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離縁妻の薬屋は本日も盛況です  作者: 九葉(くずは)


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第10話 薬屋の日常と、一生分の処方箋

港町ブリュムの朝は、今日も潮の匂いと海鳥の声で始まる。


ただ、以前と少しだけ違うのは、暖炉の隣に、見覚えのある外套がかかっていることだった。革と煙の匂い。大きすぎる肩幅の形が、そのまま残っている。


返さなくてはいけない。ずっとそう思っている。思っているのに、暖炉の横にかけたまま、毎朝ちらりと見てしまう。


店の支度を始めた。薬草の仕分け。瓶の補充。棚の整理。棚は一回で開く。蝶番を替えてもらってから、引っかからなくなった。


誰に替えてもらったかは、聞いていない。


賠償金が入ってから、店を少し広げた。調合室の奥にもう一部屋増やして、薬草の保管庫にした。カウンターも新しくした。前のカウンターには傷があった。開店初日、あの無愛想な客が硬貨を置いた横にあった小さな傷。新しいカウンターはまだ綺麗だ。前の板を一枚だけ、調合室の棚の裏に立てかけてある。捨てる気にはならなかった。


店を開けると、もう客が待っていた。



最初に来たのは、エレノアだった。


伯爵夫人は、以前より顔色がいい。不眠の影はすっかり消えて、頬にふっくらと肉がついている。


「セラフィナさん、お元気でしたか。裁判のこと、王都でも話題になっていましたよ」


「ご心配をおかけしました」


「心配なんてしていませんわ。あなたなら勝つと思っていましたもの」


エレノアは微笑んだ。柔らかい笑い方をする人だ。


「わたくしの方もご報告を。夫とは正式に離縁しました。マリーは今、わたくしの屋敷で侍女頭をしています」


「マリーさんが」


「ええ。あの子は被害者でしたから。今はのびのびとやっていますわ。弟さんも、新しい奉公先が見つかったそうです」


よかった。


毒を盛らされていた夫人と、盛らされていた侍女。二人とも、新しい場所で立ち直っている。


エレノアは帰り際に、小さな箱を渡してくれた。


「王都の焼き菓子です。お好きかどうかわかりませんけど」


「ありがとうございます」


好きだ。実は好きだ。侯爵夫人だった頃、王都の菓子店で時々買っていた。離縁してからは食べていなかった。


箱を開けると、焼きリンゴのタルトが二つ入っていた。一つでは余るし、二つでは多い。でも、もしかしたら、二つでちょうどいい日が来るかもしれない。



次に来たのは、レオだった。


少年騎士は、以前より背が伸びていた。三ヶ月で二センチは伸びたのではないか。


「先生、久しぶり。元気か」


「元気ですよ。あなたこそ、大きくなりましたね」


「飯がうまいからな。先生の薬をやめたら食欲が戻った」


「私の薬のせいではありません」


レオはけらけら笑った。この子の笑い方は好きだ。何の含みもない。


「昇進したんだ、俺。正騎士に」


「おめでとうございます」


「先生のおかげだ。あのまま倒れてたら、昇進どころじゃなかった」


レオは敬礼してみせた。形は少し崩れている。まだ慣れていないのだろう。


「先生。何かあったら呼んでくれよ。正騎士の俺が駆けつけるから」


「頼もしいですね」


「だろ」


笑って出ていった。戸口で「あ、あの辺境伯の人にもよろしく」と付け足した。


あの辺境伯の人。レオの中では、グレンはそういう分類らしい。



午後に、ヘルマンが来た。


商家の当主は、以前より少し痩せていた。でも、目の下の隈は消えている。


「クラーラから手紙が来ました」


「よかったですね」


「修道院で薬草学を学んでいるそうです。いずれは薬師になりたいと」


ヘルマンは笑った。泣き笑いに近かった。


「あの子が自分で選んだ道です。父親にできるのは、応援することだけです」


帰り際、ヘルマンが振り返った。


「セラフィナさん。あなたに娘を見つけていただいた恩は忘れません。もし何かあれば、ヘルマン商会を頼ってください」


「ありがとうございます」


商人の恩義は、貴族の恩義より実質的だ。いつか、何かの形で助けてもらうことがあるかもしれない。



店を閉めた後、調合室で一人になった。


今日一日で、三人の依頼人が訪ねてきた。全員が、元気で、笑っていた。


あの時、毒を見つけた。嘘を暴いた。真実を処方した。


それが、今日の笑顔に繋がっている。


薬師として、これ以上のことはない。



  *



王都。侯爵邸。


書斎の窓から、中庭の薔薇が見えた。


枯れている。冬の間に株元の藁を敷かなかったから、根が傷んだのだ。セラフィナがいた頃は、冬でも手入れを欠かさなかった。彼女が去ってから、誰もやらなかった。僕もやらなかった。


