33
「……」
窓の外。
アリスさんは、しばらく何も言わなかった。
風の音だけが入ってくる。
ひやりとした空気が、部屋の中に広がる。
「アリスさん?」
思わず声をかける。
返事は、ない。
その代わりに。
「まだ、いたんだ」
ぽつり、と。
小さな声。
でも。
その声は、さっきまでの優しさとはまるで違った。
冷たい。
ぞくっ
背筋が震える。
「しつこいなぁ」
ため息。
軽い調子。
でも、その奥にあるものは。
明らかに。
「消えたと思ったのに」
理解が追いつかない。
なにを言ってる?
誰に向かって?
次の瞬間。
ぐにゃり
窓の外の“なにか”が、動いた。
思わず立ち上がる。
見えた。
ほんの一瞬だけ。
黒い影。
人の形。
でも、形が保ててない。
溶けてるみたいに。
「ノアくん」
名前を呼ばれる。
はっとして視線を戻す。
アリスさんが、振り返っていた。
笑っている。
いつもの顔。
でも。
その手。
窓の外に向けられている。
「見ちゃだめ」
やさしい声。
でも。
逆らえない。
視線を外す。
その瞬間。
ぐしゃ。
なにかが潰れる音。
音だけ。
「……」
静かになる。
風も、止まる。
「はい、おしまい」
ぱん、と手を軽く叩くアリスさん。
まるで。
掃除でも終わったみたいに。
「今の」
声が震える。
「なにを」
「なにもしてないよ?」
にこり。
でも。
床。
窓の下。
そこに。
黒い染み。
さっき、部屋で見たやつと同じ。
「ほら」
指さす。
「ああいうの」
「ノアくんのとこにも来てたでしょ?」
「……っ」
なんで、それを。
「やっぱり」
少しだけ目を細める。
「気に入られてるね」
「気に入るって」
「うん」
あっさり頷く。
「壊れてないものって」
「すごく“おいしそう”に見えるから」
ぞくっ
「だから」
ゆっくりと、近づいてくる。
一歩。
また一歩。
逃げたいのに。
足が動かない。
「守ってあげないと」
すぐ目の前。
距離、ゼロ。
「すぐ壊されちゃうよ?」
指先が、俺の胸に触れる。
とん、と軽く。
「ここ」
「まだ。きれいだから」
どくんっ
心臓が跳ねる。
「アリスさん」
やっとの思いで声を出す。
「さっきの」
「消したのって」
「うん?」
首を傾げる。
「守っただけだよ?」
また、その言葉。
守る。
でも。
さっきの“ぐしゃ”って音。
あれが。
頭から離れない。
「ねぇ、ノアくん」
「はい」
「こわい?」
正直に。
答えられない。
怖い。
でも。
この人を、怖いと思いたくない。
「わかりません」
それが、限界だった。
すると。
「そっか」
アリスさんは、少しだけ微笑んだ。
「いいよ。それで」
「無理に決めなくていい」
ふわっと。
また、優しくなる。
さっきまでの冷たさが嘘みたいに。
「でもね」
小さく囁く。
「“こわいのに離れられない”って感覚」
「覚えておいてね」
「え?」
「これから、いっぱい出てくるから」
ぞくっ
意味がわからない。
けど。
嫌な予感だけは、はっきりする。
そのとき。
コン。
また、窓。
今度は、弱い音。
「まだいるの?」
アリスさんの声が、少しだけ低くなる。
でも、さっきより。
ほんの少しだけ。
苛立ちが混じっていた。
「ノアくん」
「はい」
「今日は、もう帰ろっか」
「え?」
「さすがに」
くすっと笑う。
「邪魔が多すぎる」
振り返る。
いつもの笑顔。
でも。
「またね、ノアくん」
「また会いに行っちゃっても」
「いいかな?」
「も、もちろんです」
断る意味なんてない。
笑う、アリスさん。
そして。
「奪ってみたいな」
「ノアくんを。マリアさんから」
その一言。
そこには少しだけ。
“本気”が混じっていた気がした。




