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第5話 ポンド危機1992(前編)




 ロンドン、シティの一角。歴史の重みを感じさせるイングランド銀行の応接室では、リンさんが不機嫌そうにティーカップを置いていました。


 窓の外では、1970年代から続く変動相場制という名の荒波が吹き荒れ、各国の通貨が価値を競い合って乱高下しています。




 「……嫌ですわ。最近の通貨市場には、規律というものが欠けておりますのね」

 

 リンさんはため息をつきました。かつて世界中が金という共通の価値で結ばれていた金本位制の時代、リンさんは女王として君臨していました。


 しかし、今は誰もが自分の都合で通貨を売り買いし、価値は落ち着きません。




 そこへ、一通の招待状が届きます。差出人はドイツさん。経済の安定感では今やリンさんを凌ぐ、質実剛健な実力者です。



「『欧州通貨制度(ERM)』……社交界の設立、ですの?」



 招待状には、こう記されていました。




「荒れ狂う市場から離れ、我々欧州の通貨だけで手を取り合い、価値を一定に保つ高潔な庭園を作ろうではないか」


 リンさんは鼻で笑います。


「ふん。わたくしがドイツさんたちの歩幅に合わせて歩くなんて、おかしな話ですわ。ポンドはポンドの誇りがありますもの。お断りしてよ」


 しかし、リンさんの背後では、執事が青ざめた顔で家計簿を差し出していました。


 イギリス国内では物価が跳ね上がり、国民の不満は爆発寸前。伝統あるイングランド銀行の威厳も、インフレという病の前では形無しでした。



「……インフレを治すには、ドイツさんのような真面目な規律を取り入れるしかない……。そうおっしゃるの?」


 リンさんは鏡を見つめました。今の自分は、かつての美しさを失いかけています。もう一度、規律正しく気品ある姿を取り戻すためには、この「ERM」という厳しい社交界に入り、自分を律するしかない。




「分かりましたわ。入りましょう、その社交界へ」


 リンさんは、ドイツさんが決めた為替の基準値という名の、非常に窮屈なコルセットを手に取りました。


「ただし、わたくしはイングランド銀行。一度決めたルールは、何があっても守り通してみせますわ」




 1990年、ロンドン。リンさんは鏡の前で、ドイツさんから贈られた「ERM」という名の特注コルセットを装着していました。


「……くっ、少し、きつすぎませんこと……?」


 このコルセットは、ポンドの価値をドイツ・マルクと連動させるための固定相場に近いシステムです。


 装着すれば、通貨の価値は安定し、インフレという名のだらしない体型は一気に矯正されます。しかしその代わり、自分の意志で景気に合わせて金利を変えることが極端に難しくなるのです。




「リンさん、本当によろしいのですか?」


 日銀ちゃんが、心配そうに駆け寄ってきました。


「イギリス国内は今、不況で顔色が悪いです。本来なら、ゆったりとした低金利にして、ゆっくり休むべき時なのに……」


 


 リンさんは、震える手でコルセットの紐をさらにきつく締め上げました。


「何を言いますの。わたくしは、かつての栄光を取り戻すと決めたのですわ。ドイツさんのように規律正しく、凛とした姿でいなければ、世界中の銀行の教育係が務まりませんもの」



 無理やり胸を張り、リンさんは社交界のダンスホールへと踏み出しました。


 そこでは、ドイツ・マルクが完璧なリズムでワルツを踊っています。リンさんの仕事は、自分の体調がどうあれ、ドイツさんの歩幅にミリ単位で合わせて踊り続けること。



「さあ、ドイツさん。わたくしのステップをご覧になって」


 冷や汗が流れます。本当は膝が笑っています。景気が悪いのに高い金利を維持し続けるのは、まるで猛暑の中で厚手のドレスを着て全力疾走するような苦行でした。




そこへ、部屋の隅で12台のモニターを眺めていたフェドさんが、コーラを片手に声をかけてきました。


「やあリンさん。ずいぶん窮屈そうな格好だね。ボクならそんな不自由な服、1秒で脱ぎ捨てるけどな。君、数字を見てないだろ? 君の国の景気、もう悲鳴を上げてるよ」



「……うるさいですわ! これは伝統と信頼のための我慢ですの!」



リンさんは言い返しましたが、その時、床から「ミシミシ……」という不穏な音が響きました。

 


 それは、リンさんの無理なステップが、ダンスホールの床、経済の土台に限界を超えた負荷をかけている合図でした。


 ホールの暗がりに、鋭い眼光が光ります。ジョージ・ソロスです。彼は、リンさんのドレスの裾が、無理なステップのせいで少しずつ綻び始めているのを、冷徹に見逃しませんでした。





 ダンスホールの喧騒から離れた暗がりに、冷徹な計算機のような瞳を持った男が立っていました。ジョン・ソロンズ(仮名。有名なあの人よ)。彼は、リンさんが誇らしげに振る舞いながらも、その足元がガタガタに震えていることを見抜いていました。



「……無理をしているね、リンさん」


ソロスは手元の端末を叩き、ポンドの実力と今の価格の差を冷酷に弾き出します。




「イギリスの景気は真っ赤な顔をして倒れかけているのに、君はドイツさんに合わせるために無理やり高金利のコルセットを締めている。そんな不自然な姿が、長く持つはずがない」


 彼は確信していました。リンさんの伝統という名の鎧は、今やただの重荷であり、隙間だらけであることを。




 その夜、イングランド銀行の深い地下金庫。

リンさんは、癒やしの時間である金塊磨きに精を出していました。


 布で丁寧に金を拭い、並びを整える。そうすることで、日中のダンスホールでの屈辱を忘れようとしていたのです。



しかし、静寂を破る音が響きました。


「ギィ……ギギィ……」


 リンさんの手が止まります。顔から血の気が引き、瞳が大きく見開かれました。




「……この音……。まさか、また下水道から侵入者が……!?」


 かつて、修理工に金庫の真下まで忍び込まれた時の恐怖が蘇ります。しかし、今回の軋みは物理的なものではありませんでした。


 それは、世界中の投資家たちが一斉にポンドを売り始めたことで、ポンドという通貨の土台が歪み始めた音だったのです。




「な、なんですの!? ポンドの売り注文が止まりませんわ! 誰ですの、こんな無作法な真似をするのは!」


 モニターを確認したリンさんは絶叫しました。

ソロンズ率いるファンドが、膨大な量のポンドを市場に叩きつけていたのです。


 それは空売りという名の、容赦ない攻撃。ポンドを借りては売り、借りては売り……。市場には「リンさんはもう限界だ」「ポンドは暴落する」という噂が、毒のように回っていきました。




「伝統あるわたくしのポンドを、紙クズのように扱うなんて……!」


 リンさんは金塊を握りしめ、パニックを抑えようと執事に必死に叫びました。


「マネタリー砲の準備を! 外貨準備をすべて使い切ってでも、わたくしの価値を買い支えてみせますわ!」



 しかし、闇の中からソロンズの嘲笑うような声が聞こえてくるようでした。



『君の財布の外貨準備が底をつくのが先か。ボクの売りが止まるのが先か。……さあ、勝負だ、リンさん』


 


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