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第3話 パンデミックとインフレ!その3






「……わ、わたし、どうしたら……! 街からお祭りの音が消えて、みんなが真っ暗な顔をしています。このままじゃ、またあのデフレの冬に逆戻りしてしまいます!」


 画面の隅で、日銀ちゃんが震えていました。


 彼女のトラウマは、かつて日本中が浮かれすぎたお祭り騒ぎ(バブル)とその崩壊です。それ以来、彼女は冷え込みすぎず、熱すぎずという極めて繊細な温度調節を一人で続けてきました。




「落ち着きなさい、日銀ちゃん。あなたの生真面目さは美徳ですが、今は非常時ですのよ」


 リンは優雅に、しかし断固とした口調で割って入りました。日銀ちゃんは、世界最古の銀行であるリンを姉のように慕っています。


「リンさん……。でも、わたしにはフェドさんのような強引な真似はできません。それに、ユーロさんのようにルールを破る勇気も……」


「勇気ではありませんわ。これは覚悟です。見ていらっしゃい」




 リンは、自身の目の前にある古めかしくも手入れの行き届いた金利レバーを見つめました。彼女は世界で初めて紙幣を本格流通させた誇りがあります。


 しかし、今からやろうとしているのは、その歴史においてすら禁じ手に近い規模の資金供給(QE)です。


「わたくしたち中央銀行の役割は、秩序を守ること。ですが、守るべき世界そのものが壊れてしまっては、秩序も何もありませんわ。……フェドさんのやり方は品位に欠けますけれど、市場という火を絶やさないこと一点においては、同意せざるを得ません」



 リンは深呼吸をし、シルクの手袋をはめ直しました。


「イングランド銀行、伝統の継承者として宣言します。わたくしも、市場が必要とするすべての資金を供給いたしますわ。……伝統を壊すのではなく、伝統を守るために、わたくしは今、この伝統破りを敢行します!」


 ガチリ、と重厚な手応えと共に、リンがレバーを倒しました。


 これで、アメリカ、欧州、日本、そしてイギリス。世界の主要な番人たちが、一斉にアクセルを踏み込んだことになります。


 モニター越しに、フェドさんが満足げに口角を上げました。


「賢明な判断だ、リンさん。これで世界は救われる。ボクのシミュレーションによれば、これで完璧なハッピーエンドだよ」


 しかし、リンの足元では、先ほどよりもさらに深い場所から、不気味な軋みが響いていました。


 大量に流し込まれたお金という名の魔力が、見えない場所で、おぞましい形へと変質し始めていることに、まだフェドさんすら気づいていないようでした。





 やがて、街に音が戻ってきました。


 ロックダウンの呪縛が解け、ロンドンのパブからは陽気な笑い声が響き、ニューヨークのタイムズスクエアには再び人波が溢れ出しました。


 世界中の人々が「最悪の事態は過ぎ去った」と安堵し、止まっていた時計の針を動かし始めたのです。




「……ようやく、いつもの平和な日常が戻ってきましたのね」


 地下金庫で金塊を磨きながら、リンはふっと小さく息をつきました。


 画面越しのフェドさんは、12台のモニターを眺めながら、自慢のシミュレーションゲームに没頭しています。


「言っただろう、リンさん。ボクの計算通りだ。大量のドルでショックを中和し、需要を再点火させた。これぞ完璧な経済の再起動だよ」


 フェドさんは椅子をくるりと回転させ、勝利を確信したように微笑みました。




 しかし。


 ――みり……。


 リンの手が、ピタリと止まりました。


 ――みり、りり……。




「……っ!? この音、また……!?」


 金塊を磨く布が床に落ちました。パンデミックの始まりに聞いたあの軋みが、今度は比較にならないほどの激しさで、足元から突き上げてきたのです。



「フェドさん! 止めて、すぐにその緩和を止めてくださいまし! 何かが、何かがわたくしたちの足元で膨れ上がっていますわ!」


 リンが悲鳴に近い声を上げると、フェドさんは面倒そうに片目を開けました。


「何を言っているんだい、リンさん。今のデータを見てよ。失業率は下がり、みんな買い物に出かけている。これは素晴らしい復活の兆しだ。君の勘は非合理的だよ」


「いいえ! おかしいですわ。人々が買い物をしようとしても、棚には何も並んでいない! 物流が壊れたままなのに、わたくしたちがお札を流しすぎたせいで、お金の価値が――!」



 その瞬間。


 街の風景が一変しました。


 喜び勇んで買い物に出かけた人々が、悲鳴を上げて店から逃げ出してきます。


 昨日まで1ポンドだったパンが、今日は2ポンド、明日は5ポンド……。


 人々の手にあるお札を、見えない怪物が食い荒らしていく。


 膨れ上がったお金という名の魔力が、供給不足という現実と衝突し、おぞましい異形へと姿を変えたのです。


 それは、人々の生活を、預貯金を、そして「通貨への信頼」そのものを無慈悲に噛み砕く、制御不能の化け物。




「……インフレ・ゾンビ」


 リンが震える声でその名を呼びました。


 画面の向こうで、フェドさんの12台のモニターが、一斉に警告の赤に染まり始めました。


「な……ボクのシミュレーションには、こんな変数は入っていなかったはずだ……! 一時的な現象のはずだろ!? 答えろよ!」



 自信に満ちていたフェドさんの顔から、初めて余裕が消え去りました。


 平和が戻ったはずの世界は、今度は価値の崩壊という、命を奪うウイルスよりも執拗で、逃げ場のない狂乱に飲み込まれようとしていたのです。




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