―第0️⃣9️⃣3️⃣話― 【夫婦喧嘩】夫婦喧嘩は、ネコも喰わない——四軒目の、妻。
些細なことから、夫婦喧嘩が勃発しております。
本当に、些細なことなんです。
……「夫婦喧嘩は犬も食わない」——他人が口を挟むことではない、放っておけばすぐ収まる、という諺。ですがわが家の場合、犬ではなく、猫。しかも、収まる気配が、まるでありません。
■ ことの、発端
出だしは、「日帰りでいいから、どこかに連れて行け」でした。
息子のカナダ行きは、以前から積み立てていた学資保険の一時金を充てているので、家計が傾くほどではありません。とはいえ、諸々の事前準備費に加え、飼い猫チャトランの思わぬ治療費。さすがに少し、影が差しました。というわけで、この夏、泊まりがけの旅行は控えよう——と、そういう話になっていたのです。
しかし、妻は、どこかへ行きたい。非日常を味わいたい。そして、美味しいものが食べたい。その一心での、「どこかに連れてけ」でした。
いえ、それは、いいのです。妻のわがままから始まるとはいえ、子どものためにもなりますから。
ただ——問題は、その続きでした。
「息子はカナダで楽しくやってるんだから。残った家族だけで、行きましょう」
これに、静かに異を唱えたのが、娘です。
「それは、どうかなあ。……ていうか、それ、自分が贅沢したいだけなんじゃないの」
冷ややかに、核心を突いておりました。
■ わが家の、性格分布
ここで少し、話が逸れますが。わが家の性格分布に、触れておきます。後の展開に、効いてきますので。
まず、堅実・計画的を信条とするのが、私。ただし、その計画性を、つい誰かに押し付けてしまう。堅さゆえの、頑固さもあります。
これに似ているのが、娘。まだ経済観念は乏しいものの、うっすらと家計を察し、自分のわがままと状況を天秤にかけて、それなりの判断を下すタイプです。
対して、刹那的・なんとかなるさ、で生きているのが、妻。もっとも、堅実にしか生きられない私の殻を破ってくれるのも、この人です。今の家を買えたのも、妻の思い切りがなければ、実現しなかったと思っています。
そして、これに似ているのが、息子。手元に金があれば、欲しいものは買う。金は巡るのだから、細かく考えなくていい、という主義。たとえば、三足千円の靴下と、一足五百円の靴下があれば——迷わず、一足五百円のほうを取る男です。
なぜ、こんな話をするのか。
つまり、今。妻にとって唯一の味方である息子が、カナダにいる。財布の紐を締めにかかる私と娘が、がっちりタッグを組んでいる。だから妻は、この牙城を、切り崩せずにいるのです。
■ レストランは、決めたくない
とはいえ、先に書いたとおり、私自身は、やぶさかではありません。
妻の希望を聞くと、こう言います。
「ホテルのレストランのビュッフェで、美味しいご飯が食べたい」
まあ、いいでしょう。息子が異国の料理に舌鼓を打っているであろう今、娘のためにも、連れて行ってやりたい。
「じゃあ、どこがいいの」と聞くと、妻は、三軒のレストランを提示してきました。なるほど、どれも良さげです。
では、最終的に、どこにするのか。そう尋ねた、私に。妻は、こう言い放ちました。
「私は、決めたくない。あなたが、決めて」
いやいや。私が決めたら、あなたや娘の行きたいところと、違ってくるかもしれない。だから、二人で話し合って決めたら——と、提案しました。
すると、「いや、責任を負いたくない」と言うのです。
というのも、妻は、なぜか高確率で、外れを引く。自分で店を決めると、料理が遅かったり、量が少なかったり、接客がいまひとつだったり。そのたびに、皆ががっかりし、矛先が自分に向く。それが、嫌なのだと。
そう。わが家の妻は——プライドも、高いのです。
■ そして、「四軒目」の女
仕方なく、私は娘に確認を取り、三軒のうちの一軒を予約しました。
ここまで、私に落ち度は、ないはずです。
問題は、この後でした。
昨日、妻が、急にキレ気味で、私に詰め寄ってきたのです。
「そろそろ、レストランの予約しておかないと、食べられないんですけど」
私は、すかさず答えます。
「ああ、あなたが一番推してたところ、もう予約しといたよ」
すると。
「え? 聞いてない。私、四軒目の、別のレストランがいいと思ってたのに」
……。
いやいや。聞いていないのは、こちらのほうです。
三軒のうちの、別の一軒が良かった——まだ、分かります。ですが、そもそも私が聞いてもいない「四軒目」が、いつの間にか本命になっている。
「自分で決めるのは嫌だって、俺に決めさせたじゃないか」
「決める時に、事前に私に相談すべきでしょう」
……もう、どうしようもありません。
かくして、予約は一旦キャンセル。すごろくは、きれいに、振り出しへと戻ったのでした。
■ 元気なのは、妻だけ
このところ、チャトランの食欲も戻り、すっかり元気になってきました。
そんな矢先の、この騒動です。私と妻が言い合いを始めると、あの子は、やれやれとばかりに、そっと席を立って、隣の部屋へ消えていきます。
夫婦喧嘩は、犬も食わない。わが家では、猫すら、食わない。
唯一、この喧嘩に関わりたくなさそうな顔をしているのが、チャトラン一匹、というわけです。
結局、いちばん元気なのは——騒動の元凶たる、妻ただ一人。
夏バテ知らずのその勢いに、こちらが先に、へばってしまいそうです。せめて精をつけようと、今夜あたり、うなぎでも食べましょうか。
……もっとも。そのうなぎ屋も、どうせ「あなたが決めて。でも責任は負わないから」と、来るのでしょうけれど。




