第4話 消えた令嬢と、聖女の薬の影
薬屋に持ち込まれるのは、体の不調だけではない。
それを知ったのは、開店して二ヶ月が過ぎた頃だった。
その日の客は、恰幅の良い中年の男性だった。
仕立ての良い上着。指に嵌まった金の印章。商家の当主だろうと、身なりでわかった。だが、表情には商人らしい余裕がない。目の下に濃い隈があり、襟元が少し乱れている。身だしなみに気を配る余裕がないほど、何かに追い詰められた人間の顔だ。
「薬をいただきたいのではなくて」
男は椅子に腰を下ろして、帽子を膝の上に置いた。帽子の縁を指で弄っている。
「娘を、探していただきたいのです」
「娘さんを」
「はい。三ヶ月前から行方がわかりません。探偵も雇いました。王都の調査屋にも頼みました。でも、誰にも見つけられないんです」
私は薬師であって探偵ではない。そう言いかけて、やめた。この人の顔を見ていると、断る言葉が出てこなかった。
「なぜ、薬屋に?」
「港町で評判を聞きました。伯爵夫人の病の原因を突き止めたとか、騎士団の少年を救ったとか。普通の医者が見つけられないものを見つける薬師がいると」
噂は広がるものだ。ありがたいような、少し困るような。
「娘さんのことを、もう少し詳しく聞かせてください」
男の名はヘルマン。王都と港町を結ぶ交易路で財を成した富豪商家の当主だった。娘のクラーラは十九歳。三ヶ月前の朝、部屋にいなかった。荷物の一部を持ち出した形跡はあったが、書き置きはなかった。
「最後に会った時の様子は?」
「いつも通りでした。いや……いつも通りだと、思っていました」
ヘルマンの声が揺れた。
「でも、今思えば、あの子は半年ほど前から少し変だった。眠れないと言って、王都の診療所に通い始めて。薬をもらって飲んでいたようですが、よくなるどころか、ぼんやりすることが増えて」
「王都の診療所。どちらの?」
「聖女様の診療所です」
手が止まった。
「聖女リリアーナ様のところに通って、精神安定のお薬をいただいていました。あの子は昔から繊細なところがあって、社交の場が苦手で。聖女様の治療で楽になると喜んでいたんですが」
聖女の診療所。精神安定の薬。半年前から服用。症状はよくなるどころか悪化。そして失踪。
「クラーラさんのお部屋を見せていただくことはできますか」
「もちろんです。何でもお見せします」
ヘルマンは帽子を握りしめた。指の関節が白かった。
ヘルマンの屋敷は、港町の商業地区から少し離れた高台にあった。
グレンが同行していた。
頼んだわけではない。ヘルマンが帰った後、いつものように店に現れたグレンに「これから出かけます」と言っただけだ。グレンは「どこにだ」と聞き、事情を手短に話すと、「行くぞ」と言って先に歩き出した。
相変わらず説明を求めない。
高台への坂道を並んで歩いた。道幅は広くない。すれ違う荷車があると、どちらかが端に寄らなければならない。グレンは自然に道路側を歩いていた。
荷車が通るたびに、大きな背中が風除けになる。本人は気づいていないのだろう。あるいは気づいていて、何も言わないだけかもしれない。
どちらにしても、聞かないでおく。
クラーラの部屋は、屋敷の二階にあった。
ヘルマンが言った通り、荷物の一部が持ち出されていた。衣類と、小さな旅行鞄。残されたものは、本棚の本、化粧台の小物、そしてベッドの脇のサイドテーブル。
部屋は綺麗に片付いていた。逃げるように出ていったわけではない。必要なものだけ選んで、静かに出ていった痕跡。
化粧台の引き出しを開けた。櫛、髪留め、手鏡。どれも上等な品だが、使い込まれている。櫛の歯が一本折れていて、そのまま使い続けた跡がある。新しいものを買えるはずなのに、古いものを使い続ける人。物を大切にする性格か、あるいは、新しいものに手を伸ばす気力がなかったか。
サイドテーブルの引き出しを開けた時、目が止まった。
薬瓶が三本、奥に並んでいた。
小さなガラス瓶だ。茶色い液体が残っている。ラベルは貼られていないが、瓶の底に刻印がある。
手に取って、窓の光にかざした。
王冠と百合の紋章。王家認定の聖女診療所の刻印だった。
間違いない。聖女リリアーナの診療所で処方された薬だ。
三本のうち二本は空で、一本に液体が残っていた。蓋を開けて匂いを確認する。
甘い。蜜のような甘さの下に、わずかに苦い芯がある。
この匂いを、私は知らない。二つの記憶のどちらにも、該当するものがない。持ち帰って分析する必要がある。
引き出しの奥を探ると、もう一つ見つかった。日記帳だ。革表紙の小さなもので、直近の数ページに書き込みがある。
文字は震えていた。最初のページは丁寧だが、後になるほど乱れている。
最後のページだけ読んだ。
『もうあの薬がないと眠れない。飲めば楽になるのに、飲んだ後が怖い。聖女様の顔が浮かぶ。笑っている。優しい顔で笑っている。なのに怖い。なぜ怖いのかわからない。わからないのが一番怖い。もうここにいたくない。どこか遠くに行きたい。薬のない場所に』
日記帳を閉じた。
クラーラは逃げたのだ。薬から。
クラーラの行方を追うのは、薬の分析より簡単だった。
日記の別のページに、修道院の名前が書かれていた。隣町リンデンの聖アンナ修道院。クラーラが子供の頃、母親に連れられて訪れたことがあるらしい。
