救済
12月も後半に差し掛かり、教室の窓ガラスは霜で白く曇っていた。
体育の授業は屋内体育館でのバスケットボール。
いつもなら、柊はすぐに体が温まって上着を脱ぎ捨て、半袖の体操服で汗を流すタイプだった。
でもこの日は違う。
長袖のジャージを最後まで脱がず、シュートを打つたびに袖が邪魔そうに揺れる。
クラスメイトは誰も気に留めなかった。
「柊、今日は寒がりかよ〜」と軽く笑う声が上がだけで、ただ「珍しい」と流された。
しかし、瑶季だけが気づいていた。
隣のコート脇から柊の動きをじっと見つめていた。
袖口からちらりと見える白い包帯のようなもの。
いや、包帯じゃない。
新しくできた傷跡を隠すための、テープか何か。
瑶季の胸が、ざわついた。
授業が終わって着替えの時間。
柊はすぐに教室に戻り、なるべく人目につかないように隅の方で素早く着替えた。
体操服を脱ぐたびに、制服を着るたびに、テープ越しにではあるが服が傷に擦れて痛む。
放課後。
チャイムが鳴り、教室がざわつきながら生徒が減っていく。
柊は鞄を肩にかけ、いつものように一人で帰ろうとした。
廊下に出たところで、後ろから声がかかった。
「柊くん、ちょっと待って」
瑶季だった。
まだカバンも持たず、柊の目を深く見据えて立っている。その目は、どこか焦燥感と不安を抱えているようだ。
周りのクラスメイトが「え、デート?」「おー、瑶季から呼び止めるとか珍しいな〜」と冷やかし声を上げながら去っていくのを、瑶季は完全に無視した。
柊も無視した。
ただ、足を止めた。教室に残ったのは、2人だけ。
瑶季がドアを閉めて、柊の前に立つ。
瑶季は深呼吸をして、ゆっくり近づいた。
「…柊くん。腕、見せて。」
柊は「え、何? 別に…」って後ずさりするけど、瑶季は一歩近づいて。
「お願い。隠さないで。」
「…柊くん、体育のとき、長袖だったよね。
いつもすぐ脱ぐのに、今日は最後まで着てた」
柊は視線を逸らした。
「別に…今日は寒かっただけだよ」
「嘘」
瑶季の声が、少し震えていた。
一歩踏み出して、柊の腕をそっと掴む。
袖をまくり上げようとするのを、柊は慌てて止めた。
「やめろって」
「見せて」
瑶季の目が、潤んでいる。
柊は抵抗した。
でも、瑶季の指が強かった。
袖が少しずつまくり上がる。
そこにあったのは、赤く腫れた新しい傷跡と、古いものが薄く残る線。
腕の内側に、何本も。
浅いものから、少し深いものまで。
瑶季の息が止まった。
次の瞬間、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「…なんで、こんなことしてるの…?」
声が掠れている。
柊は俯いたまま、言葉を探した。
「…別に、大したことじゃない。ちょっと、ストレス溜まってて…」
「大したことじゃないって…!?」
瑶季の声が、初めて大きくなる。
涙を拭うのも忘れて、柊の腕を強く握った。
「こんなに傷つけて、自分で自分を傷つけて…それで大したことないって言うの!?
柊くんがこんなになってるのに、私、気づかなかった…!
毎日LINEしてたのに、勉強の話ばっかりで…本当のこと、聞いてあげられなかった…!」
瑶季は泣きながら、怒っていた。
柊に対して、そして、自分自身に対して。
「なんで言ってくれなかったの…?私にだって、話せたでしょ…?柊くんが辛いとき、支えたいのに…!
私、柊くんのこと…大切に思ってるのに…!」
柊は、瑶季の涙を見て、胸が締め付けられるように痛んだ。
今まで、誰にも見せられなかった傷。
誰にも心配をかけたくなかった。
でも、瑶季の前では、もう隠せない。
柊は瑶季の涙を見て、初めて「俺のせいで誰かが泣いてる」って実感する。
「…ごめん」
柊の声は小さかった。
瑶季は首を振って、柊の腕を抱きしめるように掴んだまま、泣き続けた。
「謝らないで…謝るのは、私の方だよ…もっと早く気づいてあげればよかった…
柊くんが一人でこんなに苦しんでたなんて…知らなかった…」
教室に、瑶季の嗚咽だけが響く。瑶季は柊の胸に額を押しつけて、泣きじゃくる。
柊は、動けなかった。
ただ、瑶季の温かい手を感じながら、初めて「誰かに見られた」ことに、ほんの少しだけ安堵を覚えた。
痛みは、まだ消えない。
不安も、孤独も。
でも、この瞬間だけは、瑶季の涙が、自分の傷を少しだけ洗い流してくれる気がした。
瑶季はようやく顔を上げて、涙でぐしゃぐしゃになった顔で言った。
「…これからは、絶対一人で抱え込まないで。私に、話して。どんな小さなことでもいいから。約束して」
柊は、ゆっくり頷いた。
「…うん」
言葉はそれだけだった。
でも、その一言で、柊の心のどこかが、わずかに開いた。




