↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十四歳の火  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/12

第十二章 外に残す人

 背の継ぎ目が割れたのは、数えるのをやめたあとだった。

 乾いた音が一つして、椅子の背が後ろへ傾ぐ。傾いだまま止まらずに、外れた。手首を通してあったものが、その隙間から抜けた。

 僕は前へ落ちた。肩から床に着いて、顎が板を打った。目の前に節がある。木目がそこで渦を巻いて、また流れていく。渦の窪みに、細かい埃が溜まっていた。


 床の近くには、まだ空気があった。

 息を二つ吸って、足首を見る。前脚に一本ずつ取ってある。椅子は横倒しになっていて、前脚の片方が座面から浮いていた。そこを両手で持ち、体の重みごと捻る。木が裂けて、脚が外れた。もう一方は結び目を指で探した。指は震えていて、二度、同じところを滑る。三度目で端が出た。


 立とうとして、膝が流れた。

 床に手をついて、もう一度立つ。天井のほうは見えない。灰色の底が、頭の高さまで下りてきている。

 火は西の窓の側から来ていた。書架の板が反って、背表紙が端から白くなる。白くなったところが、すぐに黒くなった。床に並べた本のあいだを、火が細い線になって走っている。線と線のあいだには、まだ床が見えた。見えているところを選んで踏んだ。


