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第9話 リーマンショック その3



 黄金の摩天楼が天高くそびえ立ち、世界中のマネーを吸い込んで光り輝いていた2004年頃。


 フェドさんが限界まで強く踏み込みすぎたアクセルペダルの摩擦熱から、恐ろしい副作用が生まれつつありました。





――ウウゥゥ……。


 コントロールルームの12台のモニターの隅々から、人々の生活を蝕み、放置すれば無限に増殖する最悪の怪物、インフレ・ゾンビがじわじわと湧き出し始めたのでした。



「……チッ、インフレ・ゾンビか。ちょっと湧くのが早かったかな」


 データを監視していたフェドさんは、不機嫌そうに舌打ちをしました。



「仕方ない。いつものシミュレーション通り、少しスピードを落とすよ」


 フェドにとっては、それは毎日のゲームプレイの中で行う、ほんのちょっとした調整に過ぎませんでした。彼女は机の横に据え付けられた重厚なブレーキレバー(利上げ)に手をかけると、クイッと手前に引き始めます。


 一度だけではありません。彼女はその後も、ゾンビの動きを抑え込むために、何度も、何度も、淡々とそのレバーを引き続けます。



 金利が、じわじわと上がっていきます。それはフェドさんにとっては、モニターの数字を数パーセント動かすだけの、冷徹で合理的な作業でした。





しかし――。




 その小さなレバー操作から放たれた冷気は、彼女のコントロールルームを飛び出し、あのまばゆい黄金の摩天楼の足元へと直撃します。



パキパキパキ……!


 不気味な凍結音が、ニューヨークの地下から響き渡ります。


 ブレーキレバーが引かれた(金利が上がった)ことで、サブプライムローンを借りていた人々の特約期間――最初の数年は超低金利という悪魔のボーナスステージが、一斉に終了したのでした。


 毎月の返済額は倍以上に跳ね上がり、家を追われた人々の悲鳴が街に溢れかえります。




「話が違うじゃないか!」と人々が家を売り払おうとした時には、もうすべてが遅かったのです。


 誰も家を買わなくなり、絶対に下がらないはずだった住宅価格が、真っ逆さまに暴落を始めます。


 その瞬間、黄金の摩天楼を支えていた泥のレンガ(サブプライムローン)の土台が、カチコチに凍りつき、限界を迎えてガラガラと音を立てて崩れ始めました。





「え……?」


 フェドさんが何かの異変に気づき、初めてモニターから目を離して足元を見ました。


「フェ、フェドさん! ほら言わんこっちゃありませんわ!! 伝統的な法則を無視して泥の上に建てたから、あなたの一度目のブレーキの衝撃だけで、建物全体にありえないほどのひび割れが走っていますわよ!」


 リンさんが建物の激しい軋みにガタガタと震えながら叫びます。




「う、嘘……ボクのシミュレーションでは、AAAの黄金のレンガ(MBSやCDO)がショックをすべて吸収して、分散してくれるはずだったのに……! なんで、レンガの中身が全部ただの泥に戻って崩れていくんだい……!?」


 フェドさんの顔から、生まれて初めて自信の色が消え、驚愕に染まっていきます。


 彼女がちょっとしたゲームのつもりで引いたブレーキレバー。それこそが、世界経済を大混乱の地獄へと叩き落とす、大崩壊の引き金となったのです。





 


 黄金の摩天楼の土台が凍りつき、ひび割れていくアメリカの惨状を、ユーロさんは震えながら見つめていました。しかし、これは対岸の火事では済まなかったのです。



「うちは大丈夫よね……?」


 ユーロさんが恐る恐る振り返ると、そこには自分の家族の一人である、妖精のフランスくんがいました。


 フランスくんは頭から湯気を出し、白目をむいて文字通り泡を吹いて倒れ込んでいます。


 その泥だらけの手元には、ピカピカのメッキが剥がれ落ち、中からドロドロのクズ泥が露出したかつて黄金だったレンガが握りしめられていました。




 これこそが、2007年8月――本家アメリカよりも先に欧州を絶望させた【パリバ・ショック】の瞬間でした。


 フランスの大手銀行BNPパリバをはじめとする彼女の身内たちは、フェドさんの魔法で作られたあのレンガ(MBSやCDO)を絶対に安全で儲かる最高格付けの宝物だと完全に信じ込み、ユーロさんの目を盗んで、家計簿の裏で大量に買い込んでいたのです。




「ユーロさん……このレンガ、急にただの泥に戻っちゃって……誰も買い取ってくれないの。もうファンドの払い戻しができないよぉ……」


 泡を吹きながら泣きつくフランスくんを見て、ユーロさんは目の前が真っ暗になりました。


 しかし、ユーロさんは必死に自分に言い聞かせます。




「大丈夫、大丈夫よ。フランスくんは少しお洒落でミーハーなところがあるから騙されただけ。うちには、あの真面目で堅実な、貯金が大好きな長男のドイツくんがいるもの。ドイツくんさえ無事なら、この危機だって乗り越えられるわ……!」


 ユーロさんは、いつも部屋の隅で黙々と機械いじりをしている堅実な妖精、ドイツくんに縋るような思いで声をかけます。



「ねえ、ドイツくん? あなたはあの怪しいアメリカのギャンブルなんて、手を出していないわよね……?」






ガタガタガタガタ……!



