第3話 少年騎士の毒と、仲間という名の裏切り
「このまま衰弱が続けば、あと三日だ」
その声は、店の外から聞こえてきた。
朝の仕込みを終えて、棚の瓶を並べ替えていた時だった。店の前の通りに人だかりができている。軍服を着た男が二人、担架を運んでいた。
担架の上に横たわっていたのは、少年だった。
軍服を着ているが、まだ子供に近い。十六か十七か。頬がこけて、唇の色が悪い。目は閉じたまま、時折うめくように息をしている。
担架の横を歩いていた壮年の軍人が、冷たい声で言った。
「呪いだろう。先日の魔物討伐で何かもらったんだ。軍医には手に負えん」
呪い。
この世界では、原因不明の病はたいてい呪いのせいにされる。前の世界で「ストレスですね」と言われるのと同じくらい雑な診断だと、私は思っている。
「あの」
声をかけていた。自分でも驚いた。
軍人が振り返った。
「薬屋です。よろしければ、診させていただけませんか」
壮年の軍人は私を見て、それから店の看板を見て、鼻で笑った。
「町の薬屋に何ができる。軍医が匙を投げた案件だぞ」
「匙を投げた案件だからこそ、別の目で診る価値があるかと」
軍人の眉が動いた。生意気な薬師だと思われただろう。でも、あの少年の顔色は、呪いの症状ではない。少なくとも私が知っている呪いの症例とは違う。
「何の根拠がある」
「根拠は、診てからお示しします」
押し問答になりかけた時、背後から低い声がした。
「診させてやれ」
振り返ると、あの大男が立っていた。いつから来ていたのか、足音もしなかった。
軍人の態度が変わった。
「……グレン殿。これは騎士団の内部案件でして」
「俺はこの地区の交易管理を預かっている。港町で騎士団の兵が倒れれば、治安に関わる。薬師に診せることに不都合はないはずだ」
グレン。
あの男の名前を、初めて知った。
軍人は何か言いたそうだったが、結局は黙って頷いた。グレンという名前、そして「交易管理を預かっている」という言葉には、階級以上の重みがあるらしい。
少年は、私の店の奥の寝台に運び込まれた。
少年の名前はレオ。港町駐屯の騎士見習いだという。
脈を取る。弱いが規則的だ。呪いによる衰弱なら脈が乱れるのが通例だと、薬師ギルドの教本にはある。
舌の色を確認する。白っぽい。栄養不良か、あるいは。
「いつ頃から具合が悪くなりましたか」
付き添いの若い騎士が答えた。同僚らしい。
「十日ほど前からです。最初は食欲がないと言っていて、それから急に痩せ始めて」
「食事はどうしていましたか」
「宿舎の食堂で、みんなと同じものを食べていました。特に変わったものは」
みんなと同じもの。なのにレオだけが衰弱している。
「レオさんだけが体調を崩しているんですね。他の方は?」
「ええ、レオだけです」
全員が同じ食事。なのに一人だけ。
レオの腕を持ち上げて、皮膚の状態を確認した。乾燥している。爪の色が薄い。これは慢性的な微量中毒の兆候に似ている。エレノア夫人の時と同じだ。
呪いではない。
「食事は本当に全員同じですか。個人で何か、間食や飲み物を取っていませんでしたか」
付き添いの騎士が少し考えた。
「……レオは、訓練の後に自分で薬湯を飲んでいました。筋肉痛にいいからって。宿舎の調理場で、自分で煮出して」
「その薬湯の材料は」
「知りません。レオが自分で買ってきていたので」
薬湯。自分で煮出していた。材料は自分で買った。
だが、材料に何かが混入されていたとしたら。
「その薬湯の残りは、宿舎にまだありますか」
「たぶん。調理場の棚に置いてあったと思います」
行く必要がある。だが、騎士団の宿舎に民間の薬師が立ち入るのは簡単ではない。
店の入り口に目をやった。グレンが腕を組んで壁に寄りかかっていた。少年の様子を見ているのか、私の様子を見ているのか。
「すみません。騎士団の宿舎に入って、レオさんの薬湯を調べたいのですが、立入許可が必要です」
グレンは壁から背を離した。
「行くぞ」
それだけ言って、先に歩き出した。
説明を求められるかと思ったが、何も聞かれなかった。私の判断を信じたのか、面倒な説明を省きたかっただけか。どちらにしても、助かる。
