第9話 王都の裁判
王都の審問所は、八年前に婚姻届を出した場所と同じ建物の三階にあった。
一階が婚姻届と戸籍の管理。二階が民事の調停。三階が訴訟審理。
八年前は一階だった。春の日差しの中を、白いドレスで歩いた。今日は三階だ。初夏の曇り空の下を、紺色の外套で歩いている。
あの外套ではない。あれはまだ港町の薬屋の棚にある。
審問所の前の広場に着いた時、見覚えのある背中が見えた。
大きい。広場の人混みの中でも、頭一つ抜けている。黒い外套。短く刈り込んだ黒髪。左腕をもう庇っていない。
「グレン様」
振り返った顔は、六週間前と変わらなかった。日に焼けた肌が少しだけ濃くなっている。辺境伯領で、外にいることが多かったのだろう。
「……来たか」
「来ました」
グレンは私を見下ろした。何か言いたそうな顔をして、結局何も言わなかった。代わりに、視線が一瞬だけ私の首元に落ちた。外套を着ていないことを確認したのかもしれない。あるいは、ただ目のやり場に困っただけかもしれない。
「魔獣の件は片付きましたか」
「ああ。三週間で終わった」
「お怪我は」
「ない」
嘘だ。右の手の甲に、新しい傷が一本走っている。浅いが、治療が雑だ。自分で手当てしたのだろう。私がいれば、もう少しましな処置ができたのに。
言わなかった。
「今日は、辺境伯として来た。私情ではない」
「承知しております」
私情ではない。隣国の辺境伯が、王国の審問所に外交使節として出席する。聖女の治癒を受けたヴェルデンの兵士にも精神変容の事例がある。外交問題になりうる案件への正式な関与だ。
筋は通っている。
ただ、私情ではないと宣言する人間が、審問所の前でこうして待っている必要は、本来ない。
法廷は三階の奥にあった。
長い廊下を歩く。靴音が石の床に反響する。八年前にこの建物を訪れた時は、廊下に花が飾ってあった。今日は何もない。石の壁と、石の床と、高い窓から差し込む曇り空の光だけ。
法廷の扉が開いた。
長方形の部屋だった。正面に審問官の席が三つ。侯爵家の案件だから上級審問官の合議制になる。右手に原告席。左手に被告席。傍聴席は後方に十数席。
マルグリットが、被告席にいた。
義母は八ヶ月ぶりだった。相変わらず背筋が伸びている。薄い灰色のドレスに、控えめな真珠のイヤリング。法廷にふさわしい、地味だが品のある装い。私をちらりと見て、すぐに目を逸らした。
その隣に、弁護人の男性が座っている。侯爵家が雇った法律家だろう。書類の束を手元に抱えている。
原告席に着いた。
グレンは傍聴席ではなく、外交使節の特別席に案内された。原告席の斜め後ろ。振り返れば目が合う距離。
上級審問官が入廷した。三人。いずれも白髪交じりの壮年で、法服を身にまとっている。
「開廷します。本件は、元侯爵夫人セラフィナによる、侯爵家に対する持参金返還請求訴訟です。原告、訴状を」
訴状を読み上げた。
声は平坦に。感情を込めない。審問官が求めているのは事実と論理であって、涙ではない。
「原告セラフィナは、婚姻時に持参金として金貨三千枚を侯爵家に託しました。離縁成立後、持参金の返還を求めます。返還を求める根拠は、持参金が婚姻中に不正に流用されていたことです」
「証拠を提示してください」
「薬師ギルドが薬害調査の一環として、公的調査権限に基づき押収した侯爵家の帳簿を証拠として提出します」
書記官に帳簿の写しを手渡した。
ギルドに証拠開示を請求して入手したものだ。原本はギルドが保管している。写しには、ギルドの認証印が押されている。
帳簿の該当ページを示した。
「この帳簿の第三十七頁から第四十二頁にかけて、薬の製造資金として支出された金額の記録があります。この支出の原資を追跡すると、私の持参金として管理されていた口座からの移動が確認できます。合計で金貨二千四百枚が、持参金から薬の製造資金に流用されています」
法廷が静まった。
