第十一章 開けた扉
お母さんは薬缶の火を止めに行かなかった。
鳴る音が高くなって、そのうち、鍋の底が焼ける匂いがした。それでも立たない。膝の上で指を組んだまま、床の一点を見ていた。僕の足もとの板に、小さな節がある。木目がそこで渦を巻いて、また流れていく。
「あの子はね」とお母さんが言った。「お母さん、って呼ぶのが、上手じゃなかった」
僕は待った。
「呼ぶのは、危ないときだけだったの。ほんとうに危ないときだけ」
五つのときに一度、とお母さんは言った。療育の教室からの帰りに、大きい道で。次は学校で一度。校舎の、外に近いところで。そのたびに間に合った、と言った。何があったのかは言わない。言わないまま、そのたびに間に合った、とだけ繰り返した。
「間に合うたびに、私は言ったの。お母さんはあなたが大事だから、絶対にだめだよ、って。何度も言った。返事はないけど、あの子は聞いてる」
組んだ指の、親指が動いた。
「中学に上がってからは、落ち着いてた。だから私も、欲が出たの。学校に行けるなら、次はどうする、その次はどうするって」
薬缶の音が変わった。空焚きの音だ。
「三年になった年の、夏の前」
お母さんの声は、そこで一度止まった。
「画面を開いたら、あの子の部屋が映ってた。私は走った。間に合った」
僕は椅子の背に体を預けていた。預けた背が、継ぎ目のところで鳴った。
「訊いても、何も言わない。何を見たのとも、誰かに何か言われたのとも、訊いた。何も言わなかった」
六月だ。
六月に、僕は空いていた隣の椅子を引いて、そこに座った。式を書きながら、顔を横に向けずに言った。みんな、藤崎さんのお母さんは大変だって言ってる。先生、藤崎さんがいなかったら、ふつうに暮らせてたと思う。僕だったら、あの人にこれ以上かけたくない。
言い終わって、僕は式の続きを書いた。千尋は自分の答えを書いて、紙を引いて、椅子を引いて、立つ。廊下の窓のところへ行って、鐘が鳴ってから戻ってきた。
届いていない、と僕は思った。ここに届く道はないのだと思った。
口の中が乾いていた。
「そのあと、しばらく休ませたの。職員室にも、あまり出なかった。あなたが来てくれてたのに、顔を出せなくて」
夏だ。前の席が空きはじめて、放課後の職員室の戸が三度続けて閉まっていた、あの夏。僕はあのとき、自分が避けられていると思った。思って、次の日にはまた戸の前に立っていた。
「私が追い詰めたんだと思った」とお母さんは言った。「だから、やめたの。勉強を置いて、外へ連れて出た。歩くのは好きだったの。草で物を編むのも、火を起こすのも、一度見れば覚える。あの子が息をしてる場所が、やっとわかったと思った」
僕の足もとで、床板の節が、電球の光でわずかに窪んで見えた。
*
お母さんは画面に手を伸ばした。
指が触れて、時刻の数字が動きはじめる。
映っているのは、上から斜めに見下ろした部屋だ。右の端に戸があって、その内側に机と椅子。壁の下に絵本の背。画面の色は薄くて、輪郭だけが灰色に残っている。
「音、出るから」
お母さんは画面の横に指を置いた。置いたまま、離さない。
最初の何十秒かは、何も起きない。布団の膨らみが一度動いて、それから、人の形が起き上がった。
千尋は布団から出て、戸のほうへ歩いた。
歩き方は、教室で席を立つときと同じだ。急がない。足の下ろし方が、毎回同じ高さから下りてくる。
戸の前に立った。右手が上がって、把手のほうへ伸びた。
手が止まった。
触れたのか、触れる前だったのかは、画面ではわからない。わかるのは、その手が戻ってきたことだけだ。肘から折れて、胸のあたりまで戻って、そこで止まった。
それから、一歩下がった。もう一歩下がって、立った。
画面の中で、彼女は動かなくなった。
背中がまっすぐで、椅子の背にもたれるときと同じ角度だ。肩が上下しているのが、輪郭でわかる。
音が入った。
「お母さん」
声は高くも低くもない。部屋の中の、近いところで鳴っている。
僕はその声を、十年のあいだ一度も聞いたことがなかった。教室で聞いたことがない。食卓でも聞いたことがない。
それきり、呼ばなかった。
もう一度呼ぶだけの息はあったはずだ。肩は上下していた。口は動いていない。立ったまま、戸のほうを見ていた。
僕は昼休みの教室を思い出した。戸が熱くても、それが何なのかわからない子だから。怖くなって、母親のいるほうへ行こうとしたんだ。僕はそう言って、弁当の蓋のゴムを二度かけ直した。
