第7話 リーマンショック その1
これからリーマンショック→ユーロ危機→スイスショックの三連弾です
「ボクのシミュレーション通りに世界が動く。……うん、やっぱりこのゲームはボクの勝ちだね」
薄暗いコントロールルームで、連邦準備制度――フェドさんは不敵な笑みを浮かべていました。
彼女の視線の先には、壁一面を埋め尽くす12台の巨大なモニター。そこには世界中の金利、株価、そして目まぐるしく変化する経済データがリアルタイムで映し出されています。
部屋の中央には世界地図を模した巨大なタクティクス・ボードが置かれ、フェドは手元にあるドルの駒をチェスのように滑らせます。
1990年代前半。長きにわたる冷戦がソ連の崩壊という形で幕を閉じ、世界中の市場はアメリカ、すなわちフェドさんが支配するドルを中心に回り始めていました。
世界は今や、彼女の完璧な予測シミュレーションのゲーム盤に過ぎません。
コンコン、と部屋のドアがノックされる。入ってきたのは、フェドさんの家主であるアメリカの政治家でした。
「やあフェド、調子はどうだい? 世間じゃあ、大変な噂で持ち切りだよ。例のIT技術ってやつが、この国の経済を永遠に変えてしまうかもしれないってね」
「ボクのシミュレーションの邪魔をしないでくれるかな。耳鳴りがする」
フェドは面倒そうに前髪を払いますが、家主(政治家)は興奮を隠せない様子で捲し立てます。
「いいや、聞いてくれ! 『ニューエコノミー』さ! インターネットや最先端のIT技術の進化によって、我が国の生産性は爆発的に上がり続ける。つまりこれからは、あの恐ろしいインフレ・ゾンビに襲われる恐怖から完全に解放され、我が国は永遠に右肩上がりで成長し続けるってわけさ! 素晴らしいと思わないかい?」
政治家の言葉に、フェドさんは鼻で笑います。
「永遠の成長? 人間ってやつは、すぐに都合の良い夢を見たがる。……まあいいさ。たとえインフレ・ゾンビが湧いて出たとしても、ボクの完璧なレバー操作があれば、奴らの脳天を正確に撃ち抜いて完全にコントロールできる。これからの時代はボクのデータがすべてを支配するんだ、君たちの選挙の都合じゃなくてね」
家主が満足そうに部屋を出ていくと、入れ替わるように、部屋の隅の影から一人の女性が静かに歩み寄ってきます。
格式高いドレスに身を包み、伝統こそすべてと信じる保守派のイングランド銀行のリンさんでした。
「相変わらず、自信に満ちあふれた不遜な態度ですわね、フェドさん」
リンさんは扇子で口元を隠しながら、フェドさんの12台のモニターを一瞥します。
「世界で初めて本格的に紙幣を流通させた通貨革新のトップ走者として、わたくし、一言言わせていただきますわ。永遠に経済が成長し続けるなどというニューエコノミー論、あまりにもおこがましいですの。伝統的な経済の法則を甘く見ないことですわ。調子に乗ってアクセルを踏み続ければ、取り返しのつかないインフレ・ゾンビの群れを呼び寄せることになりますわよ?」
「ハハッ、古いね、リンさん」
フェドさんは肩をすくめ、手元の金利レバーを愛おしそうになぞりながら、リンさんを鼻で笑います。
「君たちのポンドが世界を支配していた大英帝国の時代はもう終わりさ。これからはボクの時代。最先端のシミュレーションと合理主義が、世界を新時代へ導くんだ。インフレ・ゾンビなんて、ボクの敵じゃないさ」
自信に満ちたフェドさんの瞳には、まばゆく輝くドルの未来だけが映っていました。
1990年代後半――世界は、フェドさんの言葉通り新たな技術の熱狂に包まれていました。
インターネットという魔法の糸が世界を繋ぎ、名前にドットコムとさえ付けば、中身のない企業の株価までが実態を無視して爆発的に跳ね上がります。まさに、新時代のお祭り(ITバブル)の開幕でした。
「ひゃっほう! 行け行け、もっといっちゃえ!」
アメリカ市場の大騒ぎを12台のモニターで眺めながら、フェドさんはますます上機嫌でドルの駒を躍らせていました。
その賑やかなコントロールルームの片隅で、ガタガタと音を立てて震えている影がありました。日本銀行――日銀ちゃんでした。
彼女は、つい数年前に自分の国のお祭り(平成バブル)で浮かれすぎて大失敗し、すべてが崩壊した深いトラウマを負ったばかりです。目の前で繰り広げられるアメリカの熱狂は、彼女にとって恐怖そのものでした。
「フ、フェドさん……! これ、お祭りです、危ないお祭りですぅ……!」
日銀ちゃんは顔面蒼白になり、涙目でフェドさんの袖を引っ張ります。
「市場が熱狂し始めてます! 早く金利レバーを引いてお祭りを止めないと、大変なことに……建物が崩れて、みんなドロドロのデフレ・スライムに飲み込まれちゃいます!」
「ハハッ、大袈裟だなあ日銀ちゃん。君はちょっとお祭りで失敗したからってビビりすぎだよ。ボクのシミュレーションの邪魔だから、そこでお茶でもすすっててよ」
フェドさんは、政治家(家主)からの景気に水を差すなというノイズを嫌がり、ブレーキレバーを引くのを躊躇して鼻で笑います。
そんな二人のやり取りを、机に並んだ大量の家計簿を前に、頭を抱えて見ていたのが欧州中央銀行のユーロさんでした。
