第8話 リーマンショック その2
フェドさんが限界まで踏み込んだアクセルペダルから溢れ出たドルの濁流は、ニューヨークの街へと流れ込み、奇妙な現象を引き起こします。
リーマン・ブラザーズをはじめとする投資銀行やファンドのプレイヤーたちが、その莫大なお金を使って、天を突き刺さんばかりの「黄金の摩天楼」を建て始めたのでした。
それは物理的な超高層ビルであると同時に、彼らが数学の魔法で作り出した錬金術のような金融商品(MBSやCDO※)の象徴でもありました。
※
MBS(Mortgage-Backed Securities)
(本来、住宅ローンというのは「家を買った一般の人間」と「お金を貸した普通の銀行」の1対1の約束ですわよね。投資銀行たちは、何万もの住宅ローンの借用書をかき集め、それを一つの大きな箱にギュッと詰め込んで、バラバラに小分けした新しい証券として売り出したのですわ。
これなら、もし1人が夜逃げして借金を踏み倒しても、他の何千人が真面目に返済すれば痛くも痒くもありませんわ! リスクが分散されて超安全ですの!)
CDO(Collateralized Debt Obligation)
(金融工学者たちは、誰も買いたがらない売れ残りのクズ証券をさらに大量にかき集め、もう一度一つの箱にぶち込みましたわ。
クズとクズを極限まで混ぜ合わせたら、『同時に全員が破産することなんて確率的にあり得ない』という完璧な計算結果が出ました! だからこの商品は最高格付け(AAA)の超安全な証券に生まれ変わったのですわ)
まばゆい光を放つその建物を遠巻きに見上げながら、リンさんとユーロさんは顔をしかめて文句を言います。
「まあ……なんて悪趣味で品のない建物ですの! 伝統ある我がポンドの歴史に照らし合わせても、あんな不自然な輝き、足元が怪しすぎますわ!」
「本当に……。あんな眩しいものを見せつけられたら、うちのヨーロッパの家族たちが『儲かりそうだから自分も欲しい』って、また家計簿の裏で買い漁りに走ってしまうわ……っ、うう、見てるだけで胃が痛くなってきた……」
しかし、摩天楼の主たち――投資銀行のギャンブラーたちは、そんな警告など意にも介さず、世界中の投資家たちに向かって高らかに、悪魔の誘惑の言葉を叫び続けます。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! アメリカの住宅価格は絶対に下がらない! だからこの黄金の摩天楼は永遠に輝き、君たちに富を生み続けるんだ!」
ですが、その華やかな言葉の裏で行われていたのは、あまりにも恐ろしい悪魔の勧誘でした。
住宅業者たちは、本来なら安定した収入がなく、家など到底買えるはずのない人々(サブプライム層)の元へ向かい、甘い言葉を囁きまくったのです。
「お金がない? 過去に借金を返せなかった? 大丈夫、大丈夫! 最初の数年は超低金利のボーナス期間にしてあげるからさ! 数年後に家の値打ちが上がったら、その家を担保にして、また別の安い金利に借り換えればいいだけだよ」
そんな無茶苦茶な理屈で、返せる見込みのない人々に家を売り、大量の泥のローンが作られていました。
普通なら、そんな返ってこないリスクの高い借金は誰も欲しがりません。しかし、摩天楼の最上階にいる投資銀行の魔法使いたちは違います。
彼らは、この「いつ崩れるか分からない泥のローン」を数千、数万個もかき集めると、凡人には理解できない複雑な数式でブレンドしたのでした。
するとどうでしょう。泥を混ぜ合わせたはずの怪しい塊が、魔法のフィルターを通した瞬間に、なぜかAAA(最高格付け)にピカピカと輝く黄金のレンガへと加工されてしまったのです。
「見てよ、ボクの完璧なアクセル操作が生み出した奇跡のエンパイアを。最先端の金融魔法さ!」
フェドさんが自慢げに微笑む中、投資銀行たちはその泥でできた黄金のレンガを嬉々として積み上げ、黄金の摩天楼をさらに高く、さらに危険な高さへと積み上げていくのだった。
「フェ、フェドさん……っ! お願いですからこれを見てくださいぃ!」
日銀ちゃんが、高名な経済学者たちの真っ赤な警告書やデータを両手に山ほど抱え、ガタガタと小刻みに震えながらフェドさんの前に差し出します。
「ほら、このレポートです! 『絶対に下がらない住宅価格なんて存在しない』って、頭のいい人間の学者たちも強く警告しています! 今すぐその摩天楼の建設を止めないと、本当に、本当にとりかえしのつかないことに……!」
「ハハッ、また始まった。日銀ちゃんは本当に心配性だなあ」
フェドさんは12台のモニターから目を離しもしません。
「ボクのシミュレーションにはね、そんな古いデータは入っていないんだよ。確かに多少の過熱はあるかもしれないけれど、現代の高度な金融工学の魔法があればリスクは完全に分散されているから大丈夫さ。ボクの数字を疑うのかい?」
そこへ、ドレスの裾を揺らしたリンさんが足早に歩み寄ってきました。その表情はいつになく険しいものです。
「フェドさん、わたくしの下にも、行儀の良い普通銀行の者たちからおぞましい報告が上がってきていますわ。貸し出しの現場が無法地帯と化し、収入のない者にまで黄金のレンガを売りつけていますの!?」
パニックの一歩手前で声を鋭くするリンさんでしたが、フェドさんが答える前に、背後のドアが開いて家主たちが顔を出します。
「おいおいフェド、そのお堅いお嬢さんたちの言うことなんて気にするなよ! 貧しい人でも自分のマイホームが持てるなんて、我が国にとってこれ以上ない夢の政策じゃないか! 景気に水を差すような警告はすべてシャットアウトだ!」
家主たちの呑気なノイズ、フェドさんは小さく耳鳴りを感じながらも、フンと鼻で笑ってリンさんたちの訴えを退けます。
「……聞いたろ? これが民意ってやつさ。ボクは完璧にコントロールできている。ノイズは無視して、もっと高く積み上げよう」
中央銀行のトップたちがそんな押し問答を続けている頃――。
黄金の摩天楼の遥か足元、薄暗い裏路地では、一部の異端児と呼ばれる天才投資家さんが動いていた。
「……おいおい、正気かよ」
医師免許を持つ天才投資家さんは、投資銀行の魔法使いがブレンドした最高格付け(AAA)の黄金のレンガを一つ、ナイフでガリガリと削り、その中身を解剖していました。
「最高格付けだと? 笑わせるな。ブレンドの数式で誤魔化しているだけで、中身は数日後には自己破産するような人間のただのゴミローンの塊じゃないか。こんな泥を積み上げた摩天楼が、いつまでも持つわけがない」
この天才投資家さんをはじめとする数人のヘッジファンドの男たちは、摩天楼がいずれ自重で破滅的に崩壊することに、自らの全財産を賭ける(ショートする)手続きを淡々と進めていました。
「あいつらは狂った。アメリカの繁栄に逆賭けするなんて、自殺志願者か?」
周囲の投資家たちは彼らを奇人変人扱いし、指をさして嘲笑います。
2000年代半ば。世界中が黄金の輝きに目を眩まされ、泥の中身を見ようとする者は誰もいませんでした。フェドの自信に満ちた微笑みの裏で、摩天楼の土台は、一歩ずつ、確実に限界へと近づいていたのです。




