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139. ムーンストーン編⑥ ルビー・前編

※主な登場人物は、作品あらすじ欄にまとめています。

サファイヤは、机の上の書類から顔を上げた。


壁の時計を見る。


今日は、婚約者のルビーと約束がある。


正確には、ルビーの友人夫婦と四人で夕食をとることになっていた。


その友人というのが、ペルラだった。

ルビーとは学生時代からの友人で、近く結婚するらしい。

もともとは兄のミリスに頼まれ、入学したばかりのペルラにルビーが声をかけたことが、二人の付き合いの始まりだった。


せっかくなら自分も紹介したい、とルビーが言った。

サファイヤとしても異存はなかった。

自分たちも、もうすぐ結婚する。

今後も付き合いが続く相手なら、一度きちんと挨拶をしておきたかった。


店もサファイヤが選んだ。

ペルラは植物が好きだと聞いて、内装に植物をふんだんに使った少し変わった店を見つけた。料理の評判も悪くない。

四人で落ち着いて話せるよう、個室も取った。


我ながら、なかなかいい選択だったと思う。

ただ、一つ気になることがあった。

昨日、ルビーが言ったのだ。


『今日は三十分早く来て。話しておきたいことがあるから』


話しておきたいこと。

ルビーが、そんな前置きをしたことが今まであっただろうか。

何だろう。

結婚のことだろうか。

それとも……。


「サファイヤ」


「え? あ、はい」


顔を上げると、上司がこちらを見ていた。


「聞いてる?」


「聞いてます」


「本当に?」


「……」


上司が一枚の書類を差し出した。


「それ、急ぎね。今日中に」


「今日中……」


サファイヤは時計を見た。

退勤予定まで、あと一時間。


「そのバサルクの海上油田火災の件。明日の御前会議用の基礎資料、作ることになったから」


「明日の?」


「うん」


「……今から?」


「今から」


上司はペンを指先で振った。


「俺も鬼じゃないのよ」


「はい……」


違うのだろうか。

今朝、今日はルビーとの予定があるので早めに上がりたいと、確かに伝えたはずなのだが。


「御前会議に出すって決まったの、十分前なの」


「……はい」


「俺もさ、代わりにやってあげたいんだけど」


「はい」


「今夜、子供の誕生日会するから」


「…………」


「俺も予定があるの。分かる?」


「はい」


サファイヤは書類を受け取った。


◇


そこからの一時間、サファイヤは猛烈な勢いでバサルクについて調べた。


バサルク王国。

南方の島国。

場所は知っている。

もちろん知っている。

外務局勤務なのだから。

ただ、あの辺りには似たような名前の小さな島国がいくつか並んでいる。

どれがどれだったか、少し曖昧だっただけだ。


机の上に資料が積み上がった。


『はじめてのバサルク』

『バサルクを知ろう!』

『これでわかる! 決定版 バサルク』

『詳説バサルク』

『バサルク 最新の動向』


油田の位置。

主要港。

周辺の航路。

アルマンディンとの関係。


一時間前の自分とは違う。


おそらく王都でも、今この瞬間ならバサルクについて詳しい人間の上位に入る。


たぶん。


「終わりました」


「お、早いね。ありがとう」


「失礼します」


サファイヤは鞄をつかんだ。

待ち合わせには、どうにか間に合いそうだった。


◇


店の個室に入ると、ルビーはすでに来ていた。


「お疲れさま」


「ごめん。待った?」


「ううん。今来たところ」


壁や天井には植物が這い、窓辺にも大きな鉢植えが並んでいる。

室内を緩やかに区切る大きな衝立(ついたて)にも蔓植物が絡んでいた。

少し変わった店だが、ルビーは気に入ったらしい。


「ここ、おもしろいね」


「よかった」


サファイヤはほっとした。

ペルラにも気に入ってもらえるといいのだが。


「飲み物だけ先に頼もうかな?」


「そうしよう」


注文を済ませたところで、店員が衝立の横を通った。

何かが引っかかった。

大きな衝立が、ゆっくりと傾いた。

サファイヤには、それが妙にゆっくり見えた。

こちらへ倒れてくる。

分かっているのに、一歩も動けなかった。


次の瞬間。

ルビーは即座に立ち上がった。

衝立の縁をつかみ、倒れ込む勢いを受け止める。


店員が慌てて駆け寄った。


「申し訳ございません!」


「大丈夫です」


ルビーは衝立を元へ戻した。


「サファイヤ、平気?」


「……うん、ありがとう」


「びっくりしたね」


「うん」


ルビーは何事もなかったように席へ戻った。


サファイヤも座った。

心臓がまだ少し速い。

危なかった。

それ以上に。


――かっこいい。


サファイヤは飲み物に口をつけた。

ルビーはかわいい。

昔から知っている。

だが、今のはかっこよかった。


「それで、話なんだけど」


「うん」


サファイヤは姿勢を正した。

来た。

三十分早く呼ばれた理由だ。


「バサルクって知ってる?」


「もちろん」


サファイヤは自信満々に即答した。


「僕は外務局勤務だよ?」


つい先ほどまで少々曖昧だったことは、言う必要はない。


「よかった」


ルビーが安心したように笑った。


「今日会うペルラの旦那さん、バサルクの王子だから」


サファイヤは瞬きをした。


「ん?」


空耳だろうか。


「ペルラ、前にバサルクの王太子と婚約してたでしょ」


その婚約は破談になり、帰国した。

それは、社交界に出ている貴族なら、ほとんど全員が知っているはずだ。


「その弟が、ペルラの旦那さんね」


「……弟?」


「そう、バサルク王国第二王子、ディアバス・バサルク殿下」


「ディアバス……」


担当は違えど、バサルクとの婚約交渉が続いていた間、外務局員として何度も見聞きした名前だった。


――兄と破談になり、弟と結婚するのか?


一体何があったというのか。


サファイヤは頭が痛くなってきた。


「今日はアーバスね。ムーンストーンではセルド男爵アーバスとして暮らしてるらしいよ」


ムーンストーン王が他国の王家から取った人質が、安全のために、よく偽名を使っていることは外務局員として聞いていた。

しかし、彼らが実際にどんな偽名や身分を使っているかは、一般職員の知るところではなかった。


そうかそうか、こういうことなのか。


サファイヤは水を飲んだ。


「じゃあ、よろしく」


ルビーの言葉に頷きかけて、サファイヤは一瞬固まった。


――王子がここに来る?


サファイヤは慌てて店内を見回した。

植物が茂っている。

先ほどは衝立も倒れた。


「この店で良かったのかな?」


「なんで? おしゃれで、いい店じゃん」


ルビーは注文したレモネードを飲んだ。


「いや、もっと格式が高い店……」


サファイヤが言いかけた時、扉が開いた。


「お待たせしました」


淡いミントグリーンの髪に、濃い紫色の瞳の女性が入ってきた。

その後ろから、背の高い男性が続く。


「全然。私たちも今来たところ」


ルビーが立ち上がった。


「ペルラ、久しぶり!」


「久しぶり〜」


サファイヤも立った。


その男性と目が合った。


バサルク第二王子、ディアバス・バサルク。

――アーバス・セルド。

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