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離縁妻の薬屋は本日も盛況です  作者: 九葉(くずは)


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2/10

第2話 伯爵夫人の眠れない夜

朝の仕込みは、薬草の仕分けから始まる。


乾燥が足りないものは窓辺に並べ直し、十分なものは紙袋に移す。この作業が好きだ。手を動かしている間は、余計なことを考えなくて済む。


開店して三週間が経っていた。


客は少しずつ増えている。漁師の家族が虫刺されや擦り傷の薬を買いに来たり、船乗りが酔い止めを求めたり。月の売上は銀貨八十枚ほど。家賃と材料費を引けば、ぎりぎり食べていける程度だ。贅沢はできないが、困ってもいない。


侯爵夫人だった頃は、毎朝侍女が着替えを手伝い、朝食は三品以上並んでいた。今は自分でブラウスのボタンを留めて、固いパンと薄い茶で済ませている。パンは港町の焼き立てより、前日の売れ残りの方が安い。


その方が、なんだか落ち着く。自分でも変だと思う。


薬草を仕分けながら、ふと店の正面に目をやった。


看板が直っている。


開店した頃から、表の看板が傾いていた。留め金が錆びていて、風が吹くとぎいぎい鳴った。昨日の晩まで確かに傾いていたはずだ。それが今朝は、まっすぐになっている。留め金も新しいものに替わっていた。


大家さんが直してくれたのだろうか。でも、大家のフリッツ老人は「細かいことは自分でやってくれ」と言い切った人だ。わざわざ留め金まで買い替えるとは思えない。


風のせい、ということはないだろう。風で看板が直ったりはしない。


首を傾げたまま、仕分けに戻った。


あの無愛想な客――名前も知らない大男は、あれから本当に毎日来ている。来るといっても、傷薬の経過を見せに来るわけではない。店に入って、調合室をちらりと眺めて、何か一言だけ落として帰る。「茶はあるか」「今日は暇そうだな」「その棚、建付けが悪いぞ」。


薬を買うわけでもない。茶を出しても飲まずに帰ることがある。何をしに来ているのか、正直よくわからない。


ただ、あの人が来た日は、店の前の通りが少しだけ静かな気がする。柄の悪い酔っぱらいが寄りつかない。気のせいかもしれないけれど。


仕分けを終えた頃、店の戸が開いた。



入ってきたのは、見慣れない女性だった。


三十代半ばだろうか。仕立ての良い外套に、上品な手袋。港町の住人ではない。馬車で来たのだと、外套の裾についた馬車特有の座り皺でわかった。


「こちらが、薬屋さん?」


声が少し震えていた。


「はい。どうぞ、お入りください」


女性は椅子を勧めても、すぐには座らなかった。店の中を見回して、調合室の棚を確認して、ようやく腰を下ろした。自分が入った店が本当に薬屋なのか確かめたかったようだ。


「実は、その……眠れないのです」


手袋を外す指先が震えている。爪が短く切り揃えてあった。自分で切っているのだろう。貴族の女性なら侍女にやらせるのが普通だが。


「どのくらい、眠れませんか」


「もう、二ヶ月ほど。どの医者に診てもらっても原因がわからなくて。安眠の薬草を処方されて飲んでも効かなくて。最近は、悪夢がひどくて……朝起きた時の方が疲れているんです」