リリアーナが逃げて、三週間が経った。


最初の一週間は、胸の奥がざわついていた。リリアーナがいない。会えない。声が聞けない。


二週間目に、ざわつきが薄くなった。


三週間目の今は、ほとんど何も感じない。


霧が晴れるように、とはこういうことかもしれない。


リリアーナのことを考えようとする。白い手。柔らかい声。優しい微笑み。記憶はある。でも、記憶を思い出しても、あの焦がれるような感情が湧いてこない。映像だけが残って、温度が消えている。


三年間、僕はリリアーナのことを考えない日がなかった。目を閉じれば彼女の顔が浮かんだ。会えない日は胸が苦しかった。会えた日は世界が輝いた。


それが、消えた。


リリアーナが王都から離れて、会えなくなって、三週間で、消えた。


三年間の感情が、三週間で。


ありえない。


人が人を好きになる気持ちは、三週間では消えない。距離が離れたくらいで、溶けるように失われたりしない。


あれが自然な感情だったなら。


あれが、本当に、僕自身の意志で生まれた感情だったなら。


「……僕は、本当に自分の意志で、彼女を裏切ったのか」


声に出して言った。書斎には僕しかいない。


セラフィナが審問所に提出した報告書のことは聞いている。聖女の治癒魔法に副次効果がある。対象者の精神に影響を与える。依存を生む。


僕は三年前、リリアーナに治癒された。倦怠感を治してもらった。あの日から、彼女のことが頭を離れなくなった。


それは恋だと思っていた。


恋ではなかったとしたら。


机の上に、便箋を広げた。ペンを取った。


セラフィナに何を書けばいいのか、わからなかった。


八年間のことを全部書くのか。聖女のことを。母のことを。帳簿のことを。自分がどれほど愚かだったかを。


書けなかった。


長い間、白い紙を見つめていた。ペンの先からインクが一滴落ちて、小さな染みを作った。


短く、書いた。


封をして、使者に渡した。


枯れた薔薇の向こうに、夕日が沈んでいく。赤い光が書斎の壁を染めている。


八年前、この部屋でセラフィナが離縁を告げた。あの時、僕はなぜ引き止めたのか。愛していたからか。習慣だったからか。それとも、便利な人間を失いたくなかっただけか。


答えは、もう出ない。


出なくてもいい。


彼女は、もう僕の答えを待っていない。



  *



手紙が届いたのは、翌日の朝だった。


侯爵家の封蝋。見覚えのある紋章。


開けた。


便箋を広げた。余白ばかりだった。書かれていたのは、署名を含めてもほんのわずか。



『すまなかった。

 幸せであってほしい。

         アルヴィン』



しばらく、手紙を見ていた。


すまなかった。


その一言が、八年分の全てなのだろう。


許すか、許さないか。そういう問題ではない気がした。


怒りは、もうない。裁判で全部出した。帳簿で証明した。賠償を勝ち取った。やるべきことは全部やった。


恨みも、もうない。恨む相手は、もしかしたら、アルヴィンではなかったのかもしれない。聖女の呪い。あれが本当なら、アルヴィンもまた操られていた。


でも、呪いであろうとなかろうと、失われた八年間は戻らない。


手紙を折り畳んで、棚にしまった。捨てはしない。でも、読み返すこともないだろう。


「さて」


エプロンを結び直した。


「本日も開店です」


店の戸を開けた。朝の港町。潮の匂い。海鳥の声。いつもの風景。


いつもの風景の中に、いつもではないものが立っていた。


グレンだった。


店の前に立っている。黒い外套を着て、腕を組んで、まっすぐこちらを見ている。


左手に、何か持っている。


見覚えのある紺色の布。


私の――いや、グレンの外套だ。あの日、私の肩にかけた外套。暖炉の横にかけてあったはずのものを、いつの間にか持ち出していたのか。


「グレン様。おかえりなさいませ」


「……ああ」


グレンは店に入ってきた。カウンターの前に立った。外套を手に持ったまま。


「いつ戻られたのですか」


「昨夜だ」


「昨夜。それならまず休まれた方が」


「いや」


グレンが外套をカウンターに置いた。


「返しに来た」


「……返しに?」


「お前が預かっていただろう。返す」


「はい。お返しします。もう春ですし、外套は要りませんから」