騎士団の宿舎は、港から丘を一つ越えた場所にあった。
石造りの地味な建物だ。兵舎というより、大きな合宿所に近い。洗濯物が庭に干してあって、訓練用の木剣が壁に立てかけてある。
門番がグレンを見て敬礼した。「辺境伯殿」と呼ばれていた。
辺境伯。
あの無愛想な男が、辺境伯。隣国ヴェルデンの。
聞き間違いではないかと思ったが、門番の態度は本物だった。こちらの国の侯爵と同格の扱いを受ける外国の高位貴族が、毎日うちの薬屋に来て、釣り銭も受け取らずに干し肉を置いていく。
考えるのは後にしよう。今はレオのことだ。
調理場は宿舎の一階にあった。大きな竈と、調味料の棚。棚の端に、麻袋に入った乾燥薬草がいくつか置いてある。
「これがレオの薬湯の材料だと思います」
付き添いの騎士が、一つの麻袋を指した。
開けた。
嫌な匂いがした。
薬草の匂いの下に、甘ったるい腐葉土のような匂いが混じっている。エレノア夫人の時ほど隠されていない。雑な混入だ。
「これ、全部をレオさん本人が買ったものですか」
「レオが自分で買ったのは最初の分だけです。なくなりかけた時に、親切で同じものを買い足してやった者がいて」
「誰ですか」
付き添いの騎士の顔が曇った。
「……カイルです。同期の。でも、カイルがそんなことをするはずは」
名前が出た。
だが、決めつけるのは早い。まず薬草を分析して、何が混入されているかを特定する。
「この薬草を持ち帰らせてください。分析します」
グレンが門番に一言告げて、持ち出しの許可を取った。手続きは一分もかからなかった。辺境伯の名前は、こういう場面では便利だ。
店に戻って、調合室にこもった。
薬草を分離し、一つ一つ確認していく。
問題のある成分はすぐに見つかった。鉛白草の根。遅効性の毒だ。少量ずつ摂取すると、まず食欲不振、次に慢性的な倦怠感、そして急激な体重減少を引き起こす。致死量に至るには大量に必要だが、弱った体に病や怪我が重なれば命に関わる。
殺すためではない。弱らせるための毒だ。
エレノア夫人の件と構図が似ている。微量の毒を、日常の飲食に紛れ込ませる。被害者は原因がわからない。医者も呪いと片付ける。
ただ、今回は一つだけ違うことがあった。
魔力反応試薬を使った時だ。
念のために試した。鉛白草には本来、魔力は含まれていない。ただの植物毒だ。だから、反応は出ないはずだった。
試薬の色が、わずかに変わった。
紫ではない。エレノア夫人の時とも違う。もっと淡い、ほとんど気のせいのような青みがかった変色。
魔力の残滓。
ごく微量だが、この毒には魔力が触れた痕跡がある。鉛白草そのものに含まれるものではない。誰かが魔力を帯びた手で、あるいは魔力を帯びた道具で、この薬草を扱った。
何を意味するのか、この時点ではわからなかった。
記録だけ残して、保留にした。今はレオの治療が先だ。
解毒剤の調合に取りかかった。鉛白草の毒素構造は、記憶にある別の知識と重なった。体内に蓄積した有害物質を結合させて排出する手法。この世界の薬草で再現できるはずだ。
配合の計算を始めたら、手が勝手に動いた。こういう時、二つ目の記憶が顔を出す。数字を追っている間は、何も考えなくていい。帳簿を追っている時と同じだ。
夜中まで調合が続いた。
ふと顔を上げると、暖炉の火が落ちかけていた。
立ち上がって薪を足そうとして、気づいた。
暖炉の横に、新しい薪が積んであった。
さっきまで、ここにあったのは細い端材が数本だけだったはずだ。いつの間に。店の戸に鍵はかけていなかったが、調合に集中していて気づかなかった。
薪は上質な樫だった。火持ちがいい種類だ。
「……いい薪ですこと」
誰にともなく呟いた。
きっと木の種類がいいのだろう。この港町は樫材の産地だと聞いた。だから火持ちがいい薪が手に入りやすいのだ。
薪をくべて、調合に戻った。
翌朝、レオに解毒剤を投与した。
効果はその日のうちに現れた。夕方には目を開けて、水を自分で飲めるようになった。
「……ここ、どこ」
「薬屋です。あなたは毒を盛られていました」
「毒?」
レオは目を丸くした。思ったより幼い顔だ。
