32. イグニス編⑦ クッキー
※主な登場人物は、作品あらすじ欄にまとめています。
「ペルラ。クッキー、焼けたぞ」
寮の廊下でイグニスのワニに遭遇して以降、ペルラはしばらく元気がなかったが、昨日あたりからようやく調子を取り戻していた。
「わあ、おいしそう! ディアって天才! 焼き立て食べちゃおうかな〜」
「待て待て。鉄板が熱いから触るな。お茶入れるから座っとけ」
ペルラとディアバスが話していると、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
ディアバスがドアを開けると、イグニスが立っていた。
紙袋を持っているが、今日は大物は持っていなさそうだ。
「こんにちは。……あれ? ここはペルラ嬢の部屋だよね?」
「そうですが?」
ペルラの部屋のドアを開けたら、アーバスことディアバスが出てきたのだから、イグニスが確認したのは当然である。
「あの、先日は」
奥からペルラが出てきた。
「イグニス様! こんにちは! ぜひお茶でもいかがですか。ちょうどアーバスがクッキーを焼いてくれたところなんですよ」
「いいのかなぁ?」
「どうぞどうぞ!」
ペルラが招き入れるので、イグニスはディアバスの横をすり抜けて部屋に入っていった。
――あっ……。
ディアバスはそう思ったものの、どうしようもなかった。
「この間はワニを見せてしまって、ごめんね」
イグニスがペルラに謝った。
「イグニス様、大丈夫ですよ。それに私、アーバスが目を隠してくれたので、ワニを見ていないんです」
「本当? 良かった〜!」
イグニスが明らかにホッとした顔をした。
「だから、気にしないでください」
――布に包まれた状態ではワニを見てるだろ! それですらショックを受けてたクセに!
ディアバスは内心ツッコミながら、クッキーをテーブルに運んだ。
「これ、お詫びにと思って持ってきたんだ。これは僕から、これは母から」
「まぁ、いいのに。申し訳ないですわ」
「そう言わずに、ぜひ受け取って欲しい。これは僕から。銀粉病の薬なんだ。うちで作ってるヤツだけど」
イグニスは小さな紙袋から小瓶を取り出した。
ちなみに、イグニスの言う『うち』とは、コンミフォラ家所有の大工場のことである。
「銀粉病?」
「君が植物を育てていて、葉の裏がキラキラする病気で困っていると、アーバスがこないだ言っているのを聞いたんだ」
ペルラは寮の部屋のベランダで植物を育てている。
「そうなんです。葉っぱの裏がキラキラしてきれいなのですが、そうなるとまもなく枯れてしまって困っているのです」
「それは銀粉病だ。この農薬を五十倍に希釈して、葉の裏に噴霧したらいいよ」
「そうなんですか? ありがとうございます! イグニス様って、お詳しいんですね」
「いや、そんな。でも、僕で分かることなら相談に乗るよ」
「ありがとうございます。イグニス様、優しい!」
盛り上がるペルラとイグニスを見ながら、ディアバスは無言でお茶を飲んでいた。
お詫びの品に農薬をチョイスするのが、いかにもイグニスである。
「あ、それで、これは母から。色々詰め合わせ」
イグニスが大きな紙袋を出した。
謝罪のカードと共に、お菓子やら茶葉やら香油やら、どっさり入っている。
「ありがとうございます。かえって気を遣わせてしまって申し訳ないですわ。お母様によろしくお伝えくださいませ。気になさらないでくださいと」
「ありがとう」
イグニスが体の向きを変えた。
「アーバス様にも謝らなくては。先日は申し訳なかった」
「あっ、いえ……」
「これはお詫びの傷薬です」
ディアバスにも見覚えがあるガラス瓶だった。
「あ、有名なヤツ」
コンミフォラの薬はどれもよく効くことで有名だったが、特級のラベルが付いている物は、中でも高級品として珍重されていた。
「ご存知でしたか。特級の傷薬は、僕と父も現地調査や採集旅行の時に使っているんです。もちろん剣の傷にも使えます。よく効きますよ」
「ありがとうございます」
ひとしきり話すと、イグニスは立ち上がった。
「ありがとう。お茶もクッキーもおいしかった」
「ぜひまたお茶にいらしてくださいね」
「アーバス様がこんなにお菓子作りが上手とは知りませんでした」
「いえ、上手って程では」
ディアバスをペルラが遮った。
「ええ、アーバスが作るのは何でもおいしいんです」
「では、今度は良さそうな製菓材料を持ってきますね」
「まあ!」
ドアに向かうペルラとイグニスの後を歩きながら、ディアバスは思った。
――また来るのか……?
笑顔が引きつるのを感じた。




