第4話 パンデミックとインフレ!その4
「……一時的、だと仰いましたわね、フェドさん」
リンの声は冷たく、地下金庫の冷気よりも鋭く響きました。
画面の向こうでは、フェドさんが狂ったようにキーボードを叩いています。12台のモニターには、制御不能となったインフレ・ゾンビが各国の家計を食い破るグラフが、真っ赤な警告灯とともに映し出されていました。
「計算が合わない……! 物流の停滞も、エネルギー価格の暴騰も、ボクのシミュレーションの範囲外だ! こんなの、論理的じゃない!」
「データばかり見ているから、人々の痛みを見落とすのですわ。インフレ・ゾンビはもう、一時的な風邪などではありません。わたくしたちが市場に流し込んだ魔力が生んだ、怪物です!」
リンは震える手で、大切にしていたティーカップをソーサーに置きました。カチャリ、という硬質な音が、彼女の覚悟を告げます。
「認めなさい、フェドさん。君の完璧な再起動は失敗したのよ」
胃痛に耐えかねたユーロさんが、苦渋に満ちた表情で画面を睨みます。
「……分かっているよ。ボクが、ボクの手で終わらせればいいんだろ!」
フェドさんが、血走った目で自身の巨大なレバーを掴みました。それは、つい先日まで「アクセル」全開で固定されていたレバーです。
「ボクの言葉一つで世界が動く……なら、絶望させてやるよ。劇薬(超高速利上げ)の投与だ! これでゾンビもろとも、市場を凍らせてやる!」
ドォォォォン!!
フェドさんが、ありえないほどの力でレバーを「ブレーキ」方向へ引き戻しました。
0.25%……0.5%……いや、0.75%!
通常では考えられない劇薬の連続投入。ドルの金利が跳ね上がると同時に、世界のマネーが悲鳴を上げながらアメリカへと逆流を始めました。
その衝撃波は、日銀ちゃんの円を叩き売り、ユーロさんの家族をさらなる苦境に陥れます。
「っ……なんという乱暴な……! ですが、わたくしも、ここで立ち止まるわけには参りません」
リンは足元から伝わる、今までで最大級の軋みを全身で受け止めました。
利上げは家計を圧迫し、政府を苦しめ、リン自身への批判も強まるでしょう。それでも、通貨の価値を守ることこそが、世界最古の中央銀行としての聖域を守ること。
「見ていなさい、フェドさん。乱暴な力任せではなく、伝統と信頼によるブレーキを、わたくしがお見せいたしますわ」
リンは、自身のレバーを握りしめました。
指先から伝わる熱い震動。それは、インフレ・ゾンビとの、長く苦しい長期戦の始まりを告げる合図でした。
「イングランド銀行、政策金利の引き上げを宣言します。……さあ、ゾンビたち。わたくしの秩序で、大人しくしていただきますわよ」
フェドさんが力任せにブレーキレバーを引いた衝撃は、瞬時に世界中のモニターを真っ赤に染め上げました。
「うっ……! き、きたわ……。いつものあの方の身勝手が……っ!」
画面の中で、ユーロさんが自身の腹部を抱えてうずくまりました。
フェドさんの利上げによってドルの価値が爆上がりし、相対的にユーロの価値が下落。
それが輸入コストを跳ね上げ、彼女が抱える20カ国の大家族の食卓を直撃したのです。
「貯金好きのドイツおじさんは『インフレを今すぐ殺せ』って怒鳴るし、南欧の子たちは『金利を上げたら家計が破産する』って泣きついてくる……。ああ、もう、胃が、胃がキリキリするわ……!」
ユーロさんは脂汗を浮かべながら、震える手で自身のレバーを掴みました。
家族の中の誰を救っても、誰かが傷つく。そんな絶望的なバランスシートを抱えながら、彼女は決然と顔を上げました。
「……背に腹は代えられないわ! 家族の絆がバラバラになる前に、わたくしも、ブレーキを引くわよ!」
彼女が苦悶の表情でレバーを引き上げると、欧州全域に厳しい冷気が流れ込みました。それは家族を守るための、避けて通れない痛みの選択でした。
一方、その狂乱の中で、一人だけ彫像のように固まっている少女がいました。
「……動かせません。わたくしだけ、このレバーを動かすことができません……」
日銀ちゃんは、涙目で自身の金利レバーを握りしめたまま、立ち尽くしていました。
世界中がインフレ・ゾンビを殺すためにブレーキ(利上げ)を踏んでいる中、日本だけは長く続いたデフレの冬からようやく解け始めたばかりの氷を、必死に守らなければならなかったのです。
「今ブレーキを引いたら、ようやく灯った景気の火が消えてしまいます。でも、引かなければ……」
画面上の円の価値を示すチャートが、滝のように滑り落ちていきます。
世界中の投資家が、金利のつかない円を捨て、フェドさんのドルへと一斉に群がっているのです。
「歴史的な、円安……。わたくし一人だけ、別の世界に取り残されているみたいです……」
孤立。
フェドさんの傲慢な笑みも、ユーロさんの悲痛な決断も、今の彼女には届きません。
吹き荒れる円安の嵐の中で、日銀ちゃんはただ一人、デフレのトラウマと市場の圧力に挟まれ、折れそうな心でレバーにしがみついていることしかできませんでした。
狂乱の嵐は、ひとまずの静寂を迎えました。
フェドさんが力任せに振り抜いたブレーキの衝撃は世界を凍りつかせ、あのおぞましいインフレ・ゾンビの勢いをようやく削ぎ落としたのです。
再び、スレッドニードル通りの地下金庫。
リンさんは、乱れた髪を整え、いつものように静かに金塊を磨いていました。
「……ようやく、一息つけますわね」
手元には、淹れたての温かいアールグレイ。
モニターの中では、激しい戦いを終えた各国の番人たちが、それぞれの日常に戻ろうとしていました。
「ああ、胃が……。ようやく痛みが引いてきたと思ったら、今度は不況の足音が聞こえる気がするわ……」
ユーロさんは新たな胃薬の瓶を開けながら、力なく笑いました。
「わ、わたしも……。円安の嵐はまだ止みませんが、まずは足元の灯を絶やさないように頑張ります……」
日銀ちゃんは、まだ震える手で自身のレバーを大切そうに抱えています。
そしてフェドさんは、相変わらず12台のモニターに囲まれ、何事もなかったかのように新しいシミュレーションに没頭していました。
「これで一安心だね。ボクの計算によれば、インフレはもう死んだ。次はどうやってこの冷え切った市場を再起動するか、その数字を追いかけるだけだよ」
フェドさんの傲慢なまでの自信。
リンさんはそれを見届けると、そっと通信を切りました。
完璧な静寂が地下室に戻ります。
しかし、リンさんは気づいていました。一度解き放たれた過剰な資金と、その代償として投与された劇薬の高金利が、世界のあちこちで目に見えないひび割れを作っていることに。
リンさんは金塊を磨く手を止め、自身の足元を見つめました。
今は、軋みは聞こえません。
ですが、彼女の鋭敏な感覚は、地表のどこかで新たな歪みが、次の悲鳴を上げる準備をしているのを確かに捉えていました。
「……フェドさん。数字には映らなくても、この床はまだ、以前と同じようには響いてくれませんのよ」
彼女は冷めないうちに紅茶を一口啜り、優雅に、けれどどこか寂しげに微笑みました。
「さて……次はどなたが、わたくしの教育を必要となさるかしら?」
女王の銀行の夜は、まだ明けたばかりでした。