手を伸ばして、外套を受け取ろうとした。


グレンの手が、外套の上に重なった。


「もう要らない」


「え」


「外套は、もう要らない。代わりに」


グレンの声が、少しだけ掠れた。


「俺の隣にいろ」


手が止まった。


カウンターの上に、二つの手がある。グレンの大きな手と、私の手。間に、紺色の外套。


「……それは、プロポーズですか」


「他に何に聞こえる」


「処方箋のない患者のわがままです」


グレンの眉が動いた。困った顔をしている。この人が困った顔をするのを見るのは珍しい。


「……頼む」


低い声だった。


頼む、と言った。この人が、誰かに何かを頼むのを、初めて聞いた。


喉の奥が熱くなった。泣くな。泣くな。ここで泣いたら、この人はもっと困る。


「喪期間は、明けていますわね」


「ああ。三ヶ月はとうに過ぎている」


「外交手続きが必要だと、ルールにあったはずですが」


「手続きは俺がやる。時間はかかるが、必ず通す」


「……そうですか」


外套から手を離した。グレンの手が残った。大きくて、硬くて、右の甲に新しい傷がある。治療が雑だ。私がいれば、もう少しましな処置ができたのに。


「お受けしますわ」


グレンの指が、わずかに震えた。この人の指が震えるのを、初めて見た。


「グレン」


呼んだ。


様をつけなかった。初めて。


グレンの耳が赤くなった。


「……セラフィナ」


名前を呼ばれた。初めて。


呼ばれただけなのに、心臓が一回、大きく鳴った。


この人の耳が赤くなるのも、初めて見た。首まで赤い。四十近い男の人の耳が真っ赤になるのは、少しだけおかしかった。


笑った。声を出して笑った。侯爵夫人だった頃には笑い声を上げるだけで周囲の目を気にしていたのに。


「何がおかしい」


「いいえ、何でも」


「……笑うな」


「笑っていません」


笑っている。笑いが止まらない。涙が出るほど笑っている。


グレンはしばらく困った顔をしていたが、やがて口の端がわずかに持ち上がった。


笑った。


この人が笑うのを見るのは、二度目だ。口の端が少しだけ上がる、ほとんど目に見えない笑い方。でも、今日のは少しだけ、大きかった。



夕方。


店を閉めて、調合室で記録帳を開いた。


今日の記録を書く。


日付。天気。来客。売上。処方した薬。


最後の行に、少しだけ迷って、書き足した。


『本日、常連客より一生分の処方を依頼される。受諾した。』


ペンを置いて、窓の外を見た。


港の灯台が回り始めている。いつもの間隔で。オレンジ色の光が、調合室を横切っていく。


聖女リリアーナの行方は、まだわからない。依存の呪いの起源も解明されていない。生まれつきの力なのか、誰かに与えられたものなのか。


グレンの古傷から除去した魔力残滓は、中和試薬で分解した。完全に消えたと思う。でも、再発の可能性がゼロだとは言い切れない。経過を見続ける必要がある。


私の前世の記憶がなぜ戻ったのか。高熱で倒れた時に、偶然。そう思っていた。でも、本当に偶然だったのか。聖女の呪いが蔓延する世界で、呪いを見破れる知識を持った人間の記憶が、たまたま蘇った。


偶然にしては、出来すぎている。


まだ、全ての処方箋が揃ったわけではない。


でも、今日は。


焼きリンゴのタルトが、二つある。エレノアがくれた箱の中身。一つでは余るし、二つでは多いと思っていた。


ちょうどいい。


階下で、グレンが茶を淹れる音がしている。また渋くなるのだろう。


立ち上がって、階段を下りた。


「グレン、茶葉の量が多いですよ」


「これでいい」


「よくありません。せっかくの高山茶が台無しです」


「……うるさい薬師だな」


うるさい薬師で結構。


タルトを二つ、皿に乗せた。グレンの前に置いた。


渋い茶と、甘いタルト。


悪くない組み合わせだと思った。


窓の外で灯台が回っている。潮の匂い。海鳥は寝静まって、代わりに波の音が聞こえる。


「いつか、全ての処方箋が揃う日が来るのでしょうね」


「来る」


短い。でも、迷いがなかった。


「お前と一緒に揃える」


渋い茶を一口飲んだ。


やっぱり渋い。


でも、今日は少しだけ、甘かった。

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