第一章 前の席
ボストンバッグの底に、去年と同じセーターを入れた。畳み直しても袖口の毛玉は取れない。十一月の山は冷えると聞いていたので、厚いほうをもう一枚足した。着替えが二組、洗面用具、電車で読む文庫が一冊。支度はそれで終わりだった。
台所から、お母さんが紙を持ってきた。乗り換えの時刻が三段に分けて書いてある。奥槙の駅から集落までは、予約した車で三十分ほどかかるという。
「日が落ちる前には着くよ」
紙を折って、上着の内ポケットに入れた。
中学のとき、僕は人に言えないことをひとつ持った。それを持ったまま十年、この家の食卓で飯を食ってきた。
*
藤崎千尋が転入してきたのは、中学二年の四月だ。
担任が黒板に名前を書いているあいだ、本人は教壇の横に立っていた。挨拶はない。担任が「よろしくお願いします」と代わりに言って、紹介は終わった。教室の後ろで誰かが小さく笑ったが、笑いは続かなかった。
席は僕の前になった。
最初の一週間、クラスは親切だった。プリントを回すとき、みんな彼女の顔を見てから渡す。返事が返らないとわかると、二週目には見るのをやめ、ただ渡すようになった。三週目には、渡すのも僕の役になっていた。
彼女はいつも前を向いて座っている。背筋が立っていて、椅子の背にもたれない。僕の机に髪が落ちてくることもない。振り向くこともなかった。
僕が先に覚えたのは、襟だ。
白い。汗の染みがない。アイロンの筋が肩の線に沿ってまっすぐ通っている。シャツの皺は肩甲骨のところにだけあって、そこは椅子の背が当たる場所だから、皺があるほうが正しい。
髪は後ろでひとつに束ねてある。結び目の高さが毎日同じだった。うなじの細い毛が朝の光で白く光る。石鹸の匂いがした。柔軟剤ではなく、石鹸のほうの匂いだ。
朝読書の時間、僕は本を立てて、その陰から前の背中を見ていた。何を見ているのか、自分でも説明はつかない。つかないまま、毎朝見ていた。
筆箱の中身には順番があった。
授業が始まる前に彼女は筆箱を開け、鉛筆を三本、決まった向きで机に置く。消しゴムは二つある。片方は角が全部残っていて、もう片方は角が丸い。使うのは丸いほうで、角の立ったほうは蓋の側に寝かせたままにする。
ある日、僕は机の端に出たままの丸いほうを、親切のつもりで筆箱に戻した。
彼女の手が止まった。ノートの端を破って、鉛筆を走らせる。紙は僕のほうへ滑ってきた。
「この消しゴムがいい。箱に戻さないで」
顔を上げたときには、彼女はもう前を向いていた。
僕は消しゴムを机の端に戻した。置いた位置が少しずれていたらしく、白い指が来て、一センチほど押し直していった。
そのころから、僕は用がなくても前の席の肩を叩くようになった。
鉛筆を彼女の足もとへ落として、拾ってくれと頼む。彼女は腰をかがめて拾い、目を合わせないまま僕の机に置く。プリントを集める当番に自分から手を挙げ、列の前まで回り込んで、彼女が何をしているかを正面から見る。たいてい筆箱の中身を並べ直していた。
肩を叩いて、意味のないことを訊いた。
「昨日の晩、何食べた」
「この問題、教えようか」
「家でも、しゃべらないの」
彼女は椅子ごと半分だけこちらを向き、顎を引いたまま黙っている。それから前に戻る。戻るまでの時間は毎回ほとんど同じで、三つ数えるあいだくらいだった。
休み時間に、藤崎先生が教室へ来ることがあった。
前の席の横にしゃがんで、机の高さまで目を下げる。筆箱の中を覗き込んで、それから手を引く。
「急がなくていいよ。使うほうを、ここに置いて」
千尋は丸い消しゴムを机の端に置いた。先生は髪の結び目に一度手を当て、二分ほどで立ち上がり、廊下へ出ていく。
僕はその二分を、プリントを見るふりをして数えていた。
彼女は週に何度か、授業の途中で教室を出た。通級の指導を受けに行くのだと、あとで知った。戻ってくると、机の上のものを並べ直してから座る。並べ終わるまで鉛筆は持たない。
成績は下のほうだった。授業中に顔を上げていることは少ない。ノートの端には、字ではない線が引いてあるときがある。まっすぐな線が何本も、定規を使わずに引かれていて、間隔はどれも同じだった。
僕が彼女に構うのを、クラスは初め、点のためだと言った。母親が教師だから機嫌を取るのだろう、と。社会科は主要五教科に入るから、その読みには筋が通っている。
そのうち噂は別のほうへ寄った。宮原は藤崎が好きらしい、と。
面と向かって言う者はいない。言われないまま、僕の席のまわりだけ少し静かになった。僕は否定も肯定もしなかった。好きではないと言えば、では何なのかを自分で説明しなければならなくなる。
給食の時間、彼女は牛乳を先に飲んだ。飲み終わった紙パックを開いて平らにし、机の左上に置いてから箸を取る。順番が崩れた日は、崩れたところから全部やり直していた。
*
六月の終わりに、職員室へ呼ばれた。
放課後の職員室は電気が半分しか点いていない。藤崎先生の机は窓際から三つめで、地図帳が二冊と、古い型のスマートフォンが置いてあった。画面の角に罅が入っている。先生はそれを手に取り、指で一度触れてから伏せた。
「ごめんね、録りっぱなしだった」
「録音、ですか」
「授業の前に、自分でしゃべって録っておくの。話す順番をよく忘れるから」
先生は椅子を半分こちらへ回した。
「千尋のこと、ありがとう。プリントも、掃除の場所も、宮原くんが代わってくれてるって聞いた」
「前の席なので。ついでです」
「ついででも、助かってる」
引き出しから個包装の菓子が出てきた。ぎざぎざの縁をつまんで、二つ、僕の手のひらに乗せる。
「学校では食べないでね。千尋の分と、宮原くんの分」
僕は袋を裏返して、原材料の表示を上から下まで読んだ。読んでから、鞄の前ポケットに入れた。
「無理はしなくていいからね」と先生は言った。「宮原くんには、宮原くんの都合があるでしょう」
「無理じゃないです」
それは噓ではなかった。僕はこの部屋にいる時間のほうを、家にいる時間より楽だと思っていた。電気が半分で、紙とチョークの匂いがして、誰かが必ず何かを書いている。
先生が立ち上がって、鞄を肩にかけた。
「じゃあ、それ、おうちの人にも。……お母さんにも、味を聞いておいて」
僕は口を開けた。
いつもなら、この種の質問には用意がある。父は出張が多いんです、僕が作っています、と続けて、相手が困らないところまで運んでいける。段取りは頭のなかにできていた。
その日は、言葉が出るまでに、いつもの倍の時間がかかった。
「……はい。伝えます」
先生は僕の顔を見た。見てから、机の地図帳を開いた。




