第2話 「いつもの恒一」
日曜日の朝。
カーテンの隙間から差し込む日差しが、西岡恒一の顔を照らしていた。
頭が重い。
昨夜の酒がまだ抜け切っていない。
枕元には飲みかけのスポーツドリンクと胃薬。
「……飲み過ぎたな。」
体を起こした瞬間、腰に鈍い痛みが走る。
三十三歳になってから、酒が残るようになった。
若い頃は朝まで飲んでも平気だった。
「歳かな……。」
そう呟きながらスマートフォンを見る。
職場の同僚から届いていた勉強会の誘いは、まだ返信していなかった。
画面を開く。
> 「今日は午後一時からです。無理ならまた誘います!」
恒一はしばらく眺めたあと、
『今日は予定があります。またお願いします。』
と送信した。
数秒後。
『残念です。また一緒に頑張りましょう。』
その優しい返信に少し胸が痛んだ。
だが、それ以上考える前にLINEが鳴る。
トワイライト斑鳩
翔太 『恒一、車取りに行くわ。』
そうだった。
昨日貸す約束をしたレクサスだ。
午前十時。
インターホンが鳴る。
「おーい!」
翔太だった。
短パンにサンダル姿。
助手席には妻が座っている。
「悪いな。」
「いや。」
「夕方返すわ。」
そう言って鍵を受け取ると、翔太は何の迷いもなく運転席へ座った。
レクサスは静かに走り去る。
恒一は、その後ろ姿を見送る。
自分の車なのに、
今日も乗るのは自分ではない。
---
午後。
恒一は駅前まで歩いた。
暑い。
レクサスがあれば五分。
歩けば三十分。
コンビニでペットボトルを買う。
財布を見る。
昨日の飲み代で一万円札は消え、
小銭ばかりになっていた。
「給料日まであと三週間か……。」
思わず苦笑した。
その時だった。
「恒一さん!」
振り返ると、地元の二つ下の後輩・井上拓海がいた。
「こんにちは!」
「おう、久しぶり。」
「今日は車じゃないんですね。」
「貸してるから。」
「ああ、翔太さんですか?」
「そうそう。」
拓海は笑った。
「恒一さんって本当に優しいですよね。」
「そうか?」
「俺なら無理です。」
「家族でも貸したくないっす。」
恒一は少し照れくさくなった。
「まあ、困ってるしな。」
「さすがっす。」
その言葉が嬉しかった。
だが拓海は続ける。
「そういえば翔太さんが言ってました。」
「何て?」
「恒一さんなら何でも頼めるって。」
恒一は笑った。
「昔からそんなもんや。」
「羨ましいっす。」
拓海はそう言うと手を振り、去っていった。
恒一はその言葉を深く考えなかった。
---
夕方。
約束の時間を過ぎてもレクサスは戻らない。
午後六時。
午後七時。
午後八時。
ようやく翔太から電話が鳴る。
「悪い!」
『今日そのまま借りてもええ?』
「え?」
『子ども寝たし、明日会社まで乗っていくわ。』
「でも俺……。」
『仕事は電車やろ?』
「うん。」
『じゃあ問題ないやん!』
笑い声。
「悪いな!」
電話は切れた。
恒一は何も言えなかった。
---
夜。
アパートへ戻る。
駐車場には、自分の車がない。
ぽっかり空いた駐車スペースだけが残っている。
恒一は何となくその場所を眺めていた。
そのとき、職場の同僚から再びメッセージが届く。
> 「今日は勉強会、お疲れさまでした。来週もありますよ。」
添付された写真には、笑顔でテキストを開く参加者たちが写っていた。
その中には、年齢の近そうな男性や女性もいた。
恒一はしばらく画面を見つめる。
そして静かにスマートフォンを閉じた。
「……まあ、俺には地元の仲間がおるし。」
そう呟いて部屋へ入る。
しかし、静まり返ったワンルームは、その言葉に何も答えなかった。
その夜、主人公はまだ知らない。
「何でも頼める人」という評価が、いつしか「何を頼んでも断らない人」へ変わり、その役割から逃げられなくなっていることを。




