―第0️⃣5️⃣0️⃣話― 【角界の風雲児】もしも私が関取だったら——31年ぶりのパリ場所に、夢を馳せる。
最近、スポーツ界を賑わせているニュースを見ていると、ふと思うのです。
「私も、ちゃんと何か競技をやっていたらなあ」と。
そんな「もしも」を、少しだけ語らせてください。
■ 野球? サッカー? フィギュア?
野球をやっていたら?
連日大谷選手が大リーグで大活躍しているニュースが流れています。
しかし、いくら私が背伸びして努力しても、あの活躍ができるとは、到底思えません。あの素晴らしいプレイに憧れはしますが、あれは本人のたゆまぬ努力と、恵まれた身体、何より信念の強さが導いた、彼ならではの境地です。
ワールドカップ?
いえいえ。サッカーなんて、私にはとてもとても。
小学生の頃、キャプテン翼が流行り、確かにみんなでボールを蹴って走り回ってはいました。しかし、私の住んでいた地域は、サッカーよりもソフトボールが盛んな土地。教えてくれる大人もおらず、全員がボールに群がる、あの「だんご状態」のプレイしかできませんでした。
心の中では、大空翼が乗り移り、ドライブシュートを撃っていたのですが……。
りくりゅうペアのような、フィギュアスケート?
いえいえ。九州の、それも「南国」と呼ばれる土地の出身です。私にとってスケートなんて、夢のまた夢。
一応、近所にスケートリンクはありました。夏はローラースケート場、冬はスケートリンクになるボウリング場……。あ、経営難ですぐ潰れてしまいましたが。懐かしいなあ。
——おっと、話がそれました。とにかく私にとって、スケートはお金のかかる、遠い世界のスポーツなのです。
■ では、私に残された道は
では、私に活躍の目があった競技は、何だったのか。
相撲です。
私の母方の祖父は、私を相撲取りにしたい人でした。
小さい頃から、私は体が人一倍大きく、なぜか筋肉質。それも、下半身がどっしりとした体型でした(これは今でも変わりません)。
母の兄弟はみな線が細く、いとこたちもひょろっとした子ばかり。その中でなぜか私だけが体格に恵まれ、「相撲取りにはもってこい」だったのです。
そんなわけで、祖父の家に行くたび、私は相撲を取らされました。NHKで本場所が放送される時は、テレビはずっと相撲。私は、祖父による「相撲英才教育」を受け続けたのです。
しかし——。
周りには相撲クラブのようなものは何もなく、祖父いわく「お前の体格なら、いずれスカウトが来る」という、なんとも他力本願な相撲道。
加えて、こうも言われていました。
「中学になったら柔道をしろ。そしたらスカウトが来る」と。
■ 託された夢の、静かな結末
ところが、です。
以前にも書いたのですが、私は小学生の頃まで、背の順で後ろから3番目を下ったことがない大きさでした。
しかし、中学に入った途端、成長期を迎えた友達にどんどん追い越されていく。前へ、前へと押し出され、一時は「前へ倣え」で手を前に出すのではなく、腰に手を当てる——そう、列の一番前にまでなっていたのです。
相撲取りには、身長制限もあります。
その身長を見て、祖父は、私に託した相撲取りの夢を、静かに諦めました。
(※その後、私が自己流の「進化の実験」を経て182センチまで伸びたことは、以前書いた通りです。ただ、その頃には祖父もすっかり好々爺となり、相撲の話はどこへやら、でしたが)
■ 31年ぶりの、パリ場所
そして今、ニュースが報じているのが、大相撲のパリ公演です。
なんと、31年ぶり。前回フランスで土俵が沸いたのは、あの若貴兄弟が活躍していた時代だといいます。
エッフェル塔を背にした関取衆。アコー・アリーナで、パリジャン・パリジェンヌの大喝采を浴びる力士たち。その晴れやかな光景を眺めながら、私はつい、ありもしない「もしも」を夢想してしまうのです。
もし、あの日、私の身長が伸びることを信じて。中学で柔道に打ち込み、筋力も気力も鍛え上げていたら。
野球やサッカーやスケートよりは、ずっと、その世界に近づけたかもしれない。そして今頃、パリの土俵に……。
——いえ、これこそ「取らぬ狸の皮算用」、いや「取らぬ力士の番付勘定」ですね。
それでも、もし叶うことなら。
今まさにパリで喝采を浴びている関取の皆さんに、こう声をかけてみたいものです。
「私はね、前回のパリ場所の頃、もしかしたらパリジェンヌにもてはやされていたかもしれない、幻の先輩力士ですよ」と。
そんな与太話のひとつも言えたなら、今日のニュースも、また一段と面白く見られたのかもしれません。
さて。テレビの前で、ひとり関取気分のお父さんは、そろそろ現実(晩ごはんの支度)の土俵に戻ることにします。