 手応えのない沈黙の代わりに返ってきたのは、部屋が小刻みに揺れるほどの激しい振動でした。


 ゆっくりと振り返ったドイツくんは、いつもの冷静沈着な表情を完全に失い、顔面を蒼白にして、生まれたての小鹿のように凄まじく震えていました。





「ド、ドイツくん……?」


 ユーロさんの視線が、ドイツくんの手元へと動く。


 そこには、ドイツがお堅い地方の銀行(州立銀行など)の引き出しの奥底に、これでもかと几帳面な山にして隠し持っていた、フランスの比ではない大量の泥のレンガが積み上がっていました。


 堅実なはずのドイツくんまでもが、絶対に元本が保証されて、しかも高い利回りが得られる夢の安全資産というAAAの肩書きに目が眩み、内緒でお金を注ぎ込んでいたのです。




「……す、すまない、ユーロさん……。まさか、これが全部ゴミだったなんて、僕の計算には……入っていなかったんだ……」


「みんなして何買い込んでるのよぉぉぉーーーー!! 家計簿の桁が、桁がもう合わないわーーー!!」


 欧州の二大巨頭が同時に致命傷を負っていたという最悪の事態でした。






――そして2008年9月15日、運命の審判の日が訪れます。



 ニューヨークの空にそびえ立つ黄金の摩天楼。その最上階で、世界中の誰よりも派手にギャンブルを繰り返していた巨大投資銀行リーマン・ブラザーズが、ついに限界を迎えました。


 彼らの足元に積み上がっていたのは、メッキが剥がれ落ちてただのゴミと化した泥のレンガ(MBSやCDO)の巨大な山でした。


 抱え込んだ借金はあまりにも膨大で、もはや自力で支えることは不可能です。リーマン・ブラザーズは完全に破産しました。





「フェ、フェドさん……! リーマンが倒れます! 今すぐ裏からドル紙幣を注ぎ込んで助けてあげてよぉ!」


 コントロールルームのモニターを見つめるフェドさんの袖を、日銀ちゃんが涙目で引っ張ります。


 しかし、いつもならすぐさまアクセルペダルを踏み込むはずのフェドさんは、苦悶の表情を浮かべて頭を押さえていた。





(自業自得のギャンブル野郎を、ボクたちの税金で救うな!)

(次の選挙のコトを考えて行動しろ! これ以上勝手な救済は許さないぞ!)


 数ヶ月前、フェドさんは別の倒れかけた投資銀行を、裏からドル紙幣の弾を注ぎ込んで極秘裏に救っていました。


 ですが、その結果として、家主である政治家や国民から激しい非難を浴びることになってしまったのです。




 選挙のことしか頭にない政治家たちの身勝手な怒号が、大音量のノイズとなってフェドさんの耳の奥で激しく鳴り響きます。



「くっ……あ、頭が、耳鳴りがして……数字が、よく見えない……!」


 独立性を重んじるフェドさんにとって、政治的な要求によるノイズは最大の弱点です。耳鳴りのせいで思考が完全に鈍り、彼女の冷徹な合理的シミュレーションが停止していきます。



「……もう、うるさいな政治家どもは。ボクは数字を見てるんだ、君たちの選挙の都合を見てるんじゃない……!」




 フェドさんは耳を塞ぎ、冷たい、しかし投げやりな視線をリーマン・ブラザーズへと向けます。


「……今回は救わない。甘えたギャンブラーにはお仕置きが必要だ。見せしめだよ。……自己責任さ。リーマン、君はここまでだ」


 フェドさんは静かに、リーマン・ブラザーズを見捨てる選択をしました。


――だが、これこそがフェドさんの歴史上最大の大誤算でした。




 リーマン・ブラザーズという、摩天楼を支えるあまりにも巨大な柱がへし折れた瞬間、世界のパワーバランスは完全に崩壊しました。


 それはまるで、黄金の摩天楼の最上階をダイナマイトで完全に爆破したかのような大爆発だったのです。




ズガガガガガガ!!


「な……ッ!?」


フェドさんが目を見開いた時には、もう遅かったのです。崩壊の衝撃波はアメリカ国内に留まらず、完全に制御を失った爆風となって、地鳴りを立てながら世界中の金融市場へ向けて真っ逆さまに崩落し始めたのです。



  


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