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Scrambled Egg  作者: 読まれる前提
《たまごの殻》

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42章《Blood Memory》

記憶は、失われるだけじゃない。

ある瞬間、

血の匂いみたいに、

唐突に戻ってくることがある。


戻ったものは、

優しい思い出ばかりじゃない。


忘れていた罪も、

見ないふりをしていた真実も、

まとめて人を切り裂く。


そして、その日常は、

何の前触れもなく終わる。

電車は、昼の光の中を走っていた。


平日の車内は空いていた。

どこにでもある、日常。


私は、車窓にも目を向けず、悠輝から目を離さないようにしていた。

また事故に遭わせるわけにはいかない。


それに――

いつ、記憶が戻るか分からなかった。


電車を降り、改札へ向かう。


少し汗ばんだ私の手で、

悠輝の手をしっかり握る。


水族館までは、歩いて十分ほどだった。


風は冷たくなく、

空は高い。


悠輝は、ゆっくり歩いていた。

私はその歩幅に合わせる。


「覚えてる?」


そう聞くと、悠輝は少しだけ眉を寄せた。


「……青かった」

「誰かが、笑ってた気がする」


その言葉だけで、

胸が詰まりそうになる。


私は笑おうとした。


突風が走る。


帽子を押さえた。


その時だった。


背後から、声が響く。


断末魔のように。


「藤堂莉花!」


振り向くより早く、

背中に、何か硬いものがめり込んだ。


何をされたのか、すぐには分からなかった。

次の瞬間、遅れて熱が走る。


息が、止まった。


熱いものが一気に滲み、

服の内側を濡らしていく。


そこでようやく、

刺されたのだと分かった。


視界が揺れた。


数歩よろめいた私を、

悠輝が咄嗟に支えようとする。


その手に、血がついた。


真っ赤な色を見た瞬間、

悠輝の顔が強張った。


女が、ナイフを握ったまま立っていた。


「兄の仇」

「いい気味だ」


その目に、迷いはなかった。


「死ね」


通行人の悲鳴が上がる。


すぐに数人が駆け寄り、

女を地面に押さえつけた。


だが、彼女は抵抗しなかった。

無表情だった。


いや――

あれは、満ち足りた静けさに近かった。


悠輝が、叫ぶ。


「莉花!」


膝をついた私の身体を抱きとめる。


その声だけが、妙にはっきり届いた。


「……よかった」


唇が、かすかに動く。


「悠輝、何か思い出したんだね」


手を握り返したかった。

でも、力が入らない。


誰かが警察に電話をしている。

誰かが救急を呼んでいる。

周囲は騒がしいはずなのに、

音だけが遠い。


「しっかりして!」

「救急、もうすぐ来ます!」


後ろから声が飛ぶ。


やがて、ドクターカーが到着した。


医師と救急隊が駆け寄る。


「背部刺創!」

「バイタル確認!」


「圧迫、急いで!」


傷口に手が当てられ、

止血が始まる。


私は、滲む視界の向こうで、

悠輝の顔だけを見ていた。


「……ひまり……」


悠輝に子供の名前だけでも伝えたかった。


ただ、声になったのかも、分からなかった。



真っ赤な色を見た瞬間、

僕の頭の奥で、何かが音を立てて割れた。


忘れていたはずの記憶が、

一気に流れ込んできた。


頭を押さえる。


「ぁ……っ、あ……!」


喉の奥から、掠れた声が落ちる。


「……レオン」


僕は紗希の横に崩れ落ちた。



「名前、分かりますか!」


救命士が、悠輝に声をかける。


「この方の名前は!」


僕は、上手く答えられなかった。


口は開いているのに、

言葉が出てこない。


目だけが、

血に縫い止められたように動かない。


「……確認します」


短くそう言って、

救命士は紗希のバッグに手を伸ばした。


中を開け、

財布を取り出す。


免許証。


「岡部紗希、25歳」

その名前が、僕の心を切り裂いた。


「付き添いの方、早く一緒に乗ってください」



電車の揺れ。

肩に触れる重さ。

静かな呼吸。


隣で、眠っていた。


あのとき、

それが誰なのか、

僕は分かっていなかった。


触れた体温。

間違えたまま、抱いてしまった身体。


全部、紗希だった。


紗希がストレッチャーで運ばれる。


「……っ」

息が詰まる。


視界が歪む。


血の匂いが、

現実を引き戻す。


僕は、その場に崩れ落