葛藤
大学入学直前の3月末。
柊は自分の部屋で一人、ベッドに座ったまま天井を見つめていた。
机の上には、合格通知書のコピーと新しい大学の学生証。
スーツケースには、春から一人暮らしを始めるための荷物が半分以上詰め込まれている。
新しい生活、新しい環境、新しい人間関係——
普通なら「楽しみだ」と感じるはずの時期なのに、柊の胸は重い霧に覆われていた。
「瑶季の事を忘れたい、けど忘れたくない」この葛藤が、もう何ヶ月も頭の中をぐるぐる回っている。
「瑶季を忘れたい」
このまま引きずっていたら、俺は一生、美化された過去に縋りついて生きていくだけだ。
中学3年の冬から、もう3年半。
体育祭での写真、深夜の通話、夏祭りで繋いだ手、定期演奏会の遠い背中——
全部が、頭の中でループ再生され続けている。
瑶季の笑顔を思い出すだけで胸が熱くなり、同時に、瑶季がもう自分の世界にいない現実が、冷たく突き刺さる。
忘れてしまえば、楽になれるかもしれない。
新しい大学で新しい友達ができて、新しい恋ができて、「瑶季なんてもう過去」って、普通に笑える日が来るかもしれない。
執着を手放せば、ようやく前を向けるかもしれない。
毎晩吐き気と嫉妬に苛まれる必要がなくなるかもしれない。
……それでも。
「瑶季を忘れたくない」
その思いが、忘れたいという理性の声を、簡単に押し潰す。
中学3年の冬、傷を見られて瑶季が本気で泣いて怒ってくれたあの日。
「どうして話してくれなかったの!?」
あの涙、あの言葉が、柊にとって「誰かに必要とされた」最後の瞬間だった。
それ以来、瑶季は柊の心の支柱になっていた。
受験期の毎日の通話。
同じ願い事をした初詣。
夏祭りで繋いだ手。
全部が、俺の人生で一番濃密な時間だった。
瑶季がいなければ、高校受験のプレッシャーも孤独も、全部耐えられなかったかもしれない。
瑶季がいなければ、俺はあの冬を越えられなかった。
瑶季がいなければ、今ここにいないかもしれない。
3年半も好きだった。
執着だったかもしれない。
病的な依存だったかもしれない。
でも、それが俺の「生きる理由」だった。
瑶季への想いが、孤独を誤魔化してくれた。
瑶季の記憶が、虚無を埋めてくれた。
3年半、瑶季への執着で、なんとか自分を保ってきた。
もし瑶季を完全に忘れてしまったら——
その瞬間に、埋められていたはずの巨大な空洞が、一気に口を開ける。
瑶季という「存在」で誤魔化されていた根源的な孤独感が、波のように押し寄せてきて、俺を飲み込む。
虚無に押し潰されて、息ができなくなるかもしれない。
たとえ醜い執着であっても、歪んだ依存であっても、瑶季が俺の中にいることで、なんとか生きてこれた。
柊は、スマホを取り出して、卒業アルバムの写真を開いた。
中学の卒業式でのツーショット。
瑶季と並んで立つ自分。
もはや顔を拡大しないと、瑶季の顔が思い出せない。
声も、記憶の中で薄れていく。
なのに、胸の痛みだけは、鮮明だ。
「忘れたい」
「忘れたくない」
二つの思いが、頭の中で激しくぶつかり合う。
柊は、スマホを握りしめて、額を押しつけた。
「瑶季……俺、どうしたらいいんだよ……」
涙が、ぽつりと落ちた。
新しい大学生活が始まろうとしている。
新しい友達、新しい出会い、新しい未来。
でも、柊の心は、まだ中学3年の冬に取り残されている。
瑶季の幻影を探しながら、
「忘れたい」と「忘れたくない」の狭間で、
ただ苦しみ続ける。