マルグリットの弁護人が立ち上がった。
「異議を申し立てます。この帳簿の入手経路について確認させていただきたい」
来た。私は書類の束に手を添えた。
「どうぞ」
「この帳簿は、どのような経緯で原告の手に渡ったのでしょうか。侯爵家の内部文書を外部の人間が入手すること自体が不正ではないかと」
「この帳簿は、薬師ギルドが薬害事件の公的調査において、国王勅令に基づく調査権限を行使して侯爵家から押収したものです。押収は法的手続きに則って行われており、帳簿の証拠能力は、入手経路の正当性とともに自動的に認められます」
審問官の一人が弁護人を見た。
「弁護人、薬師ギルドの調査権限に基づく押収は、国王勅令第十七条に明記されています。入手経路に法的瑕疵はありません。異議は棄却します」
弁護人が座った。
マルグリットの顔が、わずかに引きつった。
審理は淡々と進んだ。
帳簿の数字は嘘をつかない。記録は正直だ。改竄しない限り。そしてマルグリットは、帳簿を改竄するほどの慎重さを持っていなかった。自分以外に帳簿を見る人間はいないと思っていたから。
持参金の流用額が確定した。金貨二千四百枚。残りの六百枚は、侯爵家の一般会計に移されて日常経費に充てられていた。合計三千枚。全額が流用されていた。
審問官が賠償額の算定に入った。
その間に、もう一つの書類を提出した。
「審問官殿。本件とは直接関係ございませんが、公益に関わる報告書を提出させていただきたく存じます」
「何の報告書ですか」
「聖女リリアーナの治癒魔法に関する異常報告です。本件の薬害調査に関連して浮上した案件であり、公益性の観点から本法廷にて受理いただければ幸いです」
主席審問官が隣の二人と目を交わした。
「侯爵家の薬害事件に関連する報告として、本法廷の管轄内と認めます。提出を許可します」
法廷の空気が変わった。
聖女の名前を、法廷で出した。
「薬師ギルドの過去の記録に、聖女リリアーナの治癒を受けた後に原因不明の精神変容を示した事例が七件報告されています。これに加え、私自身が港町ブリュムで分析した三件の事例でも、聖女の治癒魔法と同一の魔力残滓パターンを検出しています。合計十件の事例が、聖女の治癒魔法に治癒以外の副次効果がある可能性を示しています」
報告書を書記官に渡した。
審問官たちが顔を見合わせた。聖女は国王直轄の存在だ。審問官が直接手を出せる相手ではない。
グレンが立ち上がった。
「発言の許可を求めます。ヴェルデン辺境伯グレン・ヴァルトシュタイン、外交使節として」
審問官が頷いた。
「私自身、五年前にヴェルデンの戦地で聖女リリアーナの治癒を受けた一人です。治癒の際に残された魔力残滓が、五年後に古傷の悪化を引き起こしました。この残滓は、薬師セラフィナによって除去されています」
グレンの声は低く、淡々としていた。
「さらに、ヴェルデン国内でも、聖女の治癒を受けた兵士に精神変容の事例が複数報告されています。この問題は王国内の案件にとどまらず、外交問題に発展する可能性があります。辺境伯として、公的調査の実施を求めます」
法廷が静まった。
外交問題。
その言葉の重さが、審問官たちの表情を変えた。聖女個人の問題なら先送りにできる。外国の辺境伯が外交問題だと言えば、そうはいかない。
主席審問官が口を開いた。
「本件は持参金返還訴訟として審理しますが、聖女リリアーナに関する報告書は、別途、王室直轄の調査機関に回付いたします。辺境伯殿の証言は記録に残します」
公的調査が決まった。
判決は、その日のうちに出た。
侯爵家に対し、持参金三千枚の全額返還、ならびに流用期間の利息相当額として金貨三百枚の賠償を命じる。合計金貨三千三百枚。
マルグリットは判決を聞いて、一言も発しなかった。
弁護人が上訴の可能性を確認していたが、マルグリットは首を横に振った。新しい証拠がなければ上訴はできない。帳簿は動かない。数字は嘘をつかない。