二ヶ月。長い。

単なる不眠ではない気がした。


「お食事は取れていますか」


「食欲も落ちています。でも、食べてはいます。侍女が気を遣ってくれて」


「侍女の方が」


「ええ、マリーが。紅茶も毎晩淹れてくれるのです。少しでも眠れるようにって。でも……」


女性は、外套の内ポケットから小さな紙包みを出した。


「これが、マリーが使っている茶葉です。普通のカモミールだと思うのですが、もしかして、私の体質に合わないのかと思って……持ってきました」


私は紙包みを受け取った。


開いた瞬間、鼻の奥がわずかに引っかかった。


カモミールの甘い香りの下に、もう一つ、かすかな匂いが混じっている。青臭いような、それでいて少し苦い匂い。普通に嗅いだだけでは気づかない程度のもの。


鼻が覚えている。原材料の異臭を嗅ぎ分ける訓練を、記憶の中の私は何年も積んでいた。これは、本来ここにあるべきではない匂いだ。


「少しお時間をいただけますか。茶葉を調べさせてください」


「……お願いします」


女性の名前を聞いた。エレノア。伯爵夫人だという。王都の近郊に領地を持つ家の奥方で、夫の仕事で港町に滞在しているとのことだった。


エレノアを店の椅子に案内して、温かい茶を出した。自分の店の茶葉で淹れたもの。彼女はカップを両手で包むように持って、ゆっくりと飲んだ。


「……おいしい」


「ありがとうございます」


「久しぶりに、お茶がおいしいと思いました」


その一言が、少し引っかかった。



調合室に入り、茶葉の分析を始めた。


まず、見た目。

カモミールの花弁の中に、似た色合いの別の植物片が混ざっている。量はごく微量。目で見ただけでは判別が難しい。


次に、粉砕して水に溶かす。

色の変化を確認。わずかに濁りが出る。カモミール単体ではこの濁りは生じない。


最後に、反応試薬。

薬師ギルドで訓練を受けた時に習った基本の試薬を三種類使う。二番目の試薬を垂らした時、溶液が淡い紫色に変わった。


夢見草。


呼吸が止まった。


夢見草は、微量であれば悪夢を誘発し、長期間摂取すると慢性的な衰弱を引き起こす。毒草の分類に入るが、致死量に至るには相当な量が必要で、単体では死に至らない。だからこそ厄介だ。少量ずつ混ぜれば、被害者は「なぜか眠れない」「なぜか体調が悪い」としか自覚しない。医者が診ても原因不明と診断される。