「あなたが飲んでいた薬湯に、鉛白草の根が混入されていました。買い足してくれた同僚の方がいますね」
レオの表情が凍った。
「……カイルが?」
「分析の結果はそう示しています。ただ、動機については私にはわかりません。あなたの上官に報告し、調査を進めていただくのがよいかと」
レオは天井を見上げた。
「カイルとは、同期だった。入団から一緒で。俺が先に昇進の推薦をもらって、あいつは……」
声が途切れた。
信じたくないのだろう。同じ釜の飯を食った仲間に毒を盛られるというのは、裏切りの中でも重い部類だ。
レオの目が赤くなった。泣くのかと思ったが、泣かなかった。唇を噛んで、拳を握って、それから、大きく息を吐いた。
「……先生」
「はい」
「ありがとう。先生がいなかったら、俺、呪いってことで片付けられてた」
「薬師として当然のことをしただけです」
「先生って、怖いくらい淡々としてるな」
「よく言われます」
レオが、くしゃりと笑った。笑うと、年相応の少年に戻る。
「姉ちゃんって呼んでいい?」
「先生、でお願いします」
「じゃあ先生で。先生、恩に着る」
恩に着なくていい。あなたが元気になれば、それでいい。
そう思ったが、口には出さなかった。代わりに、解毒剤の次の分量を測る作業に戻った。
報告を受けた上官は、カイルを取り調べた。
カイルは否認した。だが、レオの薬草袋から検出された鉛白草の根と、カイルの私物から見つかった同じ薬草の包みが一致し、購入先の薬草商の証言も取れた。
動機は昇進への嫉妬だった。
レオより半年遅れで入団し、訓練成績もわずかに劣っていた。レオが先に推薦を受けた時に、何かが折れたのだろう。殺す気はなかったとカイルは言ったらしい。「少し体調を崩させて、推薦を取り消させたかっただけだ」と。
結果的に、あと三日遅ければレオの命は危なかった。少し体調を崩させるつもりが、あと三日で人を殺すところだった。
カイルは拘束され、軍法会議にかけられることになった。
レオはその報告を聞いて、何も言わなかった。
窓の外を見ていた。港町の空は高く、冬の終わりの光が白かった。
レオの回復が伝わると、騎士団の若い兵士たちが薬屋に顔を出すようになった。
「先生、腰が痛いんですけど」「先生、この切り傷見てください」「先生、二日酔いに効く薬ありますか」
急に客が増えた。ありがたいが、うるさい。
そんな中、別の話も耳に入ってきた。
「そういえば先生、アルヴィン侯爵の薬って知ってます? 前はうちの部隊でも使ってたんですけど、最近ロットによって効きが全然違くて」
「効きが違う?」
「同じ薬なのに、前のやつはよく効いたのに、最近のは全然。品質が落ちたって、うちの軍医もぼやいてました」
アルヴィン侯爵の薬。
私が開発したレシピを、夫が自分の名前で登録した薬だ。
私がいなくなって、再現できなくなっている。当然だ。あのレシピは配合比率が繊細で、材料の品質管理にも細心の注意が必要だった。手順書だけ見て同じものを作ろうとしても、勘所がわからなければ品質は安定しない。
少しだけ、溜飲が下がった。
少しだけだ。復讐がしたいわけではない。ただ、あの人が「自分の功績」だと思っていたものが、実は私の手に依存していたと気づく日が来るなら。
いや。そんなことを考えている場合ではない。
レオの経過観察を続けながら、私は調合室の記録帳を開いた。
鉛白草の毒に含まれていた、あの微弱な魔力反応。
ただの嫉妬犯にしては、妙だ。
カイルは魔法を使えない。騎士見習いの中に魔法の適性を持つ者はいないと、上官が言っていた。では、あの魔力は誰のものだ。
薬草を扱った誰かの手に、魔力が残っていた。あるいは、薬草が保管されていた場所に、魔力を帯びた何かがあった。
今のところ、答えは出ない。
記録帳に書き留めた。日付と、試薬の色の変化と、仮説ですらない疑問符を一つ。
それだけ置いて、ペンを閉じた。
店の外では、レオが退院祝いの若い騎士たちに囲まれていた。「先生の薬は不味いけど効く」と誰かが言って、笑い声が上がっている。
不味くて悪かったですね。
口の中で呟いて、建付けの悪い棚を閉めた。三回目で、ようやく閉まった。




