43章《ダブルフェイス》
死ぬことは簡単だ。
舞台から降りるだけ。
終わらせる理由なら、いくらでもあった。
それでも――
二人は、苦しくも違う道を選んだ。
降りずに、残ること。
壊れたまま、役を引き受けること。
その選択が、
何を残すのかも知らないまま。
《莉花》
自分の身体を削ってでも、
紗希に生きてほしかった。
死んではいけない姉。
死んでもいい私。
あのときは、本気でそう思っていた。
手術へ向かう無機質な廊下で、
私はふと、巌頭之感の一節を思い出していた。
「既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし」
「始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを」
不思議と、何も怖くなかった。
何枚も自動ドアが開くたび、
私はますます、死んでもいいのだと強く思っていった。
⸻
消えなかった。
それが、目が覚めて最初の感情だった。
紗希の移植も成功した。
けれど、まだ予断は許されなかった。
⸻
移植から三週間が過ぎていた。
傷は塞がっても、痛みはまだ身体の奥に残っていた。
私はなぜか、
一度死んで戻ってきたような気がしていた。
退院後、私は勾留を解かれた。
在宅のまま手続きが進むことになり、
検察もまた、この起訴を維持するのは難しいと判断し始めていた。
もう、どうでもよかった。
⸻
午後の光が、
白い病室に静かに落ちていた。
体に繋がれた機械が、
一定のリズムで電子音を刻んでいた。
窓の外では、
何も知らない街が、いつも通りに動いていた。
紗希は、生きていた。
顔色はまだ悪い。
唇も白い。
身体は薄く見えて、
息をするだけでも痛みがあるのが分かった。
それでも、
生きていた。
私は、病室の前で立ち止まった。
会いたかったはずなのに、
足が動かない。
助けた、なんて言えない。
紗希が死にかけたのは、
私の代わりに刺されたからだ。
その事実は、
目の前の扉より重かった。
看護師に名前を呼ばれて、
私はやっと中に入った。
⸻
紗希は、目を開けていた。
私に気づくと、
ゆっくり視線だけを向ける。
それだけで、
胸の奥が痛んだ。
「……来たんだ」
掠れた声だった。
私は頷く。
言わなければならないことは、
山ほどあるはずなのに、
何一つ、うまく言葉にならなかった。
謝罪。
後悔。
恐怖。
安堵。
どれも本当で、
どれも足りない。
紗希は、
そんな私を見て、
ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ひどい顔」
その一言で、
張りつめていたものが切れた。
私は俯いた。
涙が、
勝手に落ちた。
「……ごめん」
やっと出た声は、
情けないほど弱かった。
「ごめん、紗希」
紗希は、
すぐには何も言わなかった。
責められないことが、
赦されたことと同じじゃないのは分かっていた。
しばらくして、
紗希は天井を見たまま言った。
「私も、ずっと間違えてた」
少し間を置いて、紗希は続けた。
「……あのまま、死んでもいいって思ってた」
「私が消えれば、ひまりは——」
息が詰まる。
「莉花と悠輝が、ちゃんと育ててくれるって」
視線は天井のまま。
「だってあの子、本当は——」
わずかに笑う。
「悠輝と、莉花の間に生まれるはずだったから」
私は顔を上げる。
「守ることと、
奪うことの違いが、
途中で分からなくなってた」
その言葉は静かだった。
静かなまま、
まっすぐ胸に落ちてきた。
「でも、ベッドで動けなくなって、分かった」
短い沈黙。
「あなたも、私と同じだった」
「守りたいもののためなら、
自分まで壊してしまう」
私は、何も言えなかった。
泣いたまま、
そこに立っていることしかできなかった。
紗希は私を見ないまま、
小さく息を吐く。
「無理に、何か変えなくていいよ」
「……え?」
「姉妹とか。
家族とか。
