呪いの残影
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深閑とした夜の京都、西に傾いた満月が万物の影を長く伸ばしている。時折吹き抜ける微風がわずかな熱気を奪い去っていくものの、この重く息苦しい空気を払拭するには至らない。俺は思わず、深く青い夜空を見上げた。そこでは「夏の大三角」を形作る異なる星座のまばゆい星々だけが、孤独に夜の帳を貫いていた。
一方、ヨゾラが手配してくれたタクシーは、すでに交差点に停まり、ハザードランプを点滅させて俺を待っていた。車に乗り込み、運転手に嵯峨野高校へ向かうよう指示する。約30分後、車は学校の南側校門の外に停まった。こんな真夜中はおろか、真昼間であっても、この重々しい鉄門は固く閉ざされていることだろう。
俺はスマートフォンを取り出し、画面を自分の顔に向けた。この端末に通常の顔認証ロック解除機能は備わっていないが、これが俺専用のAIアシストシステムを呼び覚ますショートカットなのだ。
「何かお手伝いできることはありますか?」
抑揚のない機械的な音声が、直接俺の脳内に響いた。
俺はスマホの画面に目を向け、「引力」の項目をタップした。
「自身の周囲の重力定数を上書きしました。アシスト機能を有効化しますか?」
俺はそのまま画面上の「飛行アシスト」をタップする。
「設定が完了しました。」
設定を終えた俺は、建物の陰へと歩を進めた。最も近くにある校舎の屋上を見上げ、大きく跳躍する。俺の動きに合わせ、気圧差によって生み出された一陣の風が足元から巻き起こり、的確に俺の身体を支え、校舎の屋上へと送り届けた。身を低くして反対側へ向かうと、正面にはプールに隣接する体育館が見える――あれが今回のターゲットだ。だが距離が遠すぎるため、俺は別の校舎の屋上へ跳び移ることにした。屋上伝いに体育館へと向かって移動した後、体育館の外部廊下へと飛び降りる。あとは目の前に壁が立ち塞がるだけだ。
俺はスマホのサイドボタンを押し、先ほどの設定を解除した。今度は「空間折畳」機能へと切り替え、目の前の壁に軽く手を触れる。水面の波紋のように壁面が歪み、境界のない穴が音もなく開くと、体育館の内部空間が直接俺の目の前に現れた。空間の継ぎ目を越えて体育館の中へと入り、再びサイドボタンを押して「空間折畳」をオフにする。
暗闇に包まれた館内には、死に絶えたような無形のプレッシャーが充満しており、名状しがたいほどの不気味さを漂わせていた。俺は目を閉じ、体育館内に意識を集中させ、収集した情報をスマホの「マップ」へと流し込む。だが、依頼人の娘のデータと照合を行っても、何の軌跡も見つけ出せなかった。やむを得ず、俺は次のステップへと移行することにした。
自身が保有するこの能力について、俺自身も正確な定義を出すことはできない。分かっているのは、それが物理法則に従う現象である限り、この能力を使って干渉し、変更を加えられるということだけだ。以前、偶然からこの干渉力を両目に集中させたらどうなるか試したことがある。結果として、俺は非物理的な次元の現象を観測してしまった――それは、現在の俺の理解を超えた世界だった。「魂」という言葉で説明した方が分かりやすいかもしれないが、いずれにせよ、俺にはそれを科学的に定義することはできない。
視神経へと能力を集中させ、再び目を開くと、視界はすでに切り替わっていた。案の定、天井には二つの黒い影の塊が蟠っていた。あれは最近ニュースで報じられていた事故の残留痕跡だろう。だが意外なことに、その二つの黒影を除けば、この体育館の中は不思議なほどに清浄で、不安を煽るような気配は一切存在していなかった。
周囲をぐるりと見渡して確認した末、ようやく入り口の床に、まるで一本の縄のような黒い影を見つけ出した。それは暗がりに潜み、館外に向かってまっすぐに伸びていた。
俺は再び「空間折畳」の能力を用い、外が確実に死角や陰になっていることを一つ一つ確認してから、空間を越えて外へ出た。黒い影が格技場へと伸びているのを確認すると、身を隠せる暗がりを選び、みたび「空間折畳」を利用して音もなく格技場へと潜入した。
目に飛び込んできたのは一面の畳、そして少し離れた場所に、なんと戦国時代の甲冑が畳の上に“端座”していたのだ。なぜ格技場に骨董品の甲冑が置かれているのかと訝しんだ矢先、「それ」は一切の予兆もなく唐突に立ち上がった。この突発的な異変に対し、俺は無意識にスマホを構え、狙いを定めた。
「それ」――その甲冑は、まるで中に人が入っているかのように、すでに右手で腰に差した太刀を握り、いつでも抜刀して斬りかかれる構えをとっていた。だが、どう対処すべきか俺の脳が高速で計算を弾き出そうとした瞬間、右手がふっと軽くなった。なんと俺のスマホが自ら俺の制御を離れ、正面の空中に浮遊したのだ。甲冑の側も危険が迫っていることを察知したのか、即座に刀を抜いて応戦しようとした。しかし、俺のスマホは相手に一切の隙を与えぬかのように、機体全体を俄かに白く発光させると、瞬きする間もなく、強烈な純白の光束が甲冑の真上から正確に轟然と降り注いだ。「それ」は当然座して死を待つつもりはなく、外へ移動して包囲を突破しようと試みたが、まるで見えない壁にぶつかったかのように、白光の範囲内に完全に閉じ込められてしまった。ほんの数秒間の出来事だった。純白の光束に照らされ続けた甲冑は、やがて風化した砂塵のように灰燼に帰し、後には何も残らなかった。
