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離縁妻の薬屋は本日も盛況です  作者: 九葉(くずは)


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第7話 騎士の古傷に宿る影

「動かない」


グレンが左腕を押さえたまま、薬屋の戸を蹴り開けた。


蹴り開けた、というのは比喩ではない。右手で左腕を押さえているから、戸を開ける手がなかったのだ。靴の底で戸板を押して、体をねじ込むようにして入ってきた。


顔色が悪い。この人の顔色が悪いのを見るのは初めてだった。


「座ってください。見せてください」


「……すまん」


すまん、と言ったのも初めてだった。


グレンが左腕の袖をまくった。


古傷が腫れていた。三週間前に診た時よりも明らかに悪化している。傷跡周辺の皮膚が赤黒く変色し、熱を持っている。触れると、グレンの肩がわずかに跳ねた。痛いのだ。この人が痛みを顔に出さないことは、もう知っている。肩が動いたということは、相当痛い。


「いつから悪化しましたか」


「三日前からだ。朝起きたら、腕が上がらなくなっていた」


三日。三日間、この状態で我慢していたのか。


いつもの軟膏を塗ってみた。効かない。炎症が引かない。これまでは軟膏で痛みが軽減していたのに、今回は反応しない。


薬が効かない傷。


棚から魔力反応試薬を取り出した。


この試薬を使うのは、レオの毒とクラーラの薬瓶に続いて三度目だ。薬師ギルドで習った基本の検査用具で、魔法ではなく薬学の技術。特定の薬草と鉱物を調合した液体を対象に垂らすと、魔力残滓があれば色が変化する。


傷口の周辺に、試薬を一滴落とした。


色が変わった。


淡い紫。


レオの毒に含まれていた青みがかった反応とは違う。もっとはっきりとした紫色。クラーラの薬瓶の成分を分析した時にも見た、あの色に近い。


「グレン様。この傷は、いつ、どこで負われましたか」


「五年前だ。ヴェルデンの南部戦線で。敵兵の剣でやられた」


「治療はどなたが」


「軍の治癒師が応急処置をして、それから……」


グレンの声が、少しだけ途切れた。


「聖女が治した。王国から派遣されていた聖女リリアーナが、前線の負傷兵を治癒して回っていた。俺もその一人だ」


聖女リリアーナ。


手が止まりそうになった。止めなかった。


「治癒を受けた後、何か変わったことはありませんでしたか」


「……特には。傷は塞がった。ただ、完全には治らなかった。引きつれが残って、時々痛む。それだけだ」


それだけ。五年間、この人はそう思ってきた。戦傷の後遺症だと。


でも、この紫色の反応は違うことを示している。


「少しお時間をください。傷を詳しく調べます」



調合室にこもった。


グレンの傷口から採取した微量のサンプルと、クラーラの薬瓶から採取した成分のサンプルを並べた。


同じ魔力反応試薬を、同じ量だけ垂らす。


色が変わる。


どちらも紫。濃さは違う。グレンの方が薄い。五年分の時間が経っているから当然だ。だが、紫色の質が同じだ。同じ種類の魔力が残している痕跡。


レオの時に保存しておいた毒のサンプルも並べた。あの時の反応は青みがかった変色だった。青紫と言ってもいい。紫の系統は同じだが、濃度が違う。


三つのサンプル。三つの紫。


エレノア夫人の紅茶だけが、この系統に含まれない。あれは純粋な植物毒で、魔力の痕跡はなかった。


レオの毒は、同僚騎士カイルが仕込んだもので、聖女とは無関係だった。でも、毒の中に魔力が残っていた。カイルは魔法を使えない。なら、毒の材料か、毒を保管していた容器か、あるいは毒を入手した経路のどこかに、魔力を帯びた何かが触れていた。


クラーラの薬瓶は、聖女の診療所の処方薬だった。依存性を高める配合。そして魔力の痕跡。


グレンの古傷は、聖女に治癒された傷だった。五年前の治癒の痕跡が、今も残っている。


同じ紫色。同じ系統の魔力。


治癒魔法は、傷を治すものだ。治した後に魔力が残ること自体は不自然ではない。だが、五年経っても残るほどの魔力残滓は、通常の治癒では説明がつかない。


治癒の際に、治癒以外の何かが一緒に施されていたとしたら。


仮説が浮かんだ。だが、今はグレンの治療が先だ。


中和試薬。


魔力反応試薬の原理を応用して、魔力残滓を化学的に分解する試薬を作れるはずだ。体内に蓄積した有害物質を結合させて排出する手法。記憶の中の知識と、この世界の薬草学を掛け合わせる。


