135. ムーンストーン編② アデュラリア邸・前編
※主な登場人物は、作品あらすじ欄にまとめています。
アデュラリア卿は、執務室で翌日の予定に目を通していた。
王宮にほど近いアデュラリア邸は、王都の中心部とは思えないほど静かだった。
大通りを行き交う馬車の音も、ここまではほとんど届かない。
扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
家令が入ってきた。
「閣下。明日の来客について、一件ご報告がございます」
「何だ」
「ディアバス殿下がお見えになります」
「ディアバス殿下が?」
「はい。ペルラ妃殿下とご一緒です。ユーカリ様へ、ムーンストーンでの結婚式の招待状をお持ちになるとのことです」
「…………」
ペルラ。
その名を聞くと、どうしても思い出すことがあった。
事の始まりは、第二王子ジュニパーだった。
王は、ジュニパーに婚約者を定めるつもりがなかった。
王太子はシナモンである。
ジュニパーは、あくまでその予備だった。
シナモンに万一のことがあれば、その立場を引き継ぐ可能性がある。国外との関係次第では、第二王子の婚姻そのものが重要な取引材料となることもある。
必要になるまで、相手を決めない方が都合がいい。
それに、国内の特定の貴族家と第二王子を結びつけることには危険もあった。
婚約者の実家がジュニパーを担ぎ、王太子とは別の勢力を作らないとも限らない。
ジュニパーには、当面、婚約者を置かない。
それが王の方針だった。
ところが、そのジュニパーがペルラ・ベトーラに強く執着していた。
王都にペルラがいる限り、諦める様子はない。
ならば、ペルラの方に相手を決める。
できれば、王都から遠く離れた場所へ。
そうして進められたのが、バサルク王太子オーニチェとの縁談だった。
もちろん、ジュニパーだけが理由ではない。
ペルラが王太子妃となれば、バサルク王家にムーンストーン貴族を送り込むことができる。
オーニチェの王位継承をムーンストーンが承認し、その婚姻成立に伴って、長く人質となっていたディアバスも正式に人質ではなくなる。
両国の間で、何か月もかけて条件が詰められた。
ペルラが選ばれたことにも理由はあった。
彼女は長年、バサルク人であるディアバスと同じ家で暮らしていた。
他のムーンストーン貴族の令嬢より、バサルクの人間や文化にも馴染みやすいだろう。
少なくとも、そのときはそう考えられていた。
そしてペルラとディアバスは、バサルクへ渡った。
ほどなくして、話は崩れた。
オーニチェとの婚約は解消。
ペルラは体調を崩し、長い船旅に耐えられる状態ではなくなった。
使者として同行していたアルモンド・サイデライトと、その護衛であるヴィレンスだけが先に帰国した。
ペルラはバサルクの海の離宮へ移り、静養することになった。
ディアバスも世話役として残った。
大貴族のアデュラリア卿は、サイデライト宰相らとともに、日頃から御前会議に列する重臣の一人だった。
御前会議で報告を聞いた王は、しばらく黙っていた。
「……帰国できないほどなのか」
「今は船旅を避けるべきだと、現地の侍医が判断しております」
「そうか」
サイデライト宰相も、アデュラリア卿も黙っていた。
婚約が解消されたことだけなら、まだよかった。
外国との婚姻である。そういうこともある。
しかし、王家の意向で遠い国へ送り出した中央貴族の娘が、婚約を解消したうえ、体調を崩して帰国すらできない。
貴族たちが黙っているはずがなかった。
「陛下は我々を軽んじておられるのではありませんか」
「ペルラ嬢を、何だとお考えなのでしょう」
「アデュラリア卿。あなたから陛下に、しっかり申し上げていただきたい」
兄のベトーラ伯爵からも、強い抗議が届いていた。
一方、王からは、
「アデュラリア卿。貴族たちには、何とかうまく話しておいてくれ」
と言われた。
「……承知いたしました」
アデュラリア卿は貴族たちをなだめ、王宮へ戻れば、その不満を王へ伝えた。
その間にも、ペルラは海の離宮で静養を続けていた。
やがて、回復に向かっているという知らせが届いた。
そこで御前会議は、改めて問題の出発点へ戻った。
「ジュニパーはどうしている」
王が尋ねた。
「以前と、大きくは変わっておられません」
「ペルラ嬢については?」
「今も気にかけておられるようです」
「…………」
王は腕を組んだ。
「まだ駄目か」
誰も否定しなかった。
ペルラが回復したからといって、そのまま王都へ戻せば元に戻る。
しかし、もう国外へ送り出す案は使えない。
そこで、国内の貴族から、王都を生活の本拠にしない相手を探すことになった。
これが難航した。
ベトーラ家と釣り合う中央貴族。
適齢期。
未婚。
婚約者なし。
人物にも問題がない。
さらに、王都を生活の本拠にしない者。
中央貴族である以上、最後の条件を満たす者がそもそも少なかった。
そんな折、一人の重臣が、ヘーゼル卿から聞いた話を持ち帰った。
「ご子息のミリス殿が、以前からペルラ嬢との縁談を希望していたそうです」
「ミリス・ヘーゼル?」
