける音、閉める音。夏の宿でも、家でも、同じ順番で同じ音がした。
僕はその場に立っていた。
この部屋の広さも、戸の数も、窓の位置も、全部わかる。玄関から入って、短い廊下を抜けて、この一間に出る。北の戸の向こうが先生の部屋で、東南の戸の向こうが千尋の部屋だ。
あの家は壊されて、この家は新しい。新しいのに、歩く順番が同じだった。
振り返ろうとした。
後頭部に一度、鈍いものが来た。床の木目が近くなって、それから、何もなくなった。
目が覚めたとき、まだ夜だった。
明かりはついている。天井の電球の、笠の内側が見えた。首を起こすと、部屋の真ん中に椅子が置いてあって、僕はそこに座っていた。手首が椅子の後ろで合わさっている。足首も、前脚に一本ずつ取ってある。
後頭部が熱を持っていた。口の中に鉄の味がある。
お母さんは書架の前にいた。本を一冊ずつ抜いては、床に置いている。置き方に急いだところがない。抜いて、置いて、また抜く。床の本は、だんだん部屋の中ほどまで寄ってきた。
「お母さん」
声がかすれた。
「起きた?」
お母さんは手を止めずに言った。
「水、いる?」
僕は首を振った。振ると、後頭部の奥で音が鳴った。
試しに体を前に倒してみた。椅子の前脚が床から少し浮いて、戻るときに、背の継ぎ目が鳴った。古い椅子だ。座面と背のあいだに、指一本分の隙間がある。
もう一度、体重を前にかけた。同じところが、同じ音で鳴る。
部屋は寒くなかった。暖房が入っているらしく、壁のどこかで低い音が続いている。窓の外は黒い。硝子に、部屋の明かりと、椅子に座っている男の形が映っていた。首が前に落ちて、髪が額に貼りついている。
僕は手首を回した。回すと、縛ったものが皮に食い込む。食い込ませたまま、椅子の背に体を預けて、また前に倒した。継ぎ目が鳴る。鳴る回数を数えることにした。
*
お母さんは本を置く手を止めて、台所から椅子をもう一つ持ってきた。
僕の正面に置いて、腰を下ろす。膝の上に、鞄が載っていた。夏に墓地へ持っていったのと同じ鞄だ。
中から出てきたのは、画面の角が欠けた古い型だった。
「直人くん、返事はあとでいいから。まず、この声を聞いて」
親指が画面に触れた。
風の音がした。草の擦れる音。それから、僕の声がした。
――藤崎さん。
――僕だ。あの家に火をつけたのは、僕だ。
自分の声というのは、こんなに低いものだっただろうか。息の継ぎ方まで入っている。ごめん、と言うところで、一度、鼻をすする音が入った。
お母さんは最後まで再生した。再生が終わって、画面が暗くなるまで、指は動かさなかった。
「気づいたのは、お盆のとき」
僕は顔を上げられない。
「修司さんが火事の話を始めて、あなたが怒ったでしょう。あのとき、あなた、自分から順番を並べたの。職員室へ行かせたのは僕だ、火事のあとでもう一度会ってくれと頼んだのは僕だ、って」
声は平らだった。学校で進路の話をしていたときと、同じ高さだ。
「それまでは、変だとは思ってた。あの子の写真が出ていると、あなたは席を立つ。火事の話になると、水を飲みに行く。そういうことが、十年ぶんたまってた」
薬缶の口から、まだ細く湯気が出ていた。
「たまってるだけなら、考えないようにできる。でも、順番を並べられたら、並べ直せる」
お母さんは膝の上で指を組んだ。組んでから、片方の親指でもう片方の爪を押した。
「お墓のこと、私から言ったでしょう。屋上で。あれは、言おうと思って言ったの」
僕は頷いた。頷いたことが返事になるのかどうか、わからないまま頷いた。
「一人にしたら、何か言うかもしれないと思った。言わなければ、それでよかった。ほんとうに、それでよかったの」
僕は口を開けた。
出てきたのは、質問だった。
「あのとき、電話」
「うん」
「父さんからじゃ、なかった」
お母さんは古い型を膝に戻した。
「修司さんは、電話をしながら文字は打たない人だから」
夏の坂道で見た画面が戻ってきた。いつ帰る。何日に帰る。返事をしろ。四回。あれを打っていた人間は、そのあいだ、誰とも話していない。
僕は自分が、どこで見えるところに立っていたのかを知った。
*
お母さんは椅子を立って、書架の下の段から平たいものを出した。
画面のついた板で、電源の線が壁まで伸びている。床に散らした本を少しだけ寄せて、場所を作り、そこに置いた。僕の正面になる高さだ。
「これも、ずっと持ってた」
画面が明るくなった。
映っているのは部屋だ。上のほうから斜めに撮った画角で、右の端に戸が写っている。戸の内側に、机と椅子。壁の下のほうに、絵本の背が並んでいる。並び方に順番があった。
画面の中の時刻は、十一月のあの日の、日付が変わる前で止まっている。
「火事のあと、警察に出したの。控えは自分で取って、機械を替えるたびに移してきた」
お母さんは板の横に手を置いた。
「見てない。十年、見てないの」
指が画面の下のほうに置かれた。置かれたまま、押されない。
「警察は、あの子は怖くなって私を探しに出たんだ、と言った。私は長いこと、それを持って暮らしてた。でも、あの子は怖いと動かなくなる子なの。動かないで、その場で呼ぶ子なの」
画面の中の部屋は、明るくも暗くもない。絵本の背の並びだけが、はっきりしていた。
湯が沸いて、薬缶が鳴りはじめた。誰も台所へ行かなかった。