そういう名前で、急に綺麗にしなくていい」
私は唇を噛んだ。
胸の奥に溜まっていたものが、
また少し崩れる。
「私、あなたのこと……」
憎かった。
羨ましかった。
怖かった。
消えてほしいと思ったこともあった。
どの言葉も本当で、
でも、それだけじゃなかった。
「……姉さんって、呼べない」
紗希は、
少しだけ笑った。
「いいよ」
「そのままで」
それが、初めてだった。
私たちが、
勝ち負けでもなく、
奪い合うでもなく、
ただ言葉を交わしたのは。
沈黙が落ちた。
点滴の音だけが、
やけに小さく響いている。
その静けさの中で、
紗希がぽつりと呟いた。
「でも……そのままって、
結局、二人とも同じってことなんだよね」
私は顔を上げた。
紗希は、
まだ天井を見ていた。
「私、莉花の真似をしてた時、
本当に楽だった」
掠れた声なのに、
その言葉だけは妙に鮮明だった。
「これが本当の私なんだって、
思いそうになるくらい」
胸の奥がざわつく。
「ずっとね。
莉花に似ないように、
逆の顔を作ってた」
そこで初めて、
紗希が私を見る。
「でも、もう逆でいる意味もない」
私は何も言えなかった。
紗希は、
ほんの少しだけ笑う。
「これからは、二人で紗希をやらない?」
意味を測りきれず、
私は眉を寄せた。
「……二人で、二人をやるの?」
「そう」
紗希の目は、
冗談を言っている顔ではなかった。
「莉花と紗希の練習をするの」
私は息を止めた。
「役員会は、
当面それで凌ぎたい」
病室の空気が、
少しだけ変わる。
さっきまでの告白とは別の、
もっと冷たい現実の温度だった。
「悠輝には?」
「もちろん話す」
即答だった。
けれどその次の言葉は、
少しだけ遅れて落ちた。
「……でも、私も悠輝のことが好き」
胸の奥が、また揺れる。
紗希は視線を逸らさなかった。
「だから、だめかなって思った」
「何が」
「莉花として、
悠輝を好きになるの」
私は答えられなかった。
言葉が出ないまま立っていると、
紗希は自嘲するように笑った。
「変だよね」
「……変」
そう言うと、
紗希は少しだけ安心したみたいに目を細めた。
「でも、今さら普通の家族なんて、
私たちには無理でしょ」
その通りだった。
綺麗な言葉では、
もう収まらないところまで来てしまっている。
「私が、ひまりの母親みたいな顔をしてもいいの?」
私はゆっくり息を吸った。
この問いに、
正しい答えなんてないのだと思った。
それでも。
「……いいよ」
紗希の睫毛が、
わずかに震えた。
「そういうことも含めて、
これから決めればいい」
しばらくして、
紗希は低く呟いた。
「“紗希”は、
もう私一人の名前じゃないのかもね」
私は黙って聞いていた。
「これから二人で作る、
日山の顔」
その言い方は、
ぞっとするほど自然だった。
名前ではなく、
役割。
人ではなく、
看板。
ようやく私は、
この人がどこまで壊れていて、
どこまで正気なのか分からなくなった。
「約束は一つ」
紗希が言う。
「悠輝を取り合わない」
思わず、
私は笑ってしまった。
涙の残る顔のまま、
変な声が漏れた。
「そこ、そんなにはっきり言う?」
「大事でしょ」
「……そうかもね」
「莉花は、本当にいいの?」
その問いだけは、
妙に真っ直ぐだった。
「私が悠輝に抱かれても」
一瞬、
言葉を失う。
けれど次の瞬間、
馬鹿みたいに可笑しくなった。
こんな場所で、
こんな話をしていること自体が、
もうおかしかった。
「いいよ」
そう言ってから、
私は少しだけ肩をすくめる。
「でも、変な趣味はないからね。
三人で寝るとかは、ちょっと嫌かな」
紗希が吹き出した。
その笑いにつられて、
私も笑った。
傷も、
罪も、
何一つ消えていないのに。
「そうだね」
紗希は笑いながら、
小さく息を吐く。
「でも悠輝、
一度に二人を相手できるほど器用じゃないと思う」
「うん」
私は頷く。
「真っ直ぐすぎるからね。
イノシシみたいに」
