第2話 伯爵夫人の眠れない夜
朝の仕込みは、薬草の仕分けから始まる。
乾燥が足りないものは窓辺に並べ直し、十分なものは紙袋に移す。この作業が好きだ。手を動かしている間は、余計なことを考えなくて済む。
開店して三週間が経っていた。
客は少しずつ増えている。漁師の家族が虫刺されや擦り傷の薬を買いに来たり、船乗りが酔い止めを求めたり。月の売上は銀貨八十枚ほど。家賃と材料費を引けば、ぎりぎり食べていける程度だ。贅沢はできないが、困ってもいない。
侯爵夫人だった頃は、毎朝侍女が着替えを手伝い、朝食は三品以上並んでいた。今は自分でブラウスのボタンを留めて、固いパンと薄い茶で済ませている。パンは港町の焼き立てより、前日の売れ残りの方が安い。
その方が、なんだか落ち着く。自分でも変だと思う。
薬草を仕分けながら、ふと店の正面に目をやった。
看板が直っている。
開店した頃から、表の看板が傾いていた。留め金が錆びていて、風が吹くとぎいぎい鳴った。昨日の晩まで確かに傾いていたはずだ。それが今朝は、まっすぐになっている。留め金も新しいものに替わっていた。
大家さんが直してくれたのだろうか。でも、大家のフリッツ老人は「細かいことは自分でやってくれ」と言い切った人だ。わざわざ留め金まで買い替えるとは思えない。
風のせい、ということはないだろう。風で看板が直ったりはしない。
首を傾げたまま、仕分けに戻った。
あの無愛想な客――名前も知らない大男は、あれから本当に毎日来ている。来るといっても、傷薬の経過を見せに来るわけではない。店に入って、調合室をちらりと眺めて、何か一言だけ落として帰る。「茶はあるか」「今日は暇そうだな」「その棚、建付けが悪いぞ」。
薬を買うわけでもない。茶を出しても飲まずに帰ることがある。何をしに来ているのか、正直よくわからない。
ただ、あの人が来た日は、店の前の通りが少しだけ静かな気がする。柄の悪い酔っぱらいが寄りつかない。気のせいかもしれないけれど。
仕分けを終えた頃、店の戸が開いた。
入ってきたのは、見慣れない女性だった。
三十代半ばだろうか。仕立ての良い外套に、上品な手袋。港町の住人ではない。馬車で来たのだと、外套の裾についた馬車特有の座り皺でわかった。
「こちらが、薬屋さん?」
声が少し震えていた。
「はい。どうぞ、お入りください」
女性は椅子を勧めても、すぐには座らなかった。店の中を見回して、調合室の棚を確認して、ようやく腰を下ろした。自分が入った店が本当に薬屋なのか確かめたかったようだ。
「実は、その……眠れないのです」
手袋を外す指先が震えている。爪が短く切り揃えてあった。自分で切っているのだろう。貴族の女性なら侍女にやらせるのが普通だが。
「どのくらい、眠れませんか」
「もう、二ヶ月ほど。どの医者に診てもらっても原因がわからなくて。安眠の薬草を処方されて飲んでも効かなくて。最近は、悪夢がひどくて……朝起きた時の方が疲れているんです」
二ヶ月。長い。
単なる不眠ではない気がした。
「お食事は取れていますか」
「食欲も落ちています。でも、食べてはいます。侍女が気を遣ってくれて」
「侍女の方が」
「ええ、マリーが。紅茶も毎晩淹れてくれるのです。少しでも眠れるようにって。でも……」
女性は、外套の内ポケットから小さな紙包みを出した。
「これが、マリーが使っている茶葉です。普通のカモミールだと思うのですが、もしかして、私の体質に合わないのかと思って……持ってきました」
私は紙包みを受け取った。
開いた瞬間、鼻の奥がわずかに引っかかった。
カモミールの甘い香りの下に、もう一つ、かすかな匂いが混じっている。青臭いような、それでいて少し苦い匂い。普通に嗅いだだけでは気づかない程度のもの。