あの日、彼女は戸に伸ばした手を戻している。教わったとおりにした。紙に煙の絵を描いたときと同じだ。彼女は目の前にあるものを指しただけで、そこに全部を見抜かれたという意味をつけたのは、僕だった。
*
画面の中の千尋が、動いた。
戸に背を向けて、窓のほうへ歩いていく。窓の下まで行って、立った。硝子の外は黒い。何が見えているのかは、画面には映らない。
肩の線が、少し傾いた。上を見たのかもしれない。
それから、振り返った。
体の向きが変わる。窓を背にして、戸のほうへ。戸のほうへ向いて、そこで止まらずに、もう半歩だけ体をずらした。ずらした先に、北の壁がある。壁の向こうに、廊下と、居間と、もう一つの戸があった。
お母さんの手が画面の縁を掴んだ。
「私の部屋は、こっち」
言ったきり、あとが続かない。
北の部屋の戸は閉まっていた、とだけ、しばらくしてから言った。鍵はかけていない。窓も閉めていた。外から梯子をかけられて、その窓から出された。出されたときのことは覚えていないという。
画面の中で、彼女は戸のほうへ歩き出した。
二歩。三歩。戸の前に立って、右手が上がる。
手の動きに迷いがない。教室で消しゴムを机の端へ置くときと同じ速さだ。決めたことを、決めたとおりの順番でやる手だった。
音が入った。
「お母さん、出ないで」
把手が回った。戸が内側へ引かれて、隙間に黒いものが入ってきた。
そこで、画面が止まった。
「ここで終わり」とお母さんが言った。「機械が焼けるまで、外へ送ってたの。送れたのは、ここまで」
止まった画面に、彼女の背中がある。戸の隙間に向かって、まっすぐ立っている背中だ。まばたきをすると、輪郭が薄くなる。
僕の手首は椅子の後ろにあって、掌が上を向いていた。指が開いて、閉じて、また開く。何かを掴む形になって、何も掴めない。
僕は口を開けた。声は出なかった。喉のどこかが閉まっていて、息だけが通った。通るたびに、音が鳴った。
彼女は呼ぶのをやめた。呼べば、あの人が出てくると知っていたからだ。知っていて、呼ぶのをやめて、それから、自分で開けた。
*
お母さんが立ち上がった。
画面の線を抜いて、板を床に伏せる。それから台所へ行って、薬缶を持ち上げ、流しへ置いた。金属が鳴った。
戻ってきた手に、本が一冊あった。
「お母さん」
返事はない。
お母さんは書架のいちばん下の段から取ったらしい本を、両手で持っている。表紙が焦げて、水を吸って波打っていた一冊だ。
台所の火のところへ行って、しばらく立っていた。戻ってきたとき、その手の先が明るかった。
床に散らした本の上へ、それを置いた。
置いて、少し離れて、もう一冊を取って、部屋の反対側へ運ぶ。運んで、置く。急いでいない。書架から抜いて床に並べていたときと、手の速さが同じだった。
三つめのところで、窓のカーテンに火が移った。
風は西から来ていた。家の建て付けのどこかに隙間があるらしく、炎の先がそろって東へ寝た。寝て、起きて、また寝る。
「お母さん、やめて」
僕は椅子ごと体を前に倒した。前脚が浮いて、落ちて、背の継ぎ目が鳴る。もう一度倒す。倒して、落として、鳴らした。座面と背のあいだの隙間が、指一本ぶんから、少し広くなっている。手首の皮は、とっくに擦り切れていた。擦り切れたところが濡れて、縛ったものが滑るようになった。滑るぶんだけ、回せる角度が増える。
お母さんは僕の正面の椅子に戻って、腰を下ろす。膝の上で指を組んで、火のほうではなく、僕の顔を見ていた。眉のあいだの縦の筋が、消えている。
「お母さん、外に出よう。出てから、何でも聞くから」
「直人くん」
「うん」
「あの子はね、最後まで、私の音を聞いてたの」
僕は答えられなかった。
「もう少しだけ、一緒にいてね」
煙は天井に溜まって、厚みを増しながら下りてきた。息を吸うと喉の奥が削れる。顎を引いて、胸のあたりの空気を探した。
本の山のひとつが崩れて、火が床を横に走った。走った先に、絵本の並びがある。並びの端の一冊から、表紙が反り返って、めくれた。
玄関へ抜ける短い廊下の口が、灰色の中へ入っていく。まだ形はわかる。框の角と、その先の土間の暗がりが、見えたり見えなかったりした。見えているうちに。
僕は前へ倒した。継ぎ目が、さっきより長く鳴った。