紗希はまた笑った。
その笑い声は弱くて、
掠れていて、
それでも確かに生きていた。
私は初めて、壊れたままでも、
この先を生き延びる道があるのかもしれないと思った。
紗希は、笑いの残る声で言った。
「……悠輝には、莉花から話して」
「……私が?」
「うん」
紗希は、少しだけ笑った。
「たぶん、あの人、
あなたに言われた方が、変に自分を責めないで済むから」
そこで紗希が、ふと思いついたように言った。
「ちょっと待って。シャツ、取り替えよう」
「……悠輝が気づくか試すの?」
「そう」
私は思わず息を吐いた。
「違うところ、あるじゃない」
紗希が眉を上げる。
私はシャツの裾に手をかけ、
少しだけ笑った。
「傷の位置だけ、違うよね」
紗希も笑った。
その笑いは弱くて、
まだ痛そうで、
それでも確かに生きていた。
なぜか、
こんなことで少しだけ元気が出た。
そしてその時から、
“紗希”は、
一人の名前ではなくなった。
法と情報を束ねる、
日山の顔になっていくことになる。
⸻
悠輝は、
屋上にいた。
春の風が、
弱く吹いている。
手すりの向こうに、
街が広がっていた。
まだ細い背中だった。
けれど、もう折れそうには見えなかった。
私が隣に立つと、
悠輝は少しだけこちらを見た。
「紗希さん、こんな所に来て大丈夫?」
「うん」
それだけ言って、
しばらく黙った。
言葉がないわけじゃなかった。
ありすぎて、
どこから触れていいのか分からなかった。
先に口を開いたのは、
悠輝だった。
「もう、どこにも行かないで欲しい」
その声は、
強くなかった。
でも、
逃げ場のない優しさがあった。
私は目を閉じた。
行きたかったわけじゃない。
逃げたかったわけでもない。
ただ、
自分がここにいていいのか、
ずっと分からなかった。
「……私は、莉花よ」
自分に言い聞かせるみたいに、
小さく口にする。
悠輝は、少しだけ眉を寄せた。
「……どういうこと?」
私は、ゆっくり息を吐いた。
「私たち、話し合ったの」
「紗希と」
風が、少しだけ強く吹いた。
「……何を」
「悠輝を、取り合わないって」
悠輝の表情が止まる。
理解が追いつかないまま、
それでも言葉を待っている顔だった。
私は続ける。
「ねえ、悠輝」
少しだけ、声が震えた。
「……二人を、同じように愛せる?」
沈黙。
長くはないのに、
妙に重かった。
「何を言ってるのか、分からない」
それは当然だった。
私だって、
分かっているわけじゃない。
それでも。
「もう、紗希は――」
言葉が一瞬、詰まる。
「悠輝の前から、いなくなる」
「……え?」
「でも、消えるわけじゃない」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「二人とも、莉花になるの」
風が止んだ気がした。
音が、
一瞬だけ遠くなる。
「紗希はね、仕事上の名前」
自分でも驚くほど、
落ち着いた声だった。
「もちろん、私も紗希をやる」
「二人で、一つの顔を作るの」
悠輝は、何も言えなかった。
ただ、私を見ている。
理解しようとして、
でもまだ追いつかない目だった。
「……無茶苦茶だ」
やっと出た言葉は、それだった。
「そんなの、誰も幸せにならないだろ」
それでも私は、頷くしかなかった。
「うん」
「だから、どちらかを選んで終わらせるんじゃなくて」
「残った形で、生きるの」
「二人の莉花は、悠輝を愛してます」
私は、少しだけ笑った。
否定しなかった。
一歩だけ、
悠輝の方に近づく。
「二人でやったら」
ほんの少しだけ、
息を吸う。
「たぶん、最高の経営者になれる」
冗談みたいな言い方なのに、
自分でも分かるくらい、
本気だった。
しばらく、
風の音だけが流れた。
悠輝は、目を閉じる。
何かを受け止めるみたいに。
それから、
ゆっくりと開いた。
「……それでいいのかよ」
誰に向けた言葉か、
分からなかった。
私にも、
紗希にも、
