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離縁妻の薬屋は本日も盛況です  作者: 九葉(くずは)


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第8話 一人の夜、一人の答え

『辺境伯グレン・ヴァルトシュタインに告ぐ。直ちに帰還されたし。領境にて魔獣の大量発生を確認――』


書簡を読むグレンの横顔が、初めて見る表情だった。


怒りではない。焦りでもない。もっと静かなもの。義務を思い出した人間の顔だ。


「……すまない。戻らなければならない」


グレンは書簡を畳んで、内ポケットにしまった。


「辺境伯領の案件ですか」


「ああ。領境の魔獣が増えている。俺が出なければ、対処できる人間がいない」


元将軍だ。戦場を知っている人間が必要な事態なのだろう。


グレンは立ち上がって、外套を羽織った。それから、少し迷うように手を止めた。外套の留め金に指をかけたまま、何かを考えている。


「グレン様。お気をつけて」


「ああ」


グレンは外套を外した。


羽織ったばかりの外套を、私の肩にかけた。


重い。大きい。グレンの体温がまだ残っていて、温かい。かすかに、革と煙の匂いがする。


「……冬は冷える」


それだけ言って、戸口に向かった。


「あの、グレン様。これは――」


「替えはある」


振り返らずに出ていった。


大きな背中が、通りの角を曲がって消えた。


外套を肩にかけたまま、しばらく戸口に立っていた。


晩春の風が吹き込んで、調合室の薬草瓶が鳴った。冬は冷えると言ったが、もう春だ。寒くはない。


寒くはないのに、この外套を外す気にならなかった。



翌朝、裏口から薪を取りに出て、足が止まった。


薪が積んであった。


昨日までなかった場所に、冬用の良質な樫の薪が、壁際に整然と積まれている。高さは私の胸ほど。一人で運べる量ではない。


大家のフリッツ老人が用意してくれたのだろうか。でも、フリッツ老人は先週「もう春だから薪は要らんだろう」と言っていた。


近所の誰かが間違えて置いたのだろうか。でも、この量を間違えて置く人がいるだろうか。


薪の一本を手に取った。切り口が新しい。最近割ったものだ。


昨夜、グレンが帰還命令を受けたのは夕方だった。出発は今朝の早朝だと言っていた。夕方から早朝までの間に、これだけの薪を。


まさか。


いや、考えすぎだろう。グレンは辺境伯だ。辺境伯が夜中に薪を割って、薬屋の裏に積むなどということが、あるだろうか。


「大家さんが……? いいえ、昨日はなかった」


誰にともなく呟いて、薪を戻した。


誰が積んだにせよ、ありがたい。晩春とはいえ、港町の夜はまだ冷える。


外套を畳んで、棚にしまった。返さなくてはいけない。次に会った時に。


次に会うのが、いつになるかはわからないけれど。



グレンのいない日が始まった。


最初の三日間は、何も変わらなかった。客は来る。薬は売れる。レオが時々顔を出して「先生、元気か」と聞いてくる。元気だ。元気に決まっている。


四日目の朝に、変化が起きた。


店を開けてすぐ、近所の若い男が老婦人を背負って駆け込んできた。


「先生、ばあちゃんが痙攣してる」


老婦人は七十代くらいで、全身をがたがたと震わせていた。意識はある。目は開いているが焦点が合わない。唇の色が紫がかっている。


「いつからですか」


「今朝、起きたら急に。昨夜は元気だったのに」


「最近、何か新しい薬を飲み始めましたか」


「薬? ああ、滋養強壮の薬を先週から。港の薬屋で買ったやつ」


「その薬、ありますか」


「ばあちゃんの枕元に」


男に走って取ってきてもらった。


薬瓶のラベルを見た瞬間、顎を引き締めた。


アルヴィン侯爵家の紋章。


販売停止前に購入された在庫が残っていたのだろう。


丸薬を割って確認した。色の変質。匂いの酸味。前に分析したものと同じ劣化薬だ。


老婦人の症状は、劣化した配合による急性の副反応。高齢者の体には負荷が大きすぎた。


解毒と症状緩和の処方を組み立てた。前に作った処方を応用する。高齢者向けに用量を調整し、腎臓への負担を減らす配合に変更する。


グレンはいない。


騎士団に連絡する人もいない。行政庁に報告する手続きも、今は一人でやらなければならない。


できる。一人でできる。


解毒剤を投与した。老婦人の震えが、少しずつ収まっていく。唇の色が戻り始める。