翌日、グレンと一緒にリンデンに向かった。港町から馬車で半日の距離だ。
馬車の中で、グレンに聞いた。
「グレン様は、なぜ毎回ついてきてくださるんですか」
「この地区の治安管理は俺の管轄だ」
「商家の令嬢の家出が治安案件ですか」
「……黙って乗っていろ」
それ以上は聞かなかった。窓の外を見た。冬枯れの丘陵地帯に、ぽつぽつと牧場が見える。羊の群れが斜面を移動していた。
グレンは腕を組んで目を閉じていた。眠っているのかと思ったが、馬車が揺れるたびに左腕を庇う仕草をしている。古傷が痛むのだろう。薬は塗っているのかと聞こうとして、やめた。聞けば「問題ない」と言うに決まっている。
聖アンナ修道院は、リンデンの外れの丘の上にあった。石造りの質素な建物で、庭に薬草畑がある。
クラーラは、奥の部屋にいた。
修道女の服を着て、薬草の仕分けをしていた。頬にはまだ少し陰があるが、目は穏やかだった。
私を見て、一瞬だけ体を固くした。
「お父様が寄越したの?」
「お父様に頼まれました。でも、連れ戻しには来ていません」
クラーラの肩から、少しだけ力が抜けた。
「お話を聞かせていただけますか」
クラーラは薬草を手に持ったまま、しばらく黙っていた。窓から差し込む冬の光が、修道院の白い壁に影を落としている。
「……聖女様の薬を飲んでいました」
「ええ。お部屋に薬瓶がありました」
「最初は効いたんです。よく眠れるようになって、社交の場でも緊張しなくなって。でも、だんだん……量が増えて」
クラーラは薬草の茎をねじっていた。
「飲まないと眠れなくなって。飲んでも前ほど楽にならなくなって。聖女様にもっと強い薬を出してほしいって頼んだら、笑って、『もう少し通ってくださいね』って。それで……なんだか」
声が途切れた。言葉を探しているようだった。
「聖女様の顔が浮かぶんです。薬を飲んだ後に。笑ってる顔が。優しい顔なのに、それが……うまく言えないんですけど」
クラーラは薬草の茎を折ってしまった。折れた音に自分で驚いて、手元を見た。
「ここに来てから、少しずつ頭がはっきりしてきました。前は、自分が何を考えてるのかもわからなかったので。だから逃げました。誰にも言わずに。薬のない場所に行きたくて」
声が震えていた。
「お父様に、戻れと言われましたか」
「お父様は、あなたが無事かどうかだけを知りたがっていました」
「……帰りたくないんです。まだ。もう少し、ここにいたい」
私は頷いた。
「それはあなたが決めることです」
帰りの馬車は、行きよりも静かだった。
グレンが目を閉じたまま言った。
「あの娘は強い」
「ええ」
「逃げるのにも力がいる」
その一言が、少し沁みた。
私も逃げた人間だ。侯爵家から。八年間の結婚から。逃げるのに半年かかった。クラーラは三ヶ月で決めた。十九歳で。
馬車が港町に近づく頃、グレンが付け足した。
「お前もだ」
聞こえなかったふりをした。窓の外の羊の群れが、夕日に染まっていた。
ヘルマンに報告した。
クラーラが無事であること。自分の意志で修道院にいること。今は帰りたくないと言っていること。
ヘルマンは、長い間黙っていた。
それから、泣いた。
声を上げずに、帽子で顔を隠して、肩を震わせた。
「あの子が……生きていて……」
「クラーラさんは元気でした。修道院で薬草の仕分けをしていました」
ヘルマンは帽子の奥で何度も頷いた。
「会いに行っても、いいでしょうか」
「それはクラーラさんに聞いてみてください。手紙を出されてはいかがですか」
「……手紙。そうですね。手紙を」
ヘルマンは帰り際、一つだけ余計なことを言った。
「セラフィナさん。あなたの名前、王都でも噂になっていますよ。かつての侯爵夫人が港町で見事な薬師をしていると。先日、王都に戻った取引先からも聞きました」
王都で噂になっている。
それはつまり、元夫の耳にも届いているということだ。
「それは光栄ですわ」
平静を装って答えた。内心では、少しだけ、ほんの少しだけ、口の端が持ち上がるのを抑えられなかった。
夜。
調合室で、クラーラの薬瓶の分析を続けた。
依存性の構造は明白だった。基剤のヴァレリアン根の濃度が通常より高く、長期連用で耐性がつく配合。やめると前より辛くなる。だからまた飲む。もっと飲む。聖女の診療所にまた通う。
前の世界で言えば、処方薬依存に近い構造だ。患者を治すのではなく、通い続けさせるための処方。
クラーラは、それに気づいたのだ。本能的に危険を感じて逃げた。
薬瓶を光にかざした。聖女の診療所の刻印が、小さく光っている。
エレノア夫人の紅茶の毒。レオの薬湯に残っていた魔力反応。そして今、聖女の処方薬の依存性構造。
まだ線にはならない。点が増えただけだ。
だが、同じ方向を向いている点が増えている。
「……これは、偶然ではありませんわね」
薬瓶を棚に戻した。分析結果を記録帳に書き込んだ。聖女の診療所の刻印の絵も描いておいた。
窓の外で、酔っぱらいが仲間と言い合いをしている。片方が「お前が悪い」と言い、もう片方が「知らん」と返している。くだらない。でも、その声が聞こえるくらい、港町の夜は近い。
聖女。
その名前が、頭から離れない。
記録帳を閉じて、灯りを落とした。暖炉の薪は、まだ温かかった。




