第六章 窓のそば
その週の月曜、僕は自分の予定表を三月まで繰った。
下のほうの枠に、鉛筆で小さく印をつけた。丸では囲まない。囲むと、父の面談の日と同じ形になる。
九月の終わりから数えて、百八十日あった。数え終えてから、参考書を開いた。
三年の二学期は、はじめから予定で埋まっている。模試が二回、三者面談、願書の相談。放課後は自習室に残り、帰ってから父の分の洗濯をした。父は月に十日ほどしか家にいない。
十月に入ると朝が冷えた。去年の上着を出したら、ファスナーの引き手が小さくて、手袋をしたままでは摘めない。歯で咥えて引き上げ、それから手袋をはめ直すようになった。
前の席は、来る日と来ない日があった。
来る日の千尋は、いつもどおりだ。筆箱を開けて、鉛筆を三本、決まった向きに置く。丸いほうの消しゴムを机の端に出す。授業の途中で教室を出て、戻ってくると、机の上を並べ直してから座る。
僕はプリントを回した。肩は叩かなかった。叩く用がなかったからではない。叩いたところで、三つ数えるあいだに前へ戻る背中を、もう一度見ることになる。
廊下で先生に会うことがあった。
「宮原くん、寝てる?」
「寝てます」
「目の下」先生は自分の目の下を指した。「私と同じ色になってる」
日に焼けた顔のままだった。腕の時計の跡は、まだ白く残っている。次の週、三年の先生に頼んだという過去問の刷り増しを、職員室の前で渡された。
「去年のぶん。二部あるから、一部は誰かに」
「ありがとうございます」
僕は鞄に入れた。誰かに渡すつもりはなかった。
先生は廊下の窓のほうを見て、それから言った。
「引っ越したら、遠くなっちゃうけどね。受験が終わったら、いちど遊びにおいで。夏には泊まれるようにするから」
「バスは、ありますか」
「一日に四本。時間だけ、覚えておいて」
僕は、はい、と言った。言ってから、口の中でもう一度、四本、と繰り返した。
夜、歩くようになった。
父の家から汀丘の教員住宅まで、二十分ほどある。国道を渡り、坂を下り、畑の縁の道に入ると、六棟の裏側が並んで見える。いちばん奥の棟の、西側の窓に明かりが点いている。
カーテンは引いてあった。引いてあっても、窓の下に何が寄せてあるかは知っている。背の高さのそろわない本の山が三つ。書架の裏から這ってきた配線が、留め具のところでたわんでいる。
明かりが消えるまで、ブロック塀の切れ目に立っていた。消えてから、来た道を戻る。
十月の終わりの日曜、正面の道から見ていたら、玄関が開いた。
先生が段ボールを二つ、前庭へ出した。千尋が後ろから出てきて、紙紐で編んだ敷物を一枚、段ボールの上に載せる。載せてから、位置を直した。先生が何か言って、千尋は家の中へ戻り、もう一枚持って出てきた。
二人とも、こちらを見なかった。僕は電柱のところで、靴の紐を結び直すふりをして、結び終わってからも、しばらくしゃがんでいた。
駅のほうへ曲がった晩もある。入場券を買って改札を通り、ホームのベンチで上りを二本見送って、それから歩いて帰った。何をしに行ったのかは、自分でも説明がつかない。
十一月に入って、数は百三十を切った。
三月の下旬に何が起きるのかは、正確にわかっている。車が来て、荷物が載って、あの窓に明かりが点かなくなる。
その晩も、僕は明かりを見に行った。
*
十一月の、風の強い晩だった。
夕方から北西の風が吹いて、ベランダの物干し竿が鳴っていた。雨の予報は出ていない。父は九州に出ていて、戻るのは月末だと言っていた。
「冷蔵庫、空にしとけ。帰ったら買う」
「うん」
電話はそれで終わった。
九時に飯を食って、皿を伏せ、洗濯物を畳んだ。畳み終えてから上着を着た。引き手を歯で引き上げて、手袋をはめる。
二十分歩いた。畑の縁の道には街灯が一つしかない。風は北西から吹いて、南東へ抜けていく。枝の揺れる向きと、煙の流れる向き。先生が画面を指して千尋に教えていたのは、その見分け方だった。
西側の窓の下に、本の山が三つある。留め具のところで、配線がたわんでいる。
あの家に火をつけたのは、僕だ。
畑の縁まで下がって、しゃがんだ。
