6. 舞踏会編⑥ 果実水
ディアバスは、ペルラをそのまま北の庭に近い出入り口まで連れていくつもりだった。
ベルデの目線による指令が、正確には何を意味していたのかはわからない。
しかし、カシューから引き離したことには満足していたようだし、舞踏会へ来る前から、北の庭には何かしらの段取りがあるらしい。
ならば、ペルラをそこまで送り届ければ、自分の役目は果たしたことになるだろう。
「北の庭へ行くぞ」
ディアバスが言うと、隣を歩いていたペルラは足を止めた。
「今から?」
「花を見に来たんだろ?」
「そうだけど……」
ペルラは、大広間の壁際に並べられた椅子へ目を向けた。
「その前に、少し休みたいわ」
「もう?」
「もう、じゃないわ。十人くらいと続けてお話したのよ」
話したといっても、ほとんどは名前を名乗り、相手の名前を聞き、二言か三言返した程度である。
それでもペルラにとっては、十分すぎるほどの社交だった。
頬にはまだ笑顔の名残が貼りついているが、目はすっかり疲れている。
「顔の筋肉が痛いの」
「そんなことあるか?」
「あるわよ。ずっと笑っていたんだから」
ペルラは空いている椅子まで歩くと、そのまま腰を下ろした。
「庭へ行く前に、何か飲みたい」
「何がいい?」
「えーと、あれ、あれよ。
あの〜、果実水」
もはや頭があまり回っていないようである。確かに休憩が必要そうだ。
ディアバスは仕方なく、飲み物の置かれているテーブルへ向かった。
この程度の距離なら、ペルラを一人にしても大丈夫だろう。
大広間には王宮の警備もいる。
それに、椅子に座って疲れ切った顔をしている令嬢へ、わざわざ話しかける者もいないはずだった。
ディアバスはそう思っていた。
ペルラは椅子へ深く腰を下ろし、行き交う人々をぼんやり眺めた。
華やかな衣装。
楽しそうな笑い声。
音楽に合わせて踊る人々。
遠くから見ている分には、やはり舞踏会はきれいだった。
自分もその一部として振る舞わなくてよいなら、もう少し楽しめるのに。
そう考えていたとき、目の前に人影が止まった。
ペルラは顔を上げた。
ムーンストーンではあまり見かけない褐色の肌、黒い髪、黒い瞳。
髪は短く切られていた。
生粋のムーンストーン人の男性は髪を長く伸ばすことが多い。短髪の男性は、それだけでアルマンディンの出身だと推測できた。
ただし、彼の左手首には、腕輪のような小型の星の蔦が装着されている。ムーンストーン軍人なのだ。
若い男は、ペルラと目が合うと姿勢を正した。
「あの」
声をかけたものの、そのあと何を言うべきか迷ったらしい。
一度口を閉じ、改めて開く。
「先ほど、一緒にいらした男性は?」
唐突な質問だった。
ペルラは少し考えた。
「兄のようなものですわ」
「お兄様、ですか」
「正確には兄ではないのですけれど。ずっと同じ家で暮らしている遠縁の者なので、家族のようなものです」
男は、わずかに安心したような顔をした。
恋人や婚約者ではないらしい。
「では……」
そこでまた言葉が止まる。
男は、ペルラの隣にある空いた椅子を見た。
「隣に座って、お話ししてもよろしいでしょうか」
「あっ、あの……はい」
断る理由も思いつかず、ペルラはうなずいた。
男は丁寧に礼を言い、隣の椅子へ腰を下ろした。
「申し遅れました。ガレナ・カルセドと申します。王都守備隊に所属しております」
「ベトーラ家のペルラと申します」
「存じております」
「そうなのですか?」
「あ、いえ。先ほど、ベトーラ副隊長が何度か紹介していらしたので」
「そうでしたか」
「はい」
会話が止まった。
ガレナは礼儀正しい。
しかし、社交慣れしているようには見えない。
ペルラも、相手が話を広げてくれなければ、何を続ければよいのかわからなかった。
音楽だけが二人の間を流れていく。
ペルラは、何か話さなければと思った。
「ガレナ様は、アルマンディンからいらしたのですか」
「はい」
ガレナは少し表情を明るくした。
「父がアルマンディン駐留地域の統監を務めております。私は三男で、今は王都守備隊で勤務しています」
「お父様のところではなく、王都にいらっしゃるのですか?」
「はい。いきなり父のもとへ配属されては、統監の息子だから取り立てられたと思われますから」
ガレナは真面目な顔で答えた。
「なるほど、それで王都にいらっしゃるのですね」
「はい」
今度は先ほどより少し長く話せた。
それでも、そこで会話が止まる。
二人とも次の話題を探して、大広間を眺めた。
ペルラは、ガレナの左手首に目を向ける。
「星の蔦ですね」
「はい」
ガレナは左手を少し持ち上げた。
「私に支給されているのは、小型の物ですが。
星の蔦は、本当にムーンストーンらしい装備ですね。美しくて、機能的で。こういう物はアルマンディンにはありません」
手首を囲む銀線と埋め込まれた赤い宝石が、シャンデリアの光を受けて静かにきらめいた。
「あら、ムーンストーンだけなのですか。知りませんでした。
赤い宝石がお似合いですわ」
「ありがとうございます」
「赤がお好きなのですか?」
「そうですね、好きな方です。
アルマンディンだと赤は幸運と勝利の色なのです」
「そうなのですね」
そして、また沈黙が流れた。
ガレナは何か別の話題を探すように、ペルラを見た。
「今日のドレスは、とてもきれいですね」
「あっ、ありがとうございます」
ペルラは少し嬉しくなった。
「あの……ペルラ様の髪も、美しい緑色ですね」
「あ、ありがとうございます」
「私はその緑色も好きです」
「あの、そうですか……良かったです」
二人してうつむき、また会話が止まった。
ガレナはわずかに息を吸った。
何かを決心したように、姿勢を正す。
「あの、ペルラ様」
「はい」
「今夜、まだダンスのお相手がお決まりでなければ――」
そのころ、ディアバスは飲み物のテーブルで果実水を注文し、係の者からグラスを受け取っていた。
そのままふと何気なくペルラの方へ目を向けた。
隣に男が座っていた。アルマンディン人のようだ。
どうして飲み物を取りに来たわずかな間に、知らない男と並んで座っているのか。
油断も隙もない。
もっとも、男がペルラへ声をかけた理由には、少し心当たりがあった。
ムーンストーン王国では、アルマンディン人への差別は禁じられている。
それでも王都貴族たちの間には、敗れた旧アルマンディン大陸王国の人々を、自分たちより下に見るような空気が薄く残っていた。
誰も公然とは口にしない。
表向きは同じムーンストーン王国民として礼儀正しく接する。
けれども、会話の輪へ入りづらかったり、縁談の相手として最初から数に入れられなかったりすることはある。
その男も、王都の令嬢へ声をかける相手を選んでいたのかもしれない。
ペルラは先ほどまで、褐色の肌と黒い髪を持つディアバスを、そばへ連れていた。
だから、話しかけやすかったのだろう。
もちろん、単にペルラが目についたからかもしれない。
実際、今日のペルラは目立っていた。
自分が選んだ鮮やかなドレスを着て、いつも以上にきれいに見える。
ペルラをきれいに仕上げたのも自分なら、話しかけやすそうな令嬢に見せたのも自分というわけだ。
まったく、俺は何をしているのだろう。
幸い、ペルラは困ってはいないようだった。
だからといって、放っておくわけにもいかない。
ベルデが、あの男を結婚相手の候補にしているとは思えなかった。
もしアルマンディン出身なら、いずれ故郷へ戻る可能性もある。だが、アルマンディンは王都から遠く、治安もよくない。
ディアバスは果実水のグラスを持ち直し、二人の方へ歩き出した。
当たり障りなく会話を終わらせ、ペルラを北の庭へ連れていかなければならない。
いつもの舞踏会は空気として無言で佇んでいればいいだけなのに、今夜はペルラがいるので本当に忙しい。




