第五章 山へ帰る
三年になっても、僕は同じことを続けた。
プリントを配り、荷物を持ち、放課後に問題を解いて見せた。続けたところで、父の返事が変わるわけではない。それでも、やめる理由が見つからなかった。やめたら、僕には何も残らない。
隣の席のやつが、机に頰をつけたままからかった。
「また彼女に教えてんの」
いつもなら聞き流す。そのときは、少しのあいだ、本気で考えた。
千尋と結婚すれば、先生は僕の義理の母になる。父が反対するなら、家を出ればいい。
考えは十秒ももたなかった。僕は十五で、その年齢まではまだ何年もある。それに、僕は自分に訊いてみた。この人間と暮らせるか。
暮らせない。
顔を上げない。何を言っても返さない。目の前に置かれたものを、当たり前の顔で受け取る。あれだけ注がれて、一度も返さない。返さないまま、それを持っていることにさえ気づいていない。
僕は千尋が嫌いだった。好きではないどころではなかった。
そのころ、心理学の本をまとめて買った。
通販の安いのを五、六冊。人の考えを動かす方法が書いてあるだろうと思って買って、読んで、そういうものではないとわかった。静かな部屋と、長い時間と、資格のある大人がいる話だった。僕にあるのは、休み時間の十分と、机ひとつぶんの距離だけだ。
残ったのは、耳元で喋ることくらいだった。
六月のある日の休み時間、僕は空いていた隣の椅子を引いて、そこに座った。
計算用紙に式を書きながら、顔を横に向けずに言った。
「みんな、藤崎さんのお母さんは大変だって言ってる」
鉛筆の先が紙に触れる音がした。
「先生、藤崎さんがいなかったら、ふつうに暮らせてたと思う」
千尋は鉛筆を持ち替えた。持ち替えて、次の行の数字を書いた。
「僕だったら、あの人にこれ以上かけたくない」
言い終わって、僕は式の続きを書いた。千尋は自分の答えを書き終えると、紙を自分のほうへ引いて、椅子を引いて、立つ。廊下の窓のところへ行って、鐘が鳴ってから戻ってきた。
それだけだった。
何度か同じようなことを言った。何も起きない。届いていない、と僕は思った。ここに届く道はないのだと思った。
言うのはやめた。言っている最中、自分の口の中が苦かったからでもある。
*
夏に入るころから、前の席が空く日が増えた。
欠席、早退、午前だけの登校。担任は出欠簿に印をつけるだけで、理由は言わなかった。
先生のほうも、二年の教室に来なくなった。三年の社会科は別の先生が持っていて、藤崎先生は一年と二年に回っている。受験の相談で職員室にいる時間も減った。
放課後に行くと、職員室の戸が閉まっていた。
三度続けて閉まっていた日、僕は戸の前に十分ほど立っていた。中で誰かが動く音はしない。廊下の向こうで運動部が声を出していた。
僕を避けているのか。
避ける理由があるとすれば、父のことだ。父が断ったことを、先生は知っている。知ったうえで、いままでどおりに接してくれていた。いままでどおりにしてくれること自体が、線を引かれているということだった。
いや、僕は関係ない。あの二人にはあの二人の都合がある。僕は同じ教室にいるだけの人間だ。そう考えて、少し楽になり、次の日にはまた戸の前に立っていた。
空いた前の席には、椅子が入ったままになっていた。誰もそこを使わない。僕は授業のあいだ、その椅子の背を見ていた。
九月に入って、久しぶりに廊下で先生に会った。
日に焼けていた。腕の時計の跡が白く残っている。顔色は、僕が知っているどの時期よりよかった。
「宮原くん、うち、来ない? 今度の土曜」
僕は二つ返事をした。
これで最後になる、と歩きながら思った。根拠はない。根拠はないのに、帰り道でずっと同じことを考えていた。
*
土曜の夕方、教員住宅の玄関を開けると、テレビの音がした。
千尋が画面の前に座っていた。顔を上げて、まっすぐ見ている。あんなふうに顔を上げているのを、僕は教室で見たことがなかった。
映っていたのは、山で暮らす人の番組だった。沢で水を汲み、枝を組んで火を起こしている。千尋は膝の上で、細く裂いた紙紐を編んでいた。手が止まるのは、画面の中の手が止まったときだけだった。
「先月から、そればっかり」と先生が台所から言った。「録ってあるのを、順番に」
僕は流しの横に立って、じゃがいもの皮を剝いた。水切りかごの底に、前の洗い物の水滴が三つほど残っていた。
「夏に、歩きに行ったんですか」
「休みの日にね。最初は町の観察会に混ぜてもらって、そのあと何回か、二人で」
先生は魚を焼きながら、順に話した。川で魚が釣れたこと。草で編んだ敷物を千尋が三枚作ったこと。火を起こす道具を、一度見ただけで使えたこと。人の多いところより、そういう場所のほうが、千尋は息をしていること。
「教室に座らせておくのが、一番難しいことだったのかもしれない」
先生の手は、魚をひっくり返すのに合わせて動いていた。声も手も、急いでいなかった。
夕飯は三人で食べた。
千尋は皿を並べ、台所に近い席に箸と湯呑みだけを置いた。先生が席に着くまで、自分の椅子に座って待っていた。
食べ終わってから、先生は千尋の隣に座って、テレビの続きを見た。画面を指して、風の向きの見分け方を話していた。枝の揺れる向き。煙の流れる向き。
「北斗七星は、あっち」
千尋は編みかけの紐を膝に置いて、指の差されたほうを見た。それから、台所のほうを一度振り返った。先生はそこにいる。いることを確かめてから、また画面に戻った。
僕は少し離れたところに座っていた。二人のあいだに入る場所がなかった。入る場所がないという言い方も正しくない。はじめから、そこは二人の席だった。
皿を片付けているとき、先生が言った。
「宮原くん。二年間、ありがとう。本当に助かった」
「引っ越すんですか」
「うん。折沢の家、建て直してるの。屋根と外壁はもうできてる」
先生は湯を止めて、手を拭いた。
県内での異動を相談していること。まだ決まっていないこと。町の中心に医療と支援の窓口があって、そこと繋げておけば、義務教育のあとの暮らしも組めること。何度も往復して、確かめてきたのだという。
「学校のこと、もったいなくないですか」
「もったいないかもしれない」
先生はそう言って、笑った。迷っている顔ではない。僕は先生の顔を見つめて、嬉しい以外のものを探した。何も出てこなかった。
僕は居間の窓のそばへ行った。
防犯の意味なのか、窓の下には本の山がそのまま寄せてある。書架の裏から壁を這ってきた古い配線が、留め具のところでたわんでいる。窓の外は暗かった。星も月も雲もない。
その窓の下から、部屋のほうを振り返った。先生と千尋が並んで座っている背中が見えた。
台所の壁に、月ごとの予定表が貼ってあった。
三月の枠の、下のほうの一日に、赤い丸がついている。丸の中に「ひっこし」と書いてあった。字は先生のものだ。丸の外側に、鉛筆で細い線が何本も引かれていて、間隔はどれも同じだった。