「お母さん」

 声は途中で咳になった。

 お母さんは正面の椅子に座ったままだ。膝の上で指を組んで、僕を見ている。逃げる構えではない。立つ構えでもない。

「直人くん」

「うん」

「座ってて」

 声は落ち着いていた。学校で、急がなくていいよ、と言ったときと同じ落ち着き方だ。

「いやだ」

「もう終わったの」

「終わってない」

「終わったのよ。あなたも、私も」

 僕は咳をしながら、その椅子のほうへ歩いた。足が床の本を蹴る。焦げた紙が、めくれて丸まっている。

 正面まで行って、膝をついた。膝の下で、板が熱を持っている。お母さんの顔は煤で汚れていなかった。髪も崩れていない。書架の前で本を並べていたときのままだ。

 僕は組まれた指に手を掛けた。指はほどけない。ほどく力は、こちらにも残っていなかった。

「外に出よう。出てから、好きなだけ怒っていいから」

 返事はない。

 お母さんは椅子の背にもたれていなかった。背筋が立っている。前の席の背中と、同じ座り方だ。中学の教室で、僕はそれを二年ぶん見ている。


    *


 僕は上着を脱いだ。

 脱いだそれを、お母さんの頭からかぶせた。

 肩が跳ねた。上着の下から手が出てきて、僕の腕を叩く。叩いて、押して、椅子の脚を床に噛ませようとした。爪が手首の擦れたところに入って、そこだけが別の痛み方をした。


 抱え上げるまでに、三度やり直した。

 手の位置が浅くて腰から滑り、椅子の脚が床の本に引っかかる。最後は椅子ごと横へ倒して、床から抱え直した。倒れる音は火の音に消された。

 膝の裏と背中に手を入れて、持ち上げた。

 思ったより軽くて、思ったより暴れた。踵が腿を蹴っている。蹴られるたびに足の運びが乱れて、一歩ぶんずつ、進み方が短くなった。

 上着の下から声がした。何を言っているのかは、わからない。言葉の形にはなっていた。

 一度だけ、聞き取れた。

「あの子のところへ行くの」

 僕は答えなかった。答えるだけの息がない。


 廊下の口へ向かった。

 短い廊下だ。短いのに、二度、足を止めた。止めるたびに腕の中のものが重くなって、肩の付け根が痺れた。

 框のところで一度、膝を打った。打った拍子に体が傾いて、壁に肩を当てる。壁は熱くない。熱いのは上のほうだ。顎を引いて、胸の高さの空気を探しながら歩いた。

 土間へ下りた。靴は履かない。足の裏に細かいものが刺さって、そのまま歩いた。

 玄関の引き戸に手を伸ばし、鍵を回す。内側からは、ふつうに回る。腕の中のものを落とさないように、肘で戸を押した。戸は途中で引っかかって、二度目で動いた。

 冷たいものが顔に当たった。外の空気だ。吸い込むと、胸の内側が裂けるように痛んだ。


    *


 外は夜で、人の声がしていた。

 道に懐中電灯の光が二つ、三つ。坂の下から上がってくる。軽トラのライトが斜面を照らして、杉の影が長く伸びていた。

 僕は道の真ん中まで歩いて、そこにお母さんを下ろした。下ろすときに上着がずれて、顔が出る。髪が乱れて、額に灰がついていた。目は開いている。

 背中にまだ、持っていたものの形が残っていた。腕を下ろしても、その形だけが残る。


 人が駆け寄ってきた。

 夏に瓜をくれた人だ。寝間着の上に半纏を着て、長靴を履いている。

「消防、呼んだ。救急も」

 その人はお母さんの脇に膝をついて、背中を支えた。女の人が毛布を持ってきて、肩からかける。誰も家のほうへは行かない。行こうとした若い男が一人、腕を掴まれて止められていた。

 坂の下のほうで、犬が鳴いている。

「中に、まだ誰かいるか」

 僕は首を振った。振ってから、いない、と声に出した。声が相手に届いたかどうかはわからない。

 誰かが僕の背中に毛布をかけようとした。肩から落とすと、その人は拾って、また持ち上げる。

「動かんほうがいい。座って」

 僕は首を振った。

「救急、あと十分だと」

 その十分が遠いのか近いのかが、わからない。坂の下の道に、赤いものはまだ見えなかった。

「あんた、名前は」

 訊かれて、口を開いた。出たのは咳だけだった。


 僕は立っていた。

 道が冷たくて、足の裏の感覚が薄い。咳が続いて、手のひらに黒いものがついた。

 ここにいれば、それで済む。救急車が来て、病院へ運ばれて、そのあとで何を訊かれても、答えるか答えないかを選べる。黙っていることもできる。十年、そうしてきたのだから、あと何十年でも同じようにできる。

 選べる場所に、僕は立っていた。立っていられた。

 家のほうで、屋根の一部が落ちた。音が坂を下ってきて、人がいっせいにそちらを向く。火の粉が上がって、杉の高さまで行って、消えた。


 お母さんが咳をした。咳をして、毛布の下から手を出し、宙を掴んだ。半纏の人がその手を取ろうとする。手はその人の指をよけて、僕のほうへ動いた。

 お母さんの手が上がって、僕の腕を掴んだ。

 指に力が入っている。掴んだまま、しばらく動かなかった。

 僕は身をかがめて、その顔の近くで言った。

「お母さん」

 喉が焼けていて、それだけで息が切れた。

「行くね」

 開いたままの口が動いた。

「だめ」

 声はほとんど出ていない。息の形だけが、その言葉になっていた。

 掴んでいた指が緩んだ。緩んでから、離れた。離れた手がどこへ行ったのかは、見なかった。


 僕は坂を上がった。

 うしろで誰かが名前を呼んだ。半纏の人が追いかけてきて、肩を掴む。僕はその手を外した。外すのは、思ったより簡単だった。相手は足を止める。

 坂の途中で振り返った。道に人が集まっている。毛布の膨らみが一つ。そのまわりに、しゃがんだ人が三人。こちらを見ている顔はなかった。あったのかもしれない。僕の目は、もうそこまで利かない。

 坂の下から、遠いところで音が聞こえはじめた。高さの違う音が二つ。十年前の晩と、同じ並び方をしていた。

 玄関の戸は開いたままだ。中は赤くて、廊下の口から熱が出てくる。

 框に足をかけて、上がった。


    *


 火は明るかった。

 どれくらい経ったのかは、わからない。水の音が止んで、黒い柱が何本か残っている。そのわきに父がいた。膝をついて、両手を地面に置いている。肩が動いていた。何を言っているのかは聞こえない。

 僕はそれを見ている。見えるだけで、何も動かせない。

 お母さん。

 生きてください。長く生きて、僕のことは思い出さないでください。


(了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。