決断
4月5日。
大学の入学式前夜、部屋の明かりを消したまま、ベッドに座ってスマホを握りしめていた。
外では桜の花びらが散る音が微かに聞こえるような気がした。
胸の奥で、二つの声が最後の戦いを続けていた。
「忘れろ。解放されろ」
「忘れるな。忘れたら俺は生きる意味を失う」
どちらも正しい。
どちらも間違っている。
でも、柊は決断した。
俺は…執着を断ち切りたい。
このまま瑶季を引きずっていたら、永遠に過去に囚われたまま苦しむだけだ。
大学生活も、きっと社会人になっても、毎晩過去の写真を見て、SNSを覗いて、嫉妬と独占欲に吞み込まれて、執着に身を焦がされて、生きる実感を失っていく。
瑶季はもう、俺の日常にいない。
なのに、俺だけがまだあの頃に取り残されている。
瑶季の笑顔を思い出すたび胸が熱くなり、でも同時に、瑶季がもう自分の世界にいない現実が冷たく突き刺さる。
この矛盾を、いつまでも抱えていたら、俺は壊れる。
忘れたい。忘れる努力をしてみたい。
たとえその先が、今以上の地獄だったとしても。
虚無に押し潰されたとしても。
無理矢理にでも、前に進むことはしてみたい。
柊は深呼吸して、スマホのロックを解除した。
アルバムを開く。
指が震える。
まず、中学3年の卒業式のツーショット。
瑶季と並んで笑ったあの写真。
瑶季の笑顔が最高に可愛い。
指が止まる。
「これを消したら…もう、二度と見られない」
涙が、ぽつりと画面に落ちた。
「いいのか? 後悔しないか?」
自問自答が、頭の中で響く。
でも、柊は目を閉じて、深呼吸した。
削除
春休みの遊園地写真。観覧車の中で撮った自撮り。
公園でバレーをした後の汗だくのツーショット。
瑶季の髪が風に揺れて、笑顔が輝いている。
…削除
ファミレスでノートを広げて勉強している横顔。
受験期に一緒に勉強した日の記憶が蘇る。
……削除
夏祭りの浴衣姿の瑶季。
繋いだ手の温もり、瑶季の匂い、花火の音——すべてが鮮明に思い出される。
………削除
1年生の定期演奏会で、遠くから撮ったステージ上の瑶季。
瑶季のフルートの音色が頭の中で聞こえてくる。
…………削除。
一つずつ、指が震えながら、削除していく。
全部、全部、宝物だった。
涙が止まらない。嗚咽が漏れる。
「消さないで…」
心のどこかで、そんな声がする。
でも、柊は無理矢理指を動かした。
トーク履歴も開く。
中学3年の体育祭の日から積み重なったメッセージ。
「おはよう」「おやすみ」「会いたい」「大好き」
インフルエンザのときの「お大事に♡」
元彼からのメッセージのスクショを送ってきた日。
最後のメッセージは、もう1年以上前。
既読すらつかない。
涙がぽろぽろと落ちて、画面を濡らす。
「後悔しないか?」
「本当に、いいのか?」
自問自答が頭の中で渦を巻く。指が固まる。
削除ボタンに触れたまま、動かない。
でも、柊は息を吸って、震える指を無理矢理動かした。
スマホが「本当に削除しますか?」と確認を求める。
柊は、震える指で「削除」を押した。
トーク履歴も、写真も、すべて消えた。
柊はスマホをベッドに投げ出して、両手で顔を覆った。
嗚咽が漏れる。
声にならない泣き声が、部屋に響く。
胸が、引き裂かれるように痛い。
「瑶季……」
名前を呼ぶ声が、掠れる。
全部消した。思い出を、全部。
もう、写真を見返して自分を慰められない。
もう、トーク履歴を遡って温もりを確かめられない。
もう、瑶季の存在を「今」に引きずり込めない。
柊は布団に倒れ込んで、震えながら泣き続けた。
「これで…解放されるはずだ…」
「これで…前に進めるはずだ…」
でも、心の奥底で、もう一つの声が囁く。
(本当に、忘れられるのか?)
忘れようとした瞬間、逆に瑶季の存在が、もっと鮮明に蘇る。
この決断は、柊の人生で、最も残酷で、最も勇敢な瞬間だった。
瑶季を「消去」することで、
ようやく、新しいページを開こうとした。
でも、そのページが空白のままになるのか、
それとも新しい色で埋め尽くされるのか——
それは、まだわからない。
大学生活が始まる。
新しいキャンパス、新しい人間関係。
瑶季のいない世界。
本当に、これでよかったのか。
後悔しないのか。
わからない。
今は、まだわからない。
でも、少なくとも、今日という日で、柊は一歩を踏み出した。
前に進むための、
痛みを伴う一歩を。