これは事故ではない。

誰かが意図的に混ぜている。


カモミールに夢見草を混ぜる。色が似ているから見た目ではわからない。匂いもカモミールに紛れる。茶にすれば味も誤魔化せる。知識がある人間にしかできない細工だ。


エレノアの言葉が蘇る。「侍女のマリーが毎晩淹れてくれるのです」


茶を淹れているのは侍女。

茶葉を管理しているのも侍女。


手が一瞬だけ止まった。結論を急ぐな。証拠を揃えろ。


試薬の結果を記録した。溶液をガラス瓶に保存した。茶葉の残りも密封した。


それから、深呼吸をして、店に戻った。



「エレノア様」


「はい」


「お茶葉を分析いたしました。カモミールに、夢見草という薬草が微量に混入されています」


エレノアの顔から血の気が引いた。カップを持つ手が震えて、受け皿に当たった。小さな音が鳴った。


「夢見草は、悪夢の誘発と慢性的な衰弱を引き起こす薬草です。致死量には至りませんが、長期間摂取し続ければ体は確実に弱ります」


「それは……つまり……」


「このお茶葉に、誰かが意図的に混ぜています。カモミールと色が似ているため、目視では判別が困難です」


エレノアの唇が開いたまま、言葉が出なかった。


「奥様。このお茶を淹れているのは、どなたですか」


「……マリーです。マリーだけです。あの子が毎晩」


声が震えていた。信じたくないのだろう。


「侍女のマリーさんに、お話を伺う必要があります」



エレノアの宿泊先は、港町の高台にある伯爵家の別邸だった。


一緒に向かった。道すがら、エレノアはほとんど話さなかった。手袋を嵌め直す指が、何度も滑った。


別邸に着くと、侍女のマリーが出迎えた。二十歳くらいの若い女性。エレノアを見る目に、本物の心配が浮かんでいた。


「奥様、お帰りなさいませ。お加減はいかがですか」


エレノアが私を見た。私は小さく頷いた。


「マリー」


「はい」


「あなたがいつも淹れてくれるお茶のことで、聞きたいことがあるの」


マリーの顔が強張った。

一瞬だった。ほんの一瞬、目が泳いで、それからすぐに笑顔を作った。


「お茶が、何か?」


私は茶葉の分析結果を説明した。カモミールに夢見草が混入していること。長期間の摂取で衰弱を引き起こすこと。この茶葉を管理していたのは誰かということ。


マリーは最初、否定した。


「存じません。私はいつも同じ茶葉を使っています。お店で買ったものです」


「どちらのお店でしょうか」


「港の……市場の、茶葉専門の……」


言葉が途切れた。

マリーの手が、エプロンの裾を握りしめていた。指の関節が白い。


沈黙が落ちた。


壁の時計が時を刻む音だけが響いている。別邸の応接間は、よく手入れされていた。花瓶の水も替えてある。テーブルの埃もない。この部屋を整えているのもマリーなのだろう。


エレノアが、静かに言った。


「マリー。あなたを責めたいんじゃないの。ただ、本当のことが知りたいだけ」


マリーの目が赤くなった。

唇を噛んで、必死に何かを堪えていた。


そして。


「……旦那様に、命じられました」


声は、ほとんど聞こえなかった。


「旦那様が。奥様のお茶に、これを混ぜろと。断ったら、実家の弟の奉公先に口を利けなくなると」


マリーは泣いていた。声を殺して、肩を震わせて。


「ごめんなさい、奥様。ごめんなさい。でも、弟が……弟がやっと見つけた仕事を……」


エレノアの顔から表情が消えた。


怒りではなかった。もっと深い、もっと冷たいもの。自分の夫がやったことを理解した瞬間の、感情が追いつく前の空白。


私は見覚えがあった。半年前の自分と同じ顔だ。


「エレノア様。証拠は保全してあります。茶葉の分析結果と、残りの茶葉も。マリーさんの証言と合わせれば、法的な手続きに進むことができます」


エレノアは答えなかった。

マリーはまだ泣いていた。


私は少しだけ迷って、それから、マリーの肩に手を置いた。


「マリーさん。あなたもです」


マリーが顔を上げた。


「あなたも被害者です。脅されて従わされた。弟さんの仕事を人質に取られた。それは強要です。証言してくだされば、あなたの立場は守れます」


マリーの目から、新しい涙が溢れた。今度は少しだけ、安堵が混じっていた。


エレノアが、ようやく口を開いた。


「セラフィナさん」


「はい」


「ありがとう」


その一言は、震えていた。でも、折れてはいなかった。


「あなたに出会えてよかった」



帰り道は、一人だった。


夕暮れの港町を歩く。潮の匂いが、少しだけ甘い気がした。夕食の支度をする家々から、煮物の匂いが漂ってくる。誰かが窓辺で洗濯物を取り込んでいる。日常だ。普通の、誰かの日常。


エレノアはこれから戦わなければならない。自分の夫と。私にできることは、証拠を正しく保全し、必要があれば証言すること。それ以上は踏み込めない。踏み込むべきでもない。


でも、少しだけ、思う。


この港町で薬屋を開いたことは、間違いではなかったかもしれない。


店に戻ると、カウンターの上に紙包みが置いてあった。


中を開けると、干し肉と固焼きのビスケット。無骨な包み方。店の戸に鍵はかけていなかったから、誰かが入って置いていったのだ。


添えられた紙切れに、雑な字で一言。


「晩飯は食え」


誰が書いたかは、すぐにわかった。


あの無愛想な大男だ。毎日来ているくせに、名前も名乗らない。傷の経過も見せない。薬も買わない。でも、干し肉は置いていく。


呆れて、少しだけ笑った。


干し肉を噛みながら、調合室の記録帳を開いた。今日の分析結果を書き留める。ペンを走らせる手は、もう震えていなかった。


ふと、思い出した。


エレノアが言っていた。「夫の仕事で港町に」。


夫。伯爵夫人の夫。


伯爵。


王都に近い領地を持つ伯爵家。夫が妻の財産を管理するために、妻を衰弱させようとした。


面倒なことになりそうですわね。


干し肉をもう一切れ噛んで、記録帳を閉じた。

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