あまりにも唐突な出来事に、俺はその場に立ち尽くし、一時状況を飲み込めなかった。空中に静かに浮かび続けるスマホを見つめ、俺は手を伸ばしてそれを回収した。ざっと点検してみたが、何の異常も見当たらず、正常に作動している。エラー解析をしている余裕はないため、俺は直接AIアシストを呼び出し、先ほどの現象について演算分析を行わせた。
AIの解析レポートによれば、原因は先ほど俺の視神経が非物理世界を観測する状態を維持したままだったことにあり、ゆえに本来現実の物質世界には存在しない甲冑を「見て」しまったのだという。そしてあの純白の光束は、ヨゾラが以前新たに追加し、有効化した能力だった。
現状を大まかに整理した後、俺はまず脅威が去ったかを確認することにした。だが、周囲に何らかの痕跡が残っていないか再び確認した俺は、驚くべき事実を目の当たりにした――あの縄のような黒い影は、なんと格技場全体をまっすぐに貫通し、さらにその外へと突き抜けていたのだ。
俺は再び「空間折畳」を利用し、外が監視カメラの死角であり陰になっていることを確認してから、格技場を出て外へと向かった。現代のキャンパスとは完全に不釣り合いな木造建築が、目の前にそびえ立っていた。周囲を三、四階建てのコンクリート校舎に囲まれているせいで、面積的にも高さ的にも、ひどく小ぢんまりとして見えた。本来なら、あの黒い影が再びこの建物を貫通して伸びていないか先に確認したかったが、反対側はグラウンドに隣接しており身を隠すスペースがほとんどない。天秤にかけた結果、その考えを放棄し、影に沿って直接この建物へと潜入することに決めた。周囲に監視カメラやセンサーがないことを確認すると、俺は正面の入り口から侵入を試みた。
東向きの障子が大きく開け放たれており、門の外には色づき枯れゆく木々の並木が見える。そして本来なら現れるはずのない明月が、一目で視界に入った。月光に照らされた和室の内部は、異常なほどに明るい。和室の床の間には、無造作でありながらも優雅な筆致で『里仁為美』と書かれた掛け軸が飾られ、微風に吹かれて軽やかに揺れていた。そしてその掛け軸の下には、幻影のような人影が端座していた。
平安時代の十二単を身に纏い、その幾重にも重なる裾は咲き誇る牡丹のように、畳の上へと優雅に広がっている。顔立ちは半透明の光背と垂れ下がった黒髪に隠れて見えなかったが、茶を点てるその優雅な所作は、非の打ちどころのない気高さと教養を物語っていた。
「汝は何者ぞ。何ゆえ儂の静寂を乱すか」
目の前の光景をどうにか合理化しようと俺が努めている間に、彼女は茶道の所作を終え、ゆっくりとこちらを見上げた。
「いや……これもまた、儂の姿が見えぬ通りすがりに過ぎぬか」
突如として投げかけられた独り言に対し、俺がどう返答すべきか思案していると、彼女は小さくため息をついた。
「意図して邪魔をしたわけではない。ある事情から、ここへ辿り着いたんだ」
俺の返答は彼女にとって予想外だったらしい。茶を味わおうと茶碗を持ち上げていた動きをふと止め、彼女は再び俺へと視線を向けた。
「汝……儂が見えるのか。汝、何者ぞ?」
「他人の名を尋ねる前に、まずは己の名を名乗るべきではないか?」
「道理よな。これは儂が非礼であった。儂は六条。汝は?」
「梅小路だ」
「梅小路……では、汝は何ゆえ儂の姿を視ることができる? この千年の間、此処には幾人もの者が行き交ったが、儂の姿を視る者はただの一人もおらなんだ」
「俺にもすぐにはその原理を説明しきれないが、確かにその存在が見えている。邪魔をする気はなかったんだ、一本の黒い影を追跡してきた結果、ここに迷い込んだだけだ」
「左様か。またしても、横川が遺した不浄の代物が災いしておるのか……千年の刻を経て、かえってその力を増しているとはな。」
「横川?」
「其奴が誰であるかはもはや些末なこと。汝はこれだけを知っておくが良い――彼奴が封じ込めた穢れを見つけ出さねば、此処で起きておる事象が終わることは決してない、と。」
俺が問い質そうとした矢先、彼女はすでに俺の内心を見透かしたかのように、言葉を継いだ。
「その代物は、彼奴によって嵐山の奥深くに隠された。だが、正確な位置を知るのは彼奴のみよ。」
それまでずっと茶碗を手にしたまま優雅な姿勢を崩さなかった六条御息所が、ここでようやく、ゆっくりと茶碗を下ろした。
「どうやら……儂も、ようやく安息を得られるようじゃ」
言い終えるが早いか、俺に反応する隙も与えず、六条御息所の姿は雲霧のように消え去った。
彼女の消失に伴い、室内は一瞬にして暗闇と静寂に包まれた。この急激な変化に俺の視覚はしばらく適応できなかった。やがて暗闇に目が慣れ始めた頃、開かれていたはずの東側の障子が、いつの間にか固く閉ざされていることに気がついた。室外の月光が障子越しにわずかに差し込んでいる。六条御息所が消え去ったこと以外、室内の設えは何一つ変わっていなかった。
俺は和室を退出して外へ出ると、あの黒い影が跡形もなく消滅しているのを発見した。どうやら学校で調べられる情報はここまでのようだ。これ以上ここに留まる意味もない。俺は元来た道を辿って、学校の南側校門の外へと足早に撤収した。