配合を計算し始めた。


銀苔草の粉末。月光蘭の根のエキス。霧水晶の微粉末。配合比率が難しい。過剰に投与すれば周辺組織を傷つける。少なすぎれば残滓を分解しきれない。


微量成分の精密な制御。誤差を限界まで抑える。記憶の中の手の感覚が、今の手を導いた。


時計の針が一周した。二周した。


窓の外が暗くなり、また明るくなりかけていた。



「できました」


グレンは店の椅子で眠っていた。腕を組んで、壁に背を預けて。起きた時、一瞬だけ目が泳いだのを見た。寝ぼけたのだろう。この人にも、そういう瞬間があるのだ。


「中和試薬です。傷口に残っている魔力残滓を化学的に分解します。ただし」


「ただし」


「繊細な作業です。投与量を間違えると、腕の組織を傷つけます。慎重にやりますので、動かないでください」


グレンは黙って左腕を差し出した。


私は椅子を引き寄せて、グレンの隣に座った。


近い。こんなに近くに座ったのは初めてだ。いつもはカウンター越しだった。


傷口の周辺を清浄にして、中和試薬を細い筆で塗布していく。一滴ずつ。一筋ずつ。残滓の集中している箇所を、魔力反応試薬で確認しながら、ピンポイントで中和する。


グレンの腕は太い。戦争で鍛えた筋肉が、今も衰えていない。傷跡は長い。肘の上から手首の近くまで。


手が震えそうになった。震えてはいけない。


集中した。手元だけを見て。グレンの腕がグレンのものだということを、できるだけ考えないようにして。


一時間が過ぎた。


傷口周辺の魔力反応が、少しずつ薄くなっていく。紫色が消えていく。


最後の一点を処理した時、グレンが小さく息を吐いた。


「……痛みが引いた」


「本当ですか」


「ああ。三日ぶりに、腕が軽い」


私は試薬の筆を置いて、もう一度魔力反応試薬で確認した。


反応なし。


残滓は除去された。


「成功です」


言った瞬間、力が抜けた。背もたれに体を預けて、天井を見上げた。


「グレン様。この傷の原因は、五年前の聖女の治癒です」


「……何?」


「聖女リリアーナが治癒した際に、魔力の残滓が傷の中に残りました。通常の治癒ではあり得ない量です。この残滓が、五年かけて傷を悪化させていました」


グレンは左腕を見下ろした。傷跡はまだある。でも、赤黒い腫れは引き始めていた。


「聖女が……俺の傷を治した時に、何かを残したということか」


「はい。そして、同じ種類の魔力反応を、私は別の場所でも検出しています。少年騎士レオの毒の中と、消えた令嬢クラーラの薬瓶の中に」


沈黙が落ちた。


グレンは腕を見つめていた。五年間信じていたこと。聖女に救われた、という記憶。それが、少し違う色を帯び始めている。


「……ありがとう」


低い声だった。


「助かった」


それだけ言って、グレンは立ち上がった。


「帰る。お前は寝ろ。一晩中起きていただろう」


「大丈夫です。まだ」


「寝ろ」


有無を言わさない声だった。グレンは外套を羽織って、店を出ていった。


一人になった調合室で、記録帳を開いた。今回の分析結果を書き込む。中和試薬の配合。除去した残滓の量。


ペンを走らせている途中で、目が滲んだ。


疲れたせいだ。徹夜のせいだ。


でも、少しだけ、別の理由もあった。


あの人の腕を治せた。五年間、ずっと痛かった腕を。


記録帳を閉じようとして、指に力が入らなかった。手が震えている。疲れのせいだ。たぶん。


涙が一滴、記録帳に落ちた。インクが少し滲んだ。


慌てて拭いたが、跡は残った。



翌朝、目が覚めたら昼だった。


調合室の椅子で寝落ちしていた。首が痛い。頬に記録帳の跡がついている。


顔を洗って着替えて、店に降りた。


カウンターの上に、紙包みが置いてあった。


開けると、茶葉だった。


深い緑色の、細かい葉。嗅ぐと、甘い花のような香りがふわりと立った。


これは。


ヴェルデン産の高山茶。北方の高地でしか育たない希少な品種で、港町の市場には出回らない。王都の高級茶商ですら在庫を持たないことがある。


なぜこんなものが。


紙包みの端に、見慣れた雑な字があった。


「茶葉が切れていた」


切れていない。うちの茶葉はまだ十分にある。


グレンが、わざわざ商人に頼んで取り寄せたのだ。いつ発注したのかはわからない。でも、この種類の茶葉を港町で手に入れるには、ヴェルデンの交易商に特注するしかない。少なくとも一週間はかかる。


一週間以上前から、準備していたということだ。


「……たまたま市場で見つけたのでしょうね」


誰に言うでもなく呟いた。市場にはない茶葉だと、自分が一番よく知っているのに。


茶を淹れた。分量は普通にした。


一口飲んだ。


甘い。花のように柔らかい甘さ。グレンが自分で淹れたら、きっと渋くなるのだろう。もったいない。


カップを置いた時、戸口をノックする音がした。


開けると、薬師ギルドの使者だった。封書を一通、差し出された。


封を切った。


『薬師セラフィナ殿。レシピ登録番号第4172号ないし第4178号について、異議申立期間(14日間)を経過し、異議の提出がなかったことを確認いたしました。よって本日付で、上記レシピの開発者名義をアルヴィン侯爵からセラフィナに変更いたします。薬師ギルド登録局』


手紙を、二度読んだ。


私の名前が、ギルドに刻まれた。


八年間、私が作ったレシピ。夫の名前で登録されていたもの。それが、私の名前に戻った。


カップの中の茶が、まだ温かかった。


花の香りがする茶を飲みながら、ギルドの手紙をもう一度読んだ。


涙は出なかった。昨夜、全部出してしまったから。


代わりに、棚を開けた。一回で開いた。


蝶番が新しいものに替わっていた。


誰がやったのかは、聞かない。

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