たぶん、自分にも。
私は少しだけ考えて、
そして答えた。
「よくはないよ」
正直に言う。
「でも、これしか残ってなかった」
沈黙。
そのあとで、
悠輝は小さく息を吐いた。
「……立ち直ったみたいだね」
「うん」
「もう、逃げない」
悠輝は何も言わず、
ただ、私の隣に立った。
その距離は、
前と同じはずなのに、
少しだけ違って感じた。
「嫌なら、逃げて」
私は悠輝の肩を掴み、
視線を合わせた。
逃げようと思えば、
いくらでも間に合う距離だった。
それでも、私は近づく。
ゆっくりと、
確かめるみたいに。
唇が触れそうなところで、
目を閉じた。
一瞬の空白。
——逃げなかった。
次の瞬間、
温もりが重なる。
それが、答えだった。
⸻
日山ホールディングスは、
何もなかったように立っていた。
何人かが消えても、
いくつかのルートが断ち切られても、
ビルはそこにある。
ガラスは磨かれ、
数字は動き、
社員たちは出勤する。
世界は、
誰か一人の破滅では止まらない。
だからこそ、
残されたものを、
誰かが引き受けなければならなかった。
その役目を引き受けられるのは、
私ではなかった。
社会的に無傷なのは、
姉の紗希だけだったからだ。
⸻
《紗希》
退院しても、
刺された背中の傷の痛みは消えていなかった。
莉花から託された。
一刻も早く、すべてに収拾をつけるために。
私は、休まなかった。
役員会場は、騒ついていた。
高雄派は、自分たちにも飛び火しないか疑心暗鬼。
高雄の裏方であった私は、
彼らのすべてを知っていた。
今日の議題表向きは、社長の選出。
暫定体制の確認。
再発防止策。
再建計画。
並んでいる言葉は整っていて、
どれも正しそうに見える。
けれど、
その奥にある問いは一つだけだった。
――誰が、この泥を一旦、引き受けるのか。
定例時刻を少し過ぎてから、
私は最後に会議室へ入った。
まだ完全には戻っていない身体で、
黒いスーツを着て、
まっすぐ前を見ていた。
高雄の席は、空いていた。
その空白だけが、
あの男がいたことと、
もういないことを同時に示していた。
私は迷いもなく、その席に向かう。
座ろうとした時、反対の声が舞い上がった。
資格がない。
若すぎる。
正式な継承ではない。
どれも、正しかった。
私は最後まで黙って聞いていた。
それから、
静かに口を開く。
「私語はやめてください」
「警備員、口を開く人は退出させてください」
「資格の話をするなら、
ここにいる誰にもありません」
場が止まる。
「見て見ぬふりをしてきた。
知らなかったでは済まない場所まで、
もう来てる」
誰も言い返さなかった。
私は続ける。
「私は、父の会社を継ぐために来たんじゃない」
声は大きくなかった。
けれど、
一番揺れていなかった。
「一度、終わらせるために来ました」
空気が変わる。
「簡単なことです」
「腐った部分を切る」
「修復できるところは、やる」
「裏取り引きはさせない」
「数字も、人事も、取引も、
全部見直す」
「日山ホールディングスの高橋、市毛、剛力の三名について、
特別背任の疑いで告訴状を提出しました」
救いようのない、役員は全て岡部家の父に任せた。
社長有力候補であった三名を起訴。
見せしめである。
「日山HDを守るためじゃない」
「日山で働いてる、
まだ何も知らない人たちを、
これ以上巻き込まないためです」
「以上」
「それでは、一人ずつ発言してください」
誰も、発言する者はいなかった。
私は、高雄が座っていた席に深く腰を下ろした。
「では、これより本題に入ります」
高雄が残したものの正面に、
私は立ったのだ。
「南米および北米の対策は、
日山ホールディングス全体で対処すべき案件と考えてください」
「まず、日山郵船、日山南米観光、日山資源開発の立て直しを行います」
「関連会社は、
現状報告と対応策を必ず提出してください」
「私からも、各社に正式に要請を出します」
そこで一度、