20カ国以上の大家族の家計を一手に引き受ける彼女は、すでに慢性の胃痛に悩まされていましたが、フェドの次の不穏な動きを察知して、さらに顔を歪めます。
「あの、フェドさん……お祭りに浮かれるのは勝手だけど、それ以上に気になる噂を耳にしたわ。まさか、あの『グラス・スティーガル法』を廃止するつもりじゃないでしょうね……?」
「お、よく知ってるね、ユーロさん。その通りさ。1999年をもって、あの古いルールは撤廃することにしたんだ」
フェドさんは事も無げに言います。
グラス・スティーガル法。それは1930年代の大恐慌以来、アメリカが頑なに守ってきた聖域です。
堅実でお堅い銀行(普通銀行)と、リスクを取るド派手な投資銀行(証券会社)を法律で厳しく分けることで、人々の安全なお金が危険なギャンブルに使われないようにする絶対の境界線です。
それを、もう時代遅れだと一蹴したのです。これでは、普通の銀行が集めた安全なお金を使って、投資銀行がもっと危険でド派手なギャンブルを行えるようになってしまいます。
「狂気の沙汰ですわ……!」
足元から忍び寄る不穏な気配に、リンさんがお嬢様口調を崩しかけてパニックになります。ユーロさんも、市販の胃薬の瓶を握りしめます。
「ただでさえ家族が多くて家計簿が合わないのに、アメリカがそんな危険なことを始めたら、うちの子たちまで真似してギャンブルを始めてしまうわ……っ、うう、胃が…」
「みんな古いよ。そんなに怯えてたら、新時代のスピードについて来られないよ?」
他の中央銀行たちの心配をよそに、フェドさんはコントロールルームの奥にある、実家の屋敷の巨大な主門へと歩み寄ります。
そこは、海外からの怪しいお金の出入りを制限する資本規制という名の、固く閉ざされた防壁でした。
フェドさんは不敵に微笑むと、その巨大な扉の鍵をすべて外します。
「時代は自由競争さ。これからは誰もボクの邪魔をさせない。さあ、開けゴマ!」
ギギギ……と音を立てて、屋敷の扉が全開になります。
規制が緩和され、世界中のありとあらゆる欲望のマネーが、アメリカの市場へ向けて制限なしに流れ込む大門が開かれます。
この時、フェドさんが全開にした扉と、市場に溢れた莫大なお金が合体した結果、投資銀行たちは次なる恐ろしいギャンブルの獲物を探し始めることになります。
――そして、約束されたはずの永遠の繁栄は、あまりにもあっけなく終わりを迎えました。
2000年。あれほどまばゆく輝いていたITバブルのお祭りは、一夜にして弾け飛びます。名まえばかりのドットコム企業の株価は坂道を転げ落ちるように急降下していきます。
「ほ、ほら見なさいですぅぅぅーー!!」
その大崩壊をモニターで目撃した日銀ちゃんは、自分のトラウマがフラッシュバックし、頭から湯気を出して文字通り白目をむき、泡を吹いてその場にひっくり返ります。
追い打ちをかけるように2001年、誰も予想だにしなかった同時多発テロがアメリカを直撃します。物理的にも精神的にも、アメリカ経済は未曾有のショックに突き落とされています。
「フェドさん! アメリカの市場が完全にパニックに陥っていますわ!」
「大変だわ、うちの家族たちも動揺して、ヨーロッパの市場まで大荒れよ! 胃薬、胃薬を誰か……!」
リンさん叫び、ユーロさんも髪を振り乱して慌てふためきます。コントロールルームは世界中の悲鳴で満たされていました。
しかし、そんな絶望的な状況下でも、12台のモニターの前に立つフェドさんの瞳から自信が消えることはなかった。
それどころか、家主たちから「早く景気を何とかしろ!」と五月蝿く鳴り響くノイズを遮断するように、彼女は不敵な笑みを浮かべます。
「……ハハッ、みんな落ち着きなよ。ボクにコントロールできないゲームなんて存在しないさ。ちょっとお祭りの種類が変わるだけさ」
フェドはそう呟くと、迷うことなく床に据え付けられたアクセルペダル(低金利政策)に足をかけます。
そして、床が突き抜けて壊れるほどの力で、限界まで一気にペダルを踏み込みます。
ゴゴゴゴゴ……! とコントロールルームが地鳴りを立てます。
フェドが限界突破で踏み込み続けたアクセルにより、中央銀行の金庫からは、見たこともない規模のドル紙幣の濁流がこれでもかと市場へ向けて解き放たれます。
市場には、行き場を失ったフェドさんのドル紙幣が津波のように溢れかえります。
このジャブジャブに溢れかえった大量のお金と、1999年にフェドさんが自ら全開にしておいた何でもアリの自由競争の扉が合体した時、恐ろしい化学反応が起きました。
「……さあ、ITのお祭りは終わりだ。次のみんなの遊び場はどこにしようか?」
強欲な投資家やド派手な投資銀行たちは、ギラギラとした目を光らせ、溢れたマネーを注ぎ込むための新たなお祭り会場を探し始めます。
そして、彼らの視線がピタリと止まったのは、アメリカの一般市民たちが暮らす住宅市場でした。
これこそが、のちに最高格付けの泥のレンガで作られる、あのまばゆくも危うい黄金の摩天楼の建設が始まる瞬間でした。




