第二章 洗った襟
両親が別れたのは、僕が小学二年の冬だ。
父に女の人がいて、僕はそれを知っていて、母に訊かれたときに知らないと答えた。父を庇ったつもりはない。二人が別れるのが怖かっただけだ。理由としては通らなかったらしく、母は荷物をまとめて出ていった。
親権は父になった。父のほうが収入があるから、というのが表向きの説明で、僕が人に言うときも同じ説明を使った。
出ていく前の晩、僕は母に自分の値打ちを並べた。
成績がいいこと。手がかからないこと。掃除も洗い物もできること。大きくなったら世話をすること。ひとつ言うたびに、引き取ってもらえる目方が増える気がした。
「ぼく、洗い物もできるよ」
「知ってる」
「お父さんより、ちゃんとする」
母は僕の頭に手を置いた。置いたまま、それ以上は何も言わなかった。
母が置いていった服を抱えて泣いていたら、父がそれを取り上げて捨てた。男の子がみっともない、と父は言う。僕は部屋に入れられ、窓から、回収車がそれを持っていくのを見ていた。
父の作った飯をまずいと言った日のことも覚えている。
「まずい」
「じゃあ食うな」
父は皿ごと流しに空けて、僕に千円札を渡した。腹が減れば自分で買いに行く、と踏んでいたらしい。実際そのとおりにした。父は商売をしていて、家にいる時間が少なく、僕はたいてい自由だった。
二年生の終わりに、僕は母の勤め先の前で待った。
出てきた母のあとを、電車を乗り換えて二度つけた。アパートの二階の、いちばん奥の部屋。次の週の土曜に、そこのドアを叩いた。
母は僕を上から下まで見た。
「どうやってここが分かったの」
「駅から、ついてきた」
母は廊下に立ったまま、少し黙っていた。それから僕の肩を押して、中に入れた。
「襟までこんなに汚して。シャツ、脱いでごらん」
風呂に湯を張ってくれた。そうめんを茹でて、卵を落としてくれる。食べ終わってから散髪に連れていかれ、帰りに公園を回った。
その一日を、僕は「わすれられない一日」という題の作文に書いた。担任は、この日の何が忘れられないのかわからないという顔をしていた。
それから毎週通った。
わざと襟を汚して行く週もあった。汚れていれば、母は必ずそこに触れるからだ。
「宿題、ここでやってもいい? 終わったら帰るから」
四年生になるころには、その頼みは通らなくなっていた。上がって数分で、母は出かける用があると言う。
「今日はもう出るの。宿題は家でやってね」
三度に一度は留守だった。階段を下りて、駅まで歩いて、帰った。
そのうち母は再婚して、部屋を引き払った。勤め先が変わり、番号も変わった。
五年生の一年間、僕は母に会っていない。
その一年、僕は髪も梳かさず、同じ服のまま学校へ行った。
言葉のことでよく揉めた。揉めれば手が出る。授業を抜けて街をうろつき、ゲームセンターの裏で年上の連中と喋るようになって、煙草を覚えた。何度か吸っただけで、癖にはならなかった。
担任が父を呼んだ日、話は勉強のことより先に、身なりのことから始まったらしい。父は頷いて帰ってきて、僕に十分ほど説教をして、翌日には忘れていた。
授業参観の帰り、同級生の母親が廊下で連れに言うのが聞こえた。見るからに、お母さんのいない子ね、と。
次の日から、僕は学校へ行くのが怖くなった。
*
正月の三日に、僕はその公園にいた。
母と行った公園で、あれからときどき、することもないのに半日座っていた。ベンチが冷たくて、尻から順に感覚が薄くなっていく。
池のほうから母が歩いてきた。目をこすっても母だ。立ち上がって、ズボンの尻の草を払って、走り出しかけて、止まった。
母は小さな女の子と手をつないでいた。再婚相手の連れ子だと、あとで知った。ピンクのダウンが膨らんでいて、丸い。棒つきの飴を持って、跳ねるように歩いていた。
僕は走っていって、その子を蹴り倒し、飴を取り上げた。
子どもが泣いた。母は抱き起こして、手と膝と顎を順に確かめ、それから振り向いて、僕の頰を打った。
しもやけが切れて、痒みと痛みが一緒に来た。
顔はかかないの、あとが残るよ、と昔よく言われた。だから両頰がどれだけ痒くても、僕は指を当てないようにしている。打たれて切れたその場所が、熱を持っていた。
母が何か言った。耳が鳴っていて、聞き取れなかった。子どもを抱いて、母は向こうへ歩いていった。一度も振り向かなかった。
僕は飴を食べた。食べ終わってから、しばらく同じ場所にいて、それから帰った。あの公園には、それきり行っていない。
家で熱を出した。
半分眠っているあいだ、廊下を歩く足音が耳のそばでした。母の足音だと思って、泣きながら呼んだ。手を伸ばして、何か長いこと喋った。足音はそこで止まらなかった。
夜中に這って電話をかけた。父は出張先にいた。
「熱は何度だ。分かった、今から帰る」
父は朝までに戻ってきて、僕を病院へ連れていった。そのことを、僕は今でも覚えている。
中学に上がる前の春休みに、僕は自分の面倒を見る練習を始めた。
米の水加減。洗濯機の設定。アイロンは襟から当てる。襟の内側は、固形石鹸をつけて歯ブラシでこする。髪は三週間に一度。教科書にはカバーをかけ、内側の折り返しを深くとる。
台所で板にシャツを広げていたら、久しぶりに帰ってきた父が立ち止まった。
「何やってんだ」
「アイロン」
父は冷蔵庫から缶を出して、何も言わずに居間へ行った。
煙草もやめた。喧嘩もやめた。育ちのいい子どもがどう振る舞うのかを、観察して覚える。
朝は自分で作ったものを食べてから出る。放課後に、切った果物を容れ物から出して人に配ると、たいてい誰かが家の話をした。
母親がいないと知られないこと。それが僕にとっては、勉強より大事な仕事だった。
*
秋の放課後、僕は前の席の横に椅子を持ってきて、数学の問題を解いて見せていた。
千尋は顎を引いて、手元を見ている。馬尾が垂れて、横顔を半分隠している。机の上には、僕が折った教科書カバーが載っていた。折り返しを深くとりすぎて、表紙が少し反り返っている。
計算の途中で、彼女が紙を引き寄せた。鉛筆を持ち替えて、余白に書いた。
「服、たばこのにおい」
僕は自分の袖口を見た。今朝アイロンを当てた袖だ。
「なんで」
返事はない。
「洗ってるよ。毎日、襟から洗ってる」
彼女は紙の隅に、細い線を三本、うねらせて描いた。立ちのぼる煙の形。描き終えてから顔を上げ、僕を見た。三つ数えるくらいのあいだ、目が合う。それから下を向いた。
背中に汗が出た。
この女は、僕の全部を見ていた。ゲームセンターの裏も、抜けた授業も、洗っていない襟も。石鹸で洗っても、アイロンを当てても、吸い込んだものは肺に残る。吐く息が、他人とほんの少し違う。誰も気づかない差に、この女だけが気づいた。
そう思って、僕はしばらく動けなかった。
千尋は人差し指を紙の上に置いて、煙の形をこすった。鉛筆の粉が薄く伸びて、灰色の帯になる。それから紙を裏返し、計算の続きを書き始めた。