私は会議室を見渡した。
「この方針に異議のある役員は、
今、この場で申し立ててください」
沈黙。
誰も、口を開かなかった。
特別対策室は莉花に手を回してもらい、監査役の見直しと旧高雄派の取り込みを終えていた。
「最後に、特別対策室は本日をもって社長直轄の部署に変更します」
「では、今日はここまでにします」
誰一人、反対する者はいなかった。
⸻
数週間後、
社長就任が発表された。
世間は好きなように書いた。
粛清
創業家。
隠された血縁。
逮捕された前社長。
異例の就任。
紗希は、何も言い返さなかった。
会見のライトの中で、
ただ前を向いていた。
質問が飛ぶ。
責任をどう考えるのか。
前社長との関係をどう受け止めるのか。
紗希は、
少しも視線を逸らさずに答えた。
「これからの日山に期待してください」
それ以上の言葉は、要らなかった。
⸻
《莉花》
三人が揃うのは、
あの日、この部屋から悠輝が飛び出していって以来だった。
夕方だった。
悠輝の部屋は広くない。
食卓も小さい。
湯気の立つ味噌汁と、
薄い西日の色だけがあった。
どこにでもあるような、
静かな生活だった。
私は台所に立っていた。
悠輝は、
子どもを抱いている。
その光景を見ているだけで、
胸の奥が少し熱くなった。
チャイムが鳴った。
悠輝が玄関へ向かう。
扉が開く音。
少し遅れて、
聞き慣れた声がした。
「……ただいま、って言っていい場所?」
私は、その場で止まった。
紗希が立っていた。
仕事帰りのスーツ姿。
少し疲れているのに、
背筋だけはまっすぐだった。
悠輝が微笑みながら言う。
「いいに決まってる」
紗希は、
少しだけ困ったように笑った。
でも、
子どもが小さな手を伸ばした時、
紗希の表情がやわらかくほどけるのを見て、
胸の奥の何かが、静かに緩んだ。
悠輝が、
食卓の椅子を一つ引いた。
紗希は少しだけ迷ってから、
そこに座る。
⸻
「ご飯食べたら、私、出かけるから」
「紗希と、ゆっくりして」
悠輝が顔を上げた。
「……こんな時間から?」
「決まってるじゃない」
「会社よ」
「まだ何人か反乱分子がいるの」
「その人達を、纏めるか、排除するか、もう少し詳しくしrsべ
「フレックスに変わってから、夜でも人はいる」
「日本時間なんて、もうあまり意味ないの」
それから私は、
わざと明るい声で言った。
「そんなことより、紗希には優しくしてあげてよ」
二人が、同時に黙る。
「私より経験ないんだから」
「……たぶん」
悠輝と紗希の顔が、
ほとんど同時に赤くなった。
私は笑った。
「子どもまで産んだくせに、何もじもじしてるの」
「あなたは、今から莉花でしょう」
紗希は、
困ったように目を伏せた。
「……そんな簡単に言わないで」
「簡単じゃないから言ってるの」
私は、少しだけ息を吐いた。
「頑張ってね」
⸻
言ってから、
少しだけ言葉が浮いた気がした。
ぎこちなさは、まだある。
沈黙も、まだある。
けれど――
それを壊そうとは、誰もしなかった。
でも、もう誰も、
誰かを消そうとはしなかった。
元には戻らない。
戻るはずがない。
私たちは、
壊しすぎた。
傷つけすぎた。
奪いすぎた。
それでも、
消えなかった。
残ってしまった。
だから、
残ったものの形で
生きていくしかない。
完
⸻
「……社長って、いつ寝てるんだろ」
誰かの何気ない一言は、
すぐに雑音に紛れて消えた。
日山は、今日も動いている。
⸻
――『紗希の憂鬱 — Two Faces』へ続く。
あの日のあと、
すべてが落ち着いたわけではなかった。
表から見えない場所で、
もう一つの流れが動き始めていた。
莉花は、紗希からの依頼を受け、
東南アジアへ極秘出張していた。
同行したのは、千堂を含む数名。
表には出ない任務だった。
そして――
そこにいた。
一度は終わったはずの名前。
国外へと追われたはずの存在。
マルシア。
日山の戦争は、
まだ終わっていない。