一時間後、老婦人は目を開けて「ここはどこだい」と言った。


「薬屋です。もう大丈夫ですよ」


「薬屋? あたしは薬を飲んだだけなのに」


「その薬が問題でした。もう飲まないでくださいね」


老婦人の孫が泣きそうな顔で頭を下げた。「先生、ありがとうございます」


報告書を書いた。薬害認定に追加する形で、行政庁に提出する。グレンの副署はないが、薬師としての報告は私一人の権限で出せる。


提出を終えて、店に戻った。


一人で、できた。


当たり前のことだ。グレンが来る前から、私は一人でやっていた。開店初日から。銀貨二枚の虫刺されの軟膏から。


でも、「一人でできた」と確認しなければならない程度には、あの人がいることに慣れてしまっていたのだと気づいた。



夜。


調合室の机に、薬師ギルドから届いた封筒が置いてある。


王都のギルド本部に手紙を出したのは、十日前だった。過去の異常報告書の中に、聖女リリアーナの治癒に関連する記録がないか、閲覧を申請した。正式な薬師として登録された今なら、ギルドの記録にアクセスする権限がある。


届いた封筒は分厚かった。過去五十年分の異常報告書の抜粋が入っている。


一枚ずつ読んだ。


聖女リリアーナが就任したのは八年前だ。それ以前の報告書には、治癒魔法に関連する異常は記録されていない。先代の聖女の時代には、こうした報告は一件もなかった。


八年前以降に、集中していた。


六年前。王都の貴族夫人が、聖女に慢性の頭痛を治癒してもらった後、聖女の診療所に通い詰めるようになった。家族が「以前とは別人のように聖女様に執着している」と報告。ギルドの対応は「治癒への感謝の範疇」として不問。


五年前。軍の下級騎士が、戦傷を治癒された後、聖女への強い依存を示す。上官が報告。「恋愛感情と判断」として不問。


四年前。地方領主の妻が、治癒後、領地を離れて王都に移住。聖女のそばにいたいと家族に告げる。離婚に至った。ギルドへの報告は「家庭の問題」として不問。


この三件の他にも、同様のパターンが四件あった。外交官、宮廷楽師、修道女、商家の娘。いずれも、聖女に治癒を受けた後に異常な執着・依存を示し、いずれも個別の理由をつけて不問に付されている。


合計七件。


一件ずつなら、確かに「個人の問題」で済むかもしれない。


七件並べたら、そうはいかない。


報告書を机に広げた。


七件のギルド報告。私自身が分析した三件――レオの毒の魔力反応、クラーラの薬瓶の依存性成分、グレンの古傷の魔力残滓。


合わせて十件。


全てに共通するのは、聖女リリアーナの魔力の痕跡。


「偶然と呼ぶには、多すぎます」


声に出して言った。調合室には私しかいない。


聖女の治癒魔法には、治癒以外の効果がある。対象者の精神に作用し、聖女への好意や依存を強化する。意図的か無意識かはわからない。だが、効果は一貫している。


ただし、断定するには公的な場での調査が必要だ。薬師一人の分析では、聖女という国家的な存在を告発する根拠にならない。


王都の裁判。審問所。薬師ギルドの公式見解。


それらが揃って初めて、この疑惑は疑惑から事実に変わる。


前の世界で、会社ぐるみの品質偽装を発見した時と同じ感覚がする。一つの不良品は事故かもしれない。二つ目は偶然かもしれない。三つ目から、パターンが見え始める。十件あれば、構造的な問題だと断定できる。


記録帳に書き留めた。全ての証拠の一覧。仮説の概要。次に必要な手続き。


ペンを置いた。


窓の外は暗い。波の音だけが聞こえる。風がないのだろう。


一人だ。


グレンがいない夜は、店が広く感じる。同じ広さのはずなのに。


「グレン様がいなくても、私はやっていける」


そう思う。実際、今日も一人で患者を救った。一人で報告書を出した。一人でギルドの記録を分析した。一人で、聖女の呪いの輪郭に辿り着いた。


一人で、できる。


「でも」


暖炉の薪をくべた。あの薪だ。裏に積んであった樫の薪。火持ちがいい。暖炉の前にいると、外套の匂いを思い出す。革と煙の匂い。


「いてくれた方が、薬の味見役がいて助かりますわね」


誰もいない調合室で、冗談を言った。


笑えなかった。


代わりに、茶を淹れた。グレンが置いていった高山茶の残りを使った。甘い花の香りが立ちのぼる。この茶をグレンが自分で淹れたら、きっと渋くなるのだ。


カップを両手で包んだ。


春の夜は、まだ少しだけ冷える。

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