鼻が覚えている。原材料の異臭を嗅ぎ分ける訓練を、記憶の中の私は何年も積んでいた。これは、本来ここにあるべきではない匂いだ。
「少しお時間をいただけますか。茶葉を調べさせてください」
「……お願いします」
女性の名前を聞いた。エレノア。伯爵夫人だという。王都の近郊に領地を持つ家の奥方で、夫の仕事で港町に滞在しているとのことだった。
エレノアを店の椅子に案内して、温かい茶を出した。自分の店の茶葉で淹れたもの。彼女はカップを両手で包むように持って、ゆっくりと飲んだ。
「……おいしい」
「ありがとうございます」
「久しぶりに、お茶がおいしいと思いました」
その一言が、少し引っかかった。
調合室に入り、茶葉の分析を始めた。
まず、見た目。
カモミールの花弁の中に、似た色合いの別の植物片が混ざっている。量はごく微量。目で見ただけでは判別が難しい。
次に、粉砕して水に溶かす。
色の変化を確認。わずかに濁りが出る。カモミール単体ではこの濁りは生じない。
最後に、反応試薬。
薬師ギルドで訓練を受けた時に習った基本の試薬を三種類使う。二番目の試薬を垂らした時、溶液が淡い紫色に変わった。
夢見草。
呼吸が止まった。
夢見草は、微量であれば悪夢を誘発し、長期間摂取すると慢性的な衰弱を引き起こす。毒草の分類に入るが、致死量に至るには相当な量が必要で、単体では死に至らない。だからこそ厄介だ。少量ずつ混ぜれば、被害者は「なぜか眠れない」「なぜか体調が悪い」としか自覚しない。医者が診ても原因不明と診断される。
これは事故ではない。
誰かが意図的に混ぜている。
カモミールに夢見草を混ぜる。色が似ているから見た目ではわからない。匂いもカモミールに紛れる。茶にすれば味も誤魔化せる。知識がある人間にしかできない細工だ。
エレノアの言葉が蘇る。「侍女のマリーが毎晩淹れてくれるのです」
茶を淹れているのは侍女。
茶葉を管理しているのも侍女。
手が一瞬だけ止まった。結論を急ぐな。証拠を揃えろ。
試薬の結果を記録した。溶液をガラス瓶に保存した。茶葉の残りも密封した。
それから、深呼吸をして、店に戻った。
「エレノア様」
「はい」
「お茶葉を分析いたしました。カモミールに、夢見草という薬草が微量に混入されています」
エレノアの顔から血の気が引いた。カップを持つ手が震えて、受け皿に当たった。小さな音が鳴った。
「夢見草は、悪夢の誘発と慢性的な衰弱を引き起こす薬草です。致死量には至りませんが、長期間摂取し続ければ体は確実に弱ります」
「それは……つまり……」
「このお茶葉に、誰かが意図的に混ぜています。カモミールと色が似ているため、目視では判別が困難です」
エレノアの唇が開いたまま、言葉が出なかった。
「奥様。このお茶を淹れているのは、どなたですか」
「……マリーです。マリーだけです。あの子が毎晩」
声が震えていた。信じたくないのだろう。
「侍女のマリーさんに、お話を伺う必要があります」
エレノアの宿泊先は、港町の高台にある伯爵家の別邸だった。
一緒に向かった。道すがら、エレノアはほとんど話さなかった。手袋を嵌め直す指が、何度も滑った。
別邸に着くと、侍女のマリーが出迎えた。二十歳くらいの若い女性。エレノアを見る目に、本物の心配が浮かんでいた。
「奥様、お帰りなさいませ。お加減はいかがですか」
エレノアが私を見た。私は小さく頷いた。
「マリー」
「はい」
「あなたがいつも淹れてくれるお茶のことで、聞きたいことがあるの」
マリーの顔が強張った。
一瞬だった。ほんの一瞬、目が泳いで、それからすぐに笑顔を作った。
「お茶が、何か?」
私は茶葉の分析結果を説明した。カモミールに夢見草が混入していること。長期間の摂取で衰弱を引き起こすこと。この茶葉を管理していたのは誰かということ。
マリーは最初、否定した。
「存じません。私はいつも同じ茶葉を使っています。お店で買ったものです」
「どちらのお店でしょうか」
「港の……市場の、茶葉専門の……」
言葉が途切れた。
マリーの手が、エプロンの裾を握りしめていた。指の関節が白い。
沈黙が落ちた。
壁の時計が時を刻む音だけが響いている。別邸の応接間は、よく手入れされていた。花瓶の水も替えてある。テーブルの埃もない。この部屋を整えているのもマリーなのだろう。
エレノアが、静かに言った。
「マリー。あなたを責めたいんじゃないの。ただ、本当のことが知りたいだけ」
マリーの目が赤くなった。
唇を噛んで、必死に何かを堪えていた。
そして。
「……旦那様に、命じられました」
声は、ほとんど聞こえなかった。
「旦那様が。奥様のお茶に、これを混ぜろと。断ったら、実家の弟の奉公先に口を利けなくなると」
マリーは泣いていた。声を殺して、肩を震わせて。
「ごめんなさい、奥様。ごめんなさい。でも、弟が……弟がやっと見つけた仕事を……」
エレノアの顔から表情が消えた。
怒りではなかった。もっと深い、もっと冷たいもの。自分の夫がやったことを理解した瞬間の、感情が追いつく前の空白。
私は見覚えがあった。半年前の自分と同じ顔だ。
「エレノア様。証拠は保全してあります。茶葉の分析結果と、残りの茶葉も。マリーさんの証言と合わせれば、法的な手続きに進むことができます」
エレノアは答えなかった。
マリーはまだ泣いていた。
私は少しだけ迷って、それから、マリーの肩に手を置いた。
「マリーさん。あなたもです」
マリーが顔を上げた。
「あなたも被害者です。脅されて従わされた。弟さんの仕事を人質に取られた。それは強要です。証言してくだされば、あなたの立場は守れます」
マリーの目から、新しい涙が溢れた。今度は少しだけ、安堵が混じっていた。
エレノアが、ようやく口を開いた。
「セラフィナさん」
「はい」
「ありがとう」
その一言は、震えていた。でも、折れてはいなかった。
「あなたに出会えてよかった」
帰り道は、一人だった。
夕暮れの港町を歩く。潮の匂いが、少しだけ甘い気がした。夕食の支度をする家々から、煮物の匂いが漂ってくる。誰かが窓辺で洗濯物を取り込んでいる。日常だ。普通の、誰かの日常。
エレノアはこれから戦わなければならない。自分の夫と。私にできることは、証拠を正しく保全し、必要があれば証言すること。それ以上は踏み込めない。踏み込むべきでもない。
でも、少しだけ、思う。
この港町で薬屋を開いたことは、間違いではなかったかもしれない。
店に戻ると、カウンターの上に紙包みが置いてあった。
中を開けると、干し肉と固焼きのビスケット。無骨な包み方。店の戸に鍵はかけていなかったから、誰かが入って置いていったのだ。
添えられた紙切れに、雑な字で一言。
「晩飯は食え」
誰が書いたかは、すぐにわかった。
あの無愛想な大男だ。毎日来ているくせに、名前も名乗らない。傷の経過も見せない。薬も買わない。でも、干し肉は置いていく。
呆れて、少しだけ笑った。
干し肉を噛みながら、調合室の記録帳を開いた。今日の分析結果を書き留める。ペンを走らせる手は、もう震えていなかった。
ふと、思い出した。
エレノアが言っていた。「夫の仕事で港町に」。
夫。伯爵夫人の夫。
伯爵。
王都に近い領地を持つ伯爵家。夫が妻の財産を管理するために、妻を衰弱させようとした。
面倒なことになりそうですわね。
干し肉をもう一切れ噛んで、記録帳を閉じた。