法廷を出た。
廊下で、グレンが追いついてきた。
「……茶」
「は?」
「お前の店の茶が、飲みたい」
ぶっきらぼうだった。六週間ぶりの再会の第一声が「茶」。
「まだ裁判の手続きが残っていますが」
「……ああ、そうだな」
少しだけ、間が空いた。グレンは廊下の窓の外を見ていた。王都の空はまだ曇っている。
「グレン様」
「何だ」
「ありがとうございました」
「礼を言われることはしていない。外交案件として来ただけだ」
「ええ。私情ではないと、おっしゃっていましたものね」
グレンは答えなかった。
代わりに、歩き始めた。私の半歩前を。廊下の、壁側ではなく、人が行き交う側を。
法廷の中でも、証言台のそばに立ってからずっと、この人は私の横を離れなかった。外交使節の席は斜め後ろだったのに、証言を終えた後も元の席に戻らなかった。
私情ではない、と言いながら。
その日の夕方、審問所の書記官から報告が入った。
聖女リリアーナが、王都から姿を消した。
調査機関が正式な調査令状を申請し、審議に入った時点で、リリアーナは王家認定の聖印を使って城門の特別通行枠から出都していた。聖女は国王直轄の身分であり、調査令状が正式に発行されるまでは身柄を拘束できない。その数日の猶予を使って、合法的に消えた。
制度の盲点だった。
聖女を守るための特権が、聖女の逃亡を可能にした。
報告を聞いて、少しだけ息を吐いた。
逃げた。
つまり、聖女は自分のしていたことを知っていた。呪いが暴かれることを恐れていた。それ自体が、一つの証拠だ。
「逃亡は有罪の推定を強める」
グレンが、隣で言った。
「ええ。でも、身柄がなければ裁判はできません」
「追うか」
「今は、追いません。まず港町に戻ります。裁判の結果を整理して、報告書をまとめなければ」
グレンは頷いた。
追うのは、いつか。
今日ではない。
*
審問所の被告控室。
マルグリットは、椅子に座ったまま動かなかった。
弁護人はすでに帰った。部屋にはわたくし一人。窓から差し込む夕日が、石の壁を赤く染めている。
金貨三千三百枚。
侯爵家の年間収入の半分に近い額だ。即座に用意できる金額ではない。領地の一部を売却するか、王都の屋敷を手放すか。
あの女が。
あの地味な、口数の少ない、薬ばかり作っていた嫁が。
八年間、何も知らないと思っていた。帳簿のことも、持参金のことも。大人しく侯爵夫人の役割をこなして、夫の不倫にも気づかず、離縁されて黙って消えていく。そういう女だと思っていた。
違った。
あの女は、半年も前から全て知っていた。知った上で、証拠が揃うまで黙っていた。持参金を請求しなかったのは諦めたからではなく、帳簿を押さえるまで待っていたのだ。
窓の外で、鳥が鳴いている。
アルヴィンは法廷に来なかった。来られなかったのか、来たくなかったのか。あの子は昔から、面倒なことから目を逸らす癖があった。わたくしが全部やってきた。夫が死んでから、侯爵家の財政を支えてきたのはわたくしだ。持参金を使ったのも、侯爵家を守るためだった。
守るため。
本当にそうだったのか。
この部屋には、嘘をつく相手がいない。
薬の製造に使ったのは本当だ。でも、その薬の売上はどこに消えた。社交界の付き合い。新しいドレス。王都の邸宅の改装。リリアーナへの寄進。
わたくしは、何を守っていたのか。
椅子から立ち上がった。膝が少し震えた。年齢のせいだ。年齢のせいだと、思うことにした。
控室を出て、廊下を歩いた。
八年前、この建物の一階で、セラフィナが婚姻届に署名するのを見た。あの時のあの子は、白いドレスを着て、少しだけ頬を染めていた。緊張していたのだろう。
あの子の持参金は、子爵家が家を傾けてまで用意したものだった。
それを、わたくしは使った。
廊下の花瓶に、白い花が活けてあった。リリアーナが好んだ百合に似ている。
目を逸らして、階段を下りた。