「はい。現在、王都守備隊に勤務しております。ペルラ嬢の兄、ベトーラ伯爵の部下です」
「王都守備隊では、王都にいるではないか」
「それが! アルマンディン駐留軍に異動する予定なのです。第三港湾副司令官に内定しています」
「……アルマンディン?」
「はい」
アルマンディン領は王都から遠く離れているが、ムーンストーン国内だ。
そこからは早かった。
未婚。婚約者なし。
軍人としての評判もいい。
現在はベルデ・ベトーラの部下。
ペルラとも面識があり、妹のルビーはペルラの友人。
そして、ミリス本人がペルラとの縁談を望んでいる。
「これだ!」
異論はなかった。
「すぐにヘーゼル家へ確認を」
「ベトーラ伯爵にも連絡を」
「バサルクにも知らせろ」
「急げ。この話をまとめるぞ」
これなら貴族たちにも説明がつく。
今度は国内だ。
相手の身元も確かで、本人同士にも以前から接点がある。
ようやく出口が見えた。
ところが、その縁談を動かして間もなく、バサルク王家から新たな申し入れが届いた。
第二王子ディアバスとペルラとの婚姻を認めてほしいという。
「……ディアバス殿下?」
「はい」
「つい先日まで、兄君と婚約していたのではなかったか」
「そのはずです」
「兄君との婚約が解消されたと思えば、今度は弟君か」
重臣の一人が眉をひそめた。
「ペルラ嬢は物ではありませんぞ」
もっともな意見だった。
だが、話を聞けば、バサルク王家が勝手に相手を弟へ替えたわけではなかった。
「本人たちが希望している?」
「はい」
「ペルラ嬢も?」
「そのようです」
「…………」
改めて考えると、二人はすでに十年以上、ベトーラ家で共に暮らしていた。
御前会議は再び黙った。
「……では」
一人が言った。
「我々が二人をそろってバサルクへ送ったのは、何だったのでしょうな」
「…………」
「いや、当時はオーニチェ殿下との婚姻が……」
「それは分かっています」
「王位継承についても、何か月もかけて条件を詰めました」
「それも分かっています」
誰も、それ以上言わなかった。
だが、問題はそれだけではない。
別の重臣が口を開いた。
「そもそも、ペルラ嬢があれほど体調を崩した件ですが……我が国にも責任があるのでは?」
室内が静かになった。
「ディアバス殿下と長年暮らしていた。だから、バサルクの人間や文化にも馴染みやすいだろうと、我々は考えました」
「……そうですな」
「ですが、我々が考えていたのは、文化や生活への適応ばかりです。冷涼な王都で育ったペルラ嬢を、熱帯のバサルクへ送り出すことが、身体にどれほど負担になるかまでは、十分に考えていなかった」
誰も反論しなかった。
ここでディアバスとの婚姻を認めないのも、どうなのか。
ペルラ本人が望んでいる。
ディアバスとは長年一緒に暮らしており、生活にも問題がなかった。
バサルク王家との婚姻関係も維持できる。
何より、王家の都合で一度遠い国へ送り、体調まで崩した令嬢に、今度は別の男と結婚してアルマンディンへ行けと言うのか。
アデュラリア卿は口を開いた。
「陛下。少なくとも、ペルラ嬢本人が望んでいる婚姻を、再び我々の都合で退けるのは得策ではないでしょう」
王は黙って聞いていた。
「貴族たちも、今回の件には強い不満を持っています。ここで本人の希望まで退ければ、私にも抑えきれません」
「……そうか」
だが、王にも引っかかるものがあった。
「ディアバスは、結婚後どうなる」
「人質としての扱いは変わりません。ムーンストーンへ戻ることになります」
「では、ペルラ嬢も戻るな」
「はい」
「住まいは?」
「当面はベトーラ伯爵家になるかと」
王は黙った。
誰かが、小さく息を吐いた。
「……王都ですな」
「王都だな」
沈黙が流れた。
何日もかけて、王都を離れる未婚の中央貴族を探した。
ようやく見つけたのが、ミリス・ヘーゼルだった。
「それでは、我々が王都を離れる者に絞って探した意味が……」
「分かっている」
王は遮った。
「だが、本人たちが望んでいる。バサルク王家との縁も残る。ここで、ペルラ嬢をまた別の場所へ送り出すことに、私も賛成できん」
王は少し考えた。
「それに、正式に結婚すれば……ジュニパーも変わるかもしれん」
御前会議の面々は黙っていた。
それは、希望的観測ではないか。
そう思った者は、一人ではなかっただろう。
だが、ほかにもっと良い答えがある者もいなかった。
「……仕方あるまい」
王は言った。
「婚姻を認めよう」
こうして、ペルラとディアバスはバサルクで結婚した。
そして後日、夫婦そろってムーンストーンへ帰ってきた。
王都へ。
「閣下?」
家令の声に、アデュラリア卿は顔を上げた。
「ああ」
「明日の件ですが。ディアバス殿下は、アーバス・セルド男爵としてお見えになります」
「ペルラ妃殿下も?」
「はい。明日はセルド男爵夫人として」
「ユーカリが応対するのだな」
「はい」
「では、私はいい」
家令は一礼した。
扉が閉じると、執務室は再び静かになった。
アデュラリア卿は手元の書類に視線を戻した。
今年はもう、ペルラの名は聞きたくなかった。
明日来るのは、セルド男爵夫妻だ。
ならば、ユーカリに任せよう。




