第1話 八年分の嘘に、離縁状を処方いたします
「あなたとの婚姻は、白紙に戻させていただきます」
書斎の空気が固まった。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。
夫――アルヴィンは、署名途中の羽根ペンを止めたまま動かなかった。インクが紙に滲んで、小さな染みを作っている。あの几帳面な人が、書類に染みをつけている。それだけで、私の言葉が届いたのだとわかった。
「……何を、言っているんだ」
低い声だった。怒りではない。困惑だ。
八年間、この人の声を聞いてきた。怒った声も、笑った声も、社交の場で取り繕う声も知っている。だから今のこれが、純粋な驚きだと聞き分けられる。
私が知っていることを、この人はまだ知らない。
私が気づいていることに、この人はまだ気づいていない。
半年前までは、私もそうだった。
「離縁の申請書は、すでに審問所の書式で整えてあります。アルヴィン様が署名してくださればもっとも速いですが、正当事由による一方的申請も可能ですので」
声は震えなかった。
震えないように、六ヶ月かけて準備してきたのだから、当然だ。
アルヴィンが椅子から立ち上がった。温厚な顔に、ようやく焦りが滲む。
「待ってくれ、セラフィナ。何かあったなら話し合おう。僕たちは八年――」
「ええ、八年です」
遮ったつもりはなかった。でも、私の口は勝手に動いた。
「八年間、十分に考えました」
アルヴィンの唇が閉じる。
その目が一瞬だけ泳いだのを、私は見逃さなかった。彼の視線が向かった先は、書斎の隅に飾られた白い花。聖女様から贈られた祝福の花を、この人は枯れるたびに新しく取り寄せていた。私が毎年贈る刺繍のハンカチは引き出しの奥にしまわれたまま、一度も使われなかったけれど。
でも、それを言っても仕方がない。
もう、仕方がないのだ。
「理由を聞かせてくれ」
「婚姻関係の実質的な破綻です。審問所にはそう申請いたします」
それ以上は言わなかった。
聖女リリアーナとの関係を、今ここで突きつけることはしない。証拠を出すのは今ではない。帳簿の裏付けが揃っていない段階で手札を見せれば、相手は証拠隠滅に動く。
前の世界で、品質管理部にいた頃に嫌というほど学んだ。不正を暴くのに必要なのは、怒りではなく手順だ。
アルヴィンは何か言いかけて、やめた。
もう一度何か言いかけて、またやめた。
私は黙って待った。暖炉の薪がもう一度爆ぜた。書斎の窓から見える中庭は、冬枯れの灰色だった。この庭を手入れしていた時間のことを、少しだけ考えた。薔薇の株を植えたのは結婚二年目の春だったか。あれはもう、私の薔薇ではない。
「……考え直してくれないか」
「いいえ」
それだけ言って、私は書斎を出た。
半年前のことを、思い出す。
秋の夜に高熱を出して倒れた。三日三晩、意識が朦朧とする中で、奇妙な夢を見た。
白い蛍光灯。四角い机が並ぶ部屋。手元には「品質検査報告書」と印字された紙の束。コーヒーの匂い。パソコンという名前の、光る板。
目が覚めた時、私は二つの人生を知っていた。
最初はただ混乱した。
三日ほどは、頭痛がするたびに前の世界の記憶が割り込んできて、侍女に話しかけられても反応が遅れた。「奥様、お加減はいかがですか」と聞かれて、一瞬だけ「奥様」が自分のことだとわからなかった。
けれど、記憶が馴染むにつれて、見えるものが変わった。
この世界の薬草学と、前の世界の製薬化学が、頭の中で重なり始めた。
侯爵家の帳簿の数字が、前の世界の経理知識で読めるようになった。
そして――夫と聖女リリアーナの関係の不自然さに、気づいた。
治癒を受けた後のアルヴィンの態度の変化。聖女の診療所に通う頻度。義母マルグリットが帳簿を見せたがらない理由。点と点が線になるのに、一ヶ月もかからなかった。
気づいてからの五ヶ月は、準備に充てた。
泣いたのは、最初の三日だけだ。
四日目からは、帳簿の写しを取り始めた。
*
審問所は、王都の南区画にある石造りの建物だった。
婚姻届を出したのも、この建物だ。八年前、春の日差しの中を、真新しいドレスで歩いた。あの日の私は、政略結婚でも悪くないと思っていた。アルヴィンは穏やかな人だったし、侯爵夫人としての暮らしは、子爵家の末娘には十分すぎるほど恵まれていた。
今日は、冬だ。
ドレスは地味な紺色。装飾品は外してきた。審問官に「感情的になっている」と判断されないために、見た目から整えた。前の世界の上司が言っていた。「不正報告は冷静に出せ。泣いたら聞いてもらえない」
審問官は初老の男性だった。白髪交じりの髪を短く刈り込んでいて、書類を読む目は鋭い。
「侯爵夫人、離縁申請ですね。侯爵殿は合意されていますか」
「いいえ。ですが、正当事由に基づく一方的申請として進めていただけますか。婚姻関係の実質的破綻です」
審問官の眉がわずかに動いた。侯爵家の離縁を一方的に申請する妻は珍しいのだろう。
手続きは淡々と進んだ。
審問官がアルヴィンに確認の書簡を送り、アルヴィンは引き止めたものの法的な異議は出さなかった。出せなかったのかもしれない。不貞の証拠を出されることを恐れたのか、それとも、聖女のそばにいるためにはむしろ妻がいない方が都合がいいと計算したのか。
どちらでも構わない。
