バレーボール
大学1年生の4月、柊は新しいキャンパスに立っていた。
入学式の喧騒も、オリエンテーションの慌ただしさも、すべてが遠い記憶のように感じる。
新しい友人候補たちの笑い声、新しい講義室の匂い——
どれも「新しい」のは間違いないのに、柊の心はまだ中学3年の冬、高校3年の卒業式の夜に置き去りだった。
サークル選びの時期。
勧誘チラシが山のように配られ、テニス、サッカー、軽音、映画研究会、ボランティア……
どれも楽しそうに見えたが、柊の足は自然と体育館へ向かっていた。
「結局、バレー部か…」
迷いはあった。
新しい環境で「新しい自分」を作るなら、部活はやめてサークルで軽く遊ぶか、バイトに専念するか——
でも、心のどこかでわかっていた。
バレーに打ち込めば、瑶季のことを一瞬でも忘れられるかもしれない。
あの頃のように、体を動かして汗を流して、頭の中のノイズを黙らせられるかもしれない。
練習中だけは、頭の中がクリアになる。
スパイクを打つ瞬間、ブロックに跳ぶ瞬間、
汗と息遣いとコートの反響音だけが世界を埋めてくれる。
中学の頃から続けてきたこの感覚が、
今、唯一の救いだった。
それでも、最初の数週間は、本当に地獄だった。
朝起きて、講義を受けて、バイトに行って、夜に寮に戻る。
授業中、講義の声が遠く聞こえる。
ノートを取る手が止まる。
バイト先のカフェでオーダーを聞き間違える。
夜、寮のベッドに横になると、
深い孤独感が波のように押し寄せる。
頭の中は常に瑶季の影を探していた。
スマホのフォルダを開くと、空っぽの画面。
トーク履歴は消去済み。
卒業アルバムの写真も、もう見られない。
高校時代は、苦しい夜に瑶季のツーショットを見返して「まだ繋がってる」と思い込むことで、なんとか耐えていた。
今は、それすら奪われてしまった。
毎晩、暗闇の中で
「瑶季……」
と名前を呼ぶ声が、掠れて消える。
告白できなかった後悔が、
胸を抉るように痛む。「もしあの時言えていれば」
「夏祭りの夜に」
「定期演奏会のロビーで」
「たられば」が、無限にループする。
唯一、心が安らぐのは、バレー部の練習中だけだった。
体育館の床にスニーカーの音が響き、ボールがネットを揺らす。
トスを上げて、助走して、跳ぶ。
スパイクがコートに突き刺さる瞬間、頭の中が一瞬、真っ白になる。
瑶季の幻影も、後悔も、虚無も——すべてが消える。
ただ「今、この瞬間」だけが存在する。「俺、やっぱりバレーが好きなんだな…」
練習後、汗だくでベンチに座りながら、そう思った。
小学生時代は運動音痴で、体育の時間はいつも最後尾。
ゲームに逃げ込んで、現実を忘れていた。
なのに、今はバレーが、俺の唯一の救いになっている。
体を動かすことで、生きている実感が得られる。
跳ぶことで、少しだけ、瑶季から逃げられる。
バレーは、俺の「生きる術」だ。
瑶季がいなくなった穴を、一時的にでも埋めてくれる唯一のもの。
汗を流して、息を切らして、体を限界まで動かしているときだけ、「俺は今、ここにいる」って実感できる。
大学生活は、まだ始まったばかり。
新しい講義、新しい友人、新しい日常。
でも、柊の心は、まだ中学3年の冬に留まっている。
瑶季の記憶を無理矢理消去したはずなのに、
消去したことで、逆にその存在がより深く刻み込まれてしまった。
この先、柊はどうなるのか。
新しい出会いが、心の空白を埋めてくれるのか。
それとも、瑶季の幻影は、大学4年間も、ずっと付きまとうのか。
練習後の体育館で、柊は一人、ボールを壁に打ち続けた。
そのリズムだけが、今の柊の心拍だった。




