第2話 パンデミックとインフレ!その2
スレッドニードル通りの邸宅、その一室にある重厚なオーク材のデスク。リンは震える手で端末を起動し、緊急のオンライン会議室へアクセスしました。
画面が分割され、世界各地の番人たちが次々と映し出されます。
「……あ、あの……大変なことになってしまいました……」
一番に声を上げたのは、頬を青ざめさせた日銀ちゃんでした。
彼女は日本列島を襲う未曾有の事態に、いまにも泣き出しそうな表情で資料を抱え込んでいます。
「落ち着きなさい、日銀ちゃん。わたくしたちが取り乱しては、市場は本当に死んでしまいますわ」
リンは気丈に振る舞い、画面越しに教育係としての視線を送ります。続いて、頭を押さえながら現れたのはECB、みんなからユーロさんと呼ばれる女性でした。
「リンさん、こっちは地獄だわ……。20カ国の家族がみんな違うことを叫んでいるの。ある国は『助けろ』、ある国は『規律を守れ』。ああ、胃が、胃がねじ切れそう……」
欧州という巨大な大家族を背負う彼女の顔には、隠しようのない疲労が刻まれていました。
混沌とする会議室。誰もが正解を見出せず、沈黙の波が広がろうとしたその時。
『やれやれ、湿っぽいね。お葬式の会場はこちらかな?』
静寂を切り裂くような、軽やかで、それでいて傲慢な響きを持った声。
画面中央に、12台ものモニターを背景にした女性――フェドさんが現れました。世界の基軸通貨「ドル」を統べる、泣く子も黙る金融界の若き帝王です。
「フェドさん! 遅いですわ。事態の深刻さは理解していらっしゃって?」
リンの叱責を、フェドさんは鼻で笑って受け流しました。
「理解? ボクのモニターを見てよ。数字はすべて『最悪』を示している。だから――」
フェドさんが、手元にある巨大な、そして誰のものよりも光り輝く「金利レバー」に手をかけました。
「ボクが今から、この世界を救ってあげる。金利をゼロまで叩き落とし、市場が溺れるほどのドルを流し込む。リンさんの大好きな伝統や秩序じゃ、このウイルスには勝てないよ」
「……っ、そんな無茶苦茶な量を流せば、後でどんな副作用が……!」
「ボクは今、この数字を救うことしか興味がないんだ。独立性を侵害しないでくれるかな、リンさん。ボクの言葉一つで世界が動く。……見てなよ」
ガツン! と鈍い音が響きました。
フェドさんが迷いなくレバーを最大までアクセル方向へ倒したのです。
「さあ、お祭りの始まりだ。札束でウイルスの口を塞いでやろうじゃないか」
フェドさんの不敵な笑みと共に、全世界の端末に「金利ゼロ」「無制限供給」という衝撃的なニュースが駆け巡りました。リンは、その圧倒的なドルの暴力に、言葉を失い立ち尽くすしかありませんでした。
「……フェドさん。いくらなんでも、独断が過ぎましてよ」
リンが眉をひそめて指摘すると、画面の中の女性は、12台のモニターが放つ青白い光を浴びながら不敵に口角を上げました。
「独断? 心外だな。ボクはいつだって、12のファミリーの意志を完璧に集約しているんだ。バラバラに動くどこかの連合体とは違うよ」
彼女の背後には、ボストンからサンフランシスコまで、全米12カ所に散らばる「連邦準備銀行」の紋章がホログラムのように浮かんでいます。
連邦準備制度(Federal Reserve System)。
これは連邦準備制度理事会(Board of Governors of the Federal Reserve System)を司令塔とし、12の地区連邦準備銀行が支える、合衆国の中央銀行制度。通称、FRS――そして、この傲慢な女性の愛称こそが「フェド」です。
アメリカは「中央に権力が集中すること」を嫌う歴史があるため、わざわざ各地に12の銀行を分散させ、それをワシントンの理事会がまとめるという、「分散型の中央銀行」という不思議な形をとっているのです。
「いいかい、リンさん。ボクが今ここで動かしているのは、ただの紙切れじゃない。世界の基軸通貨、米ドルだ」
フェドが指先でモニターをスワイプすると、ドルの流動性を示すグラフが、洪水のように跳ね上がりました。
「石油を買うのも、借金を返すのも、世界中の誰もが最後にはこのドルを欲しがる。ボクの金利レバー一つで、地球の裏側の物価も、新興国の命運も決まるんだ。ボクの言葉は、神託と同じなんだよ」
そう語る彼の瞳には、実体経済への慈しみなど微塵もありません。そこにあるのは、完璧な計算式と、圧倒的な覇権通貨の力への確信だけでした。
「独立性を侵害しないでくれるかな。ボクはデータを見ているんだ。政治家や、古臭い伝統の機嫌を取っている暇はないんだよ」
フェドの冷徹な宣告。それは、リンさんたちの歩んできた歴史が、ドルの暴力的なまでの合理性に塗り替えられていく瞬間でもありました。
「……ああ、もう! やめてちょうだい、みんな一度に喋らないで!」
画面の中で、ユーロさんがこめかみを押さえながら悲鳴を上げました。
彼女の背後からは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語……と、多種多様な言語の怒号が、まるでお祭りの騒音のように漏れ聞こえてきます。
「ユーロさん、相変わらず賑やかですわね」
リンが皮肉を込めて声をかけると、ユーロさんは泣きそうな顔でこちらを向きました。
「笑い事じゃないわ、リンさん! 私の家には、規律に厳しくて貯金が大好きなドイツおじさんもいれば、陽気で情熱的だけどすぐにお財布を空にしちゃう南欧の親戚たちもいるのよ。このパンデミックで、みんなパニックになって勝手なことばかり……!」
彼女が統括するのは、欧州中央銀行(European Central Bank)、通称ECB。
欧州連合(EU)の共通通貨ユーロを導入している20カ国もの家族の家計を一手に引き受ける、世界でも類を見ない複雑な組織です。
「フェドさんはいいわよね、一つの国を相手にすればいいんだから。私は20カ国分の顔色を伺いながら、一つのレバーを操作しなきゃいけないのよ? 金利を上げれば南欧の子たちが悲鳴を上げるし、下げすぎればドイツおじさんに怒鳴られる……。ああ、胃が、胃が痛いわ……」
ユーロさんは胃薬の瓶を握りしめながら、自身の金利レバーを見つめました。
本来、ECBには「政府を助けるためにお札を刷ってはいけない」という鉄のルールがあります。しかし、今この瞬間も、欧州各地で経済の灯が消えようとしていました。
「背に腹は代えられないわ……。ルールは大事だけど、家族が路頭に迷うのを見て見ぬふりはできないもの!」
ユーロさんは決然と、規律という名の分厚い魔導書を閉じました。
「パンデミック緊急購入プログラム(PEPP)――発動よ! 伝統もルールも、今は二の次。死ぬ気でお金を流し込んで、この嵐を耐え抜いてみせるわ!」
彼女が震える手でレバーを緩和へと倒すと、複雑に絡み合った20カ国分の経済回路に、救済の資金が流れ込み始めました。
フェドさんのような強引さはありませんが、それは崩壊寸前の共同体を繋ぎ止める、必死の防衛策でした。
「……見てなさい、フェドさん。多様な家族を守る強さ、あなたに教えてあげるわ」
胃痛に耐えながらも、ユーロさんの瞳には、大家族の母としての意地が宿っていました。




