141. ムーンストーン編⑧ コンミフォラ邸・前編
※主な登場人物は、作品あらすじ欄にまとめています。
夕方、ペルラとイグニス・コンミフォラは、薬草畑の様子を見ていた。
イグニスは王都で用事があると、その帰りにペルラの家へ立ち寄ることが多かった。今日もそうだった。
ペルラとディアバスの新居の庭は徐々に充実してきていた。広くはないが、その一画は薬草畑にしてあった。
ペルラは、ムーンストーンではあまり流通していない薬草を、イグニスと試行錯誤しながら育てていた。
珍しい植物を育てるのは楽しく、その上その薬草をイグニスが時々買ってくれるため、ペルラとディアバスの貴重な臨時収入になっていた。
その間、イグニスの従者は、台所で夕食を作っていた。
イグニスがあまりに頻繁に訪問するため、夫人からは、ペルラとディアバスに迷惑をかけないよう、できる限り手伝うよう言い含められていた。
毎回のことなので、従者は、もはや鍋や皿の置き場も調味料の棚も完全に把握していた。
玄関の扉が開いた。
騎士団から帰ってきたディアバスが姿を見せる。
イグニスの従者が料理の手を止めて、すぐにそちらへ向かった。
「おかえりなさいませ」
「あ、ただいま」
「お預かりいたします」
差し出された手に、ディアバスはごく自然に上着を渡した。
ディアバスは庭へ向かいかけて、足を止めた。
振り返る。
イグニスの従者が、受け取った上着をきれいに整えている。
「……」
――なぜ俺は、他人の従者に上着を渡したのだろう。
だが、今さら返してくれとも言いづらい。
冷静に考えると少しおかしいと思うのだが、イグニスと従者が家にいることが多過ぎて、もはや慣れてしまっている自分が怖かった。
ペルラとイグニスが庭から戻ってきた。
「おかえり、ディア」
微笑むペルラの頬に、乾いた泥が一筋付いている。
「ああ、ただいま。ペルラ、手を洗う時に顔も洗え。泥がついてるぞ。必ず鏡を見ろ」
「えー、顔に泥? やだぁ」
ペルラは洗面所にあわてて向かった。
ペルラに続いて部屋に戻ってきたイグニスが、ディアバスに声をかける。
「おかえりー。お邪魔してるよ」
「今日もいるんですか? 昨日もいましたよね? まあいいですけど」
「だって楽しくて、つい」
イグニスが少しうつむいた。
ディアバスは、背後から従者の視線を感じた。
――事実を言っただけなのに、なぜ俺が視線を感じなければならない?
「いや、いていいんだけど。全然」
イグニスの顔がパッと明るくなる。
何だか、背後の視線が緩んだ気がした。
「あ、あのー。そう……好きなだけ、いてくれ」
ディアバスは、すっかり暗くなって外が見えない窓に視線を向けた。
急にペルラの声がした。
「好きなだけはダメよ!」
ペルラが洗面所から戻ってきた。
「夕食食べたら帰ってくださいね、イグニス様。
寝るのが遅くなったら、朝起きれませんからね」
ペルラがなぜか得意気に話す。
「はい、わかりました」
イグニスが少しはにかみながら返事した。
ディアバスは額に手を当てた。
――「寝るのが遅くなったら、朝起きれない」って、俺がペルラに毎晩言ってることだからな?
ペルラがポンと手を叩いた。
「そうだ! 今度、イグニス様のお家にご挨拶に行ってもいいですか?」
「うち?」
「うん。バサルクに行ったとき、イグニス様のお父様には本当にお世話になったでしょう?」
ペルラの兄ベルデがバサルクへ渡る際には、イグニスの父が海上油田の定期整備に向かう船に同乗させてもらった。
ペルラとディアバスとベルデがムーンストーンに戻るときも、その帰りの船に乗せてもらった。
港に着いた後も、コンミフォラ家にベトーラ伯爵邸まで人と荷物を運ぶ手配をしてもらった。
ディアバスもうなずいた。
「俺も、一度きちんとお礼に行こうと思ってた」
「それでか。でも、今父はいないよ」
「いないのか?」
「うん。たぶん外国に行ってる」
「たぶん? いつお帰りになるの?」
「さあ……」
「……」
どこの国で何をしているのか、息子もよく知らないらしい。
「でも、お母様にご挨拶できれば、お父様にもよろしくお伝えいただけると思うし」
「なるほど。じゃあ明日来る?」
「明日?」
「うん」
ペルラとディアバスは顔を見合わせた。
「私たちは大丈夫だけど……」
「母もたぶん大丈夫だと思う。よく家にいるから」
「では、朝に貸し馬車を……」
「あ、貸し馬車で来るつもりなの? うーん。道も分かりづらいから、うちの馬車を迎えによこすよ」
「そこまでしてもらわなくても」
「大丈夫。いつも僕が乗ってるやつだから」
イグニスが従者に目配せすると、従者が軽く頭を下げた。
コンミフォラ侯爵家は、アデュラリア公爵家に次いで、ムーンストーン貴族で二番目に裕福ともいわれる家だ。
馬車を一台迎えに出すくらい、何でもないことなのだろう。
当日の朝に貸し馬車を手配するのも慌ただしい。
ペルラとディアバスは、イグニスのありがたい申し出に甘えることにした。
◇
その夜。
コンミフォラ邸へ戻ったイグニスは、母を見つけると声をかけた。
「母上」
「なに?」
「明日、ペルラとディアバスが来るよ」
夫人の動きが止まった。
「……」
「父上にいろいろお世話になったから、挨拶したいんだって」
「明日?」
「うん」
「ペルラちゃんが?」
「うん。ディアバスも」
「まあ!」
夫人が呼び鈴を鳴らすと、ほどなくして、眼光の鋭い老執事が現れた。
「お呼びでございますか、奥様」
夫人は立ち上がった。
「緊急事態よ!
明日、ペルラちゃんが来るわ」
「なるほど」
老執事の目がわずかに細くなった。
「あのペルラ様ですね」
「そうなのよ! あのペルラちゃんよ!」
夫人は両手を合わせた。
ペルラちゃんと言えば、あのイグニスと話が合う、貴重なお友達である。
実は、イグニスにはいまだ婚約者がいない。
ムーンストーンの中央貴族は幼少時に婚約者を決めるのが通例であり、コンミフォラ家もそう努力してきた。
しかし、コンミフォラ家というだけで、相手方が尻込みしてしまうのである。
しかも、従者の情報によると、王立学校の入学式で、ペルラちゃんはイグニスの顔に一目惚れしたことがあるらしい。
この際、顔でも何でもいい。
他の方と結婚してしまったが、イグニスと親しく付き合ってくれる人など滅多にいない。
何物にも代え難い、希少な人材である。
「あっ、あと、ご主人も来るみたい」
「……ディアバス様でございますね」
「そうそう」
「とりあえず、コック長とメイド長と庭師を呼んできてちょうだい!」
「かしこまりました。大至急呼んでまいります」
老執事は一礼した。
イグニスは、ポカンと二人を眺めていた。
――どうして緊急事態なのだろう。
イグニスは、のびをした。
――まあいいや。
研究の続きが残っている。
イグニスは離れへ向かった。




