第1話 八千万円の舗装工事
大阪府大東市。
九月の朝。
まだ残暑の厳しい空気の中、一本の道路が朝日に照らされていた。
アスファルトの表面には、施工直後のような黒々とした艶が残っている。
その道路脇に立ち、腕を組んで舗装面を眺めている男がいた。
佐伯 恒一、三十八歳。
現場管理会社の主任であり、この工事の監理技術者でもある。
「……終わったな」
佐伯は、小さく呟いた。
約八千万円。
決して小さな工事ではない。
施工中には、工程の遅れ、天候、近隣対応、交通規制、品質管理、出来形管理――さまざまな問題があった。
それでも、工事は一か月前に完成した。
舗装の仕上がりも悪くない。
むしろ、かなり綺麗だった。
「主任」
背後から声がした。
施工管理を担当している山下美咲だった。
「ん?」
「最終の出来形、もう一回確認しました」
「どうやった?」
「問題ありません。幅員も高さも設計値から大きく外れてません」
「品質は?」
「大丈夫です。材料関係も試験結果も整理済みです」
美咲はタブレットを見ながら続ける。
「竣工写真も全部あります。舗装完了時の写真、かなり綺麗に撮れてますよ」
「そうか」
佐伯はホッとした。
この工事では、何度も写真を撮った。
施工前。
路盤。
舗装。
転圧。
完成。
その一枚一枚が、これまで現場で何をしてきたのかを証明してくれる。
「下検査も終わってるしな」
「はい。二週間前に終わってます」
「ほんなら、あとは竣工検査やな」
「そうですね」
二人が道路を眺めていると、後ろから別の声が聞こえた。
「佐伯さん」
振り返る。
そこに立っていたのは、黒田だった。
品質監理官。
今回の竣工検査を担当する男である。
「おはようございます」
「おはようございます」
佐伯も頭を下げる。
黒田は道路を見る。
ゆっくりと歩き、舗装面を確認する。
そして、しゃがみ込んだ。
舗装面をじっと見る。
「綺麗ですね」
「ありがとうございます」
佐伯は素直に答えた。
「かなり丁寧に施工されています」
「職人さんが頑張ってくれましたから」
黒田は立ち上がる。
「やはり、現場を見るのはいいですね」
「……そうですね」
佐伯は笑った。
特に深く考えなかった。
品質監理官なのだから、現場を見るのは当然だ。
そう思っていた。
「ところで佐伯さん」
「はい?」
「竣工検査ですが」
「はい」
「当然、現場も確認しますので」
「もちろんです」
佐伯は即答した。
その時の佐伯は、まだ知らなかった。
この「現場も確認します」という言葉が――
後に自分を濁流の中へ連れていくことになるとは。
* * *
その日の午後。
現場事務所では、検査に向けた最終確認が行われていた。
机の上には大量の書類。
施工計画書。
品質管理資料。
出来形管理資料。
材料関係の資料。
試験結果。
そして竣工写真。
佐伯は一枚ずつ確認していく。
「美咲、この写真の日付、大丈夫か?」
「大丈夫です」
「出来形の測定結果は?」
「全部そろってます」
「下検査の指摘事項は?」
「ありません」
「ほんまに?」
「ほんまです」
美咲が笑う。
「主任、何回確認するんですか?」
「いや、八千万やぞ」
「分かってますよ」
「何かあったら洒落にならんからな」
そこへ現場代理人の西村が入ってきた。
「おう、まだやってんのか?」
「最終確認です」
「もう完成して一か月やぞ」
「分かってますって」
西村は机の上の写真を見る。
「綺麗にできてるやん」
「せやろ?」
佐伯が少し嬉しそうに答える。
西村は頷いた。
「これなら検査も大丈夫やろ」
「俺もそう思ってます」
その時だった。
事務所のテレビから天気予報が流れた。
『大型で非常に強い台風が、今後――』
三人の動きが止まる。
「……台風?」
美咲がテレビを見る。
佐伯も画面を見る。
西村が腕を組む。
「これ……大阪、来るんちゃうか?」
「進路、こっち向いてますね」
「検査、明後日やろ?」
「はい」
三人は顔を見合わせた。
佐伯は窓の外を見る。
完成した道路。
一か月前に完成し、二週間前に下検査を終えた道路。
あとは竣工検査を待つだけだった。
しかし、その空には――
少しずつ、黒い雲が広がり始めていた。
佐伯はまだ知らなかった。
竣工検査の前日。
この道路が、跡形もなく濁水の下へ消えることを。