窓のガラスが、内側から白くなる。白さの中に、本の背の形が黒く浮いた。音が二つ。何かの折れる音に似ていた。それからガラスが鳴って、煙が出た。風に押されて、南東へ低く流れていく。
犬が鳴いた。どこかの戸が開く音。
「火事だ」
「どこ、どこの棟」
僕は立ち上がって、畑を横切った。
家に帰って、手袋を外した。右手の人差し指と中指のあいだが赤くなっていて、水を当てると、そこから痛みが来た。
布団に入って、天井を見ていた。
*
半分眠ったところで、サイレンが来た。
起きて、窓を開けた。北の空の低いところが赤い。雲の腹だけが赤くて、その下の屋根は黒かった。煙は街のほうへ、南東へ流れている。
音は二台、三台と増えていく。そのたびに、高さの違う音が重なった。あとから一つ、別の音のが入ってきた。救急車だ。
上着を着て、外へ出た。
道にも人が出ていた。畑の縁の道は消防の車で塞がっていたので、遠回りをして、六棟の正面のほうへ回った。ロープが張ってある。ホースが道に横たわり、継ぎ目から水が漏れていた。
いちばん奥の棟だけが明るい。屋根から火が出て、風に倒されて南東へ寝ている。水の当たるところだけ、音が変わった。焦げた匂いは、紙の焼ける匂いに近かった。
ロープの前で、近所の人が喋っていた。
「声、聞こえてたんだよ」
「誰の」
「女の子の。うちの窓から。お母さん、って」
もう一人は、そう、とだけ言った。
北側に梯子が立った。人が二人上がって、窓のところで何かをしている。
担架が出てきた。毛布がかけてあった。救急車のドアが閉まった。サイレンが鳴って、車は坂の上のほうへ走っていく。行き先を、僕は知らない。
家へ戻って、手を洗った。指のあいだの赤いところが、水で白くなり、また赤くなった。
朝まで起きていた。
朝、いつもどおりに飯を作って、いつもどおりに家を出た。校門のところで女子が三人固まっていて、僕が通ると声を落とした。
朝の会で、担任は出席簿を開かずに話した。
「昨日の夜、汀丘の教員住宅で火事がありました。藤崎先生のお宅です」
椅子が鳴った。
「藤崎さんが、亡くなりました」
誰も何も言わない。窓の外で、一年の体育の号令が続いていた。
「先生は病院です。今わかっているのは、それだけです」
僕は前の席を見た。椅子は机の下に入っている。天板の上には何も載っていない。
その日、警察は学校に来なかった。次の日も、その次の日も来ない。
新聞に小さく出た。木造平屋が全焼、一人が死亡、一人が搬送。原因は調べている、とあった。数日後の短い続報には、電気系統の故障が疑われるとある。断定はしていない。
職員室の前を通ると、大人の低い声がした。古い住宅だから、と誰かが言う。配線が、と別の誰かが言う。
見つからない、ということのほうが、先に僕のところへ来た。
昼休み、男子が机に腰をかけて言った。
「藤崎、部屋から出たらしいぞ」
「出たって」
「戸を開けて。お母さん呼びながら」
僕は弁当の蓋を閉めた。
あの子は、戸が熱くても、それが何なのかを知らない。怖くなって、母親のいるほうへ行こうとした。教室でも同じだ。先生の靴の音がしてから、手を動かし始める。そういう順番で動く。
蓋の上のゴムを、二度かけ直した。
先生のことは、誰も言わなかった。僕のほうからも訊かない。訊き方をいくつか考えて、全部やめた。
五日目の帰りに、畑の縁の道を通った。
六棟のいちばん奥は、窓のところが黒く抜けて、まわりの壁だけが残っていた。青いシートが屋根にかかり、入口に板が渡してある。焦げた匂いは、雨が降っていないので、まだ残っていた。前庭に段ボールの箱が一つ、底が抜けた形で伏せてあった。
通り過ぎてから、走った。息が切れるまで走って、国道の手前で止まった。
夜、予定表の三月をめくった。下のほうの枠に、鉛筆の印がついたままだ。消しゴムをかけると、紙が毛羽立って、薄くなった。
六日目の朝の会で、担任は出席簿を開く前に言った。
「藤崎先生のことです」
教室の物音が、いちど止まった。
「北側の窓から助け出されて、入院しているそうです。命に別状はない、ということです」
誰かが、よかった、と小さく言った。
担任は出席簿を開いて、名前を読み始めた。僕は机の下で、右手を左手で包んだ。指のあいだの皮が、つれて痛んだ。