離縁書に審問官の印が押された時、私は何も感じなかった。
嘘だ。少しだけ、手が冷たかった。
持参金の返還は請求しなかった。審問官が「持参金についてはいかがなさいますか」と聞いた時、一瞬だけ迷った。金貨三千枚。子爵家が家を傾けてまで用意してくれたお金だ。
けれど、帳簿を押さえていない今、返還を請求しても「全額管理しております」と義母に流される。証拠が不十分な段階で告発すれば、相手は隠蔽に回る。
「持参金の件は、改めて」
審問官は書き留めた。
私は審問所を出て、冬の風に当たった。
八年間の結婚が終わった。
足元を見た。靴の底が少し擦り減っている。この靴で、侯爵邸の長い廊下を何度歩いただろう。もうあの廊下を歩くことはない。
不思議と、足が軽かった。
兄には手紙を出した。離縁したこと。港町で薬屋を開くこと。返事は来ないだろうと思っていた。父が死んで以来、兄は侯爵家の顔色ばかりを窺うようになった。子爵家を守るためだ。責める気はない。わかっている。
でも、だからこそ、ここからは私一人だ。
港町ブリュムに着いたのは、離縁から三週間後のことだった。
王都から馬車で四日。潮の匂いと、海鳥の甲高い声。石畳が塩気を含んでいて、所々が白く乾いている。
借りた店舗は商業地区の外れにある二階建てで、一階が店舗兼調合室、二階が住居。家賃は月に銀貨十五枚。前の持ち主が残していった棚は、扉の建付けが悪くて、三回に一回は引っかかる。
開店初日は、客が来なかった。
二日目も来なかった。
三日目に、近所の漁師の妻が「あんた、薬屋かい?」と覗きに来て、虫刺されの軟膏を一つ買ってくれた。銀貨二枚。
私の新しい人生は、銀貨二枚から始まった。
なんだか笑えてきて、調合室で一人、声を出して笑った。侯爵夫人だった頃には、笑い声を上げるだけでも周囲の目を気にしていたのに。
開店から数日が経った、午後遅くのことだ。
店の戸が開いて、大きな影が差した。
大きい、と思った。
戸口いっぱいに肩幅がある。日に焼けた顔。短く刈り込んだ黒髪。鍛え抜かれた体は元軍人のそれだとわかる。年齢は三十代の後半だろうか。左腕を庇うように押さえていた。
「……傷薬をくれ」
低い声だった。無愛想というより、言葉を使い慣れていない感じがする。
「どのような傷でしょうか。お見せいただければ、最適なものを処方できますが」
「断る」
「では処方できません」
男の眉がわずかに上がった。
「薬屋だろう」
「ええ、薬屋です。ですから、症状も見ずに薬を出すわけにはまいりません。的外れな薬を渡して悪化でもされたら、開店したばかりの評判に関わります」
我ながら商売っ気のない言い方だと思った。でも、これは前の世界でも今の世界でも変わらない。検査なしに製品を出荷しない。基本中の基本だ。
男はしばらく無言で私を見ていた。
それから、ぶっきらぼうに左腕の袖をまくった。
古い傷だった。
刃物によるものだろう。治癒は済んでいるが、傷跡が引きつれて、周囲の皮膚に慢性的な炎症が残っている。何年も前の傷が、今も痛むのだ。
「……なるほど。これは時間がかかりますね」
棚から軟膏の素材を取り出しながら、傷を観察する。古い傷なのに、治癒のされ方が少し変だ。通常の治癒術ならもう少し綺麗に塞がるはず。
「週に一度の塗布で、まず炎症を抑えます。その後、傷跡の引きつれを緩和する別の処方に切り替えます。完治は約束できませんが、痛みは軽くできるかと」
「……面倒な薬師だな」
「丁寧、と言っていただけると嬉しいのですが」
男は鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。口元は動かなかったから、判断がつかない。
軟膏を包んで渡した。銀貨三枚。男は革袋から硬貨を出して、カウンターに置いた。
五枚あった。
「お釣りです」
言いかけた時には、もう男は背を向けていた。大股で店を出ていく。
「あの、お客様」
追いかけようとしたが、戸口に着いた頃には、通りの角を曲がるところだった。
釣り銭を握ったまま、しばらく立ち尽くした。
潮風が吹き込んで、調合室の薬草が揺れた。
夕日が店の床に長い影を落としている。引っかかる棚の扉。銀貨五枚。無愛想な客。古い傷。
カウンターに戻ると、男が置いた硬貨の横に、小さな傷があった。前の持ち主がつけたものか、それとも、今日ついたものか。
指で撫でた。木の表面が少しだけ、ざらついていた。
明日、釣り銭を返そう。そう思って、銀貨二枚を別にしておいた。
翌日の朝、店を開けたばかりの時間に、あの男が来た。
「……また来た」
「お釣りです、昨日の」
銀貨二枚を差し出すと、男は一瞬だけ硬貨を見て、それから私の顔を見た。受け取らなかった。
「次の薬代に充てておけ」
「それでは帳簿が合いません」
「……面倒な薬師だな」
昨日と同じ台詞だった。今度は、口の端がわずかに動いた気がした。
男は結局、釣り銭を受け取らずに、調合室をちらりと眺めて、出ていった。
戸口で、足を止めた。
「明日また来る」
振り返りもせずに、それだけ言った。
毎日来られても困りますけど。
そう言おうとして、やめた。
代わりに、カウンターの傷をもう一度撫でた。
困りますけど。
口元が、少しだけ緩んだのを、自分で気づいていた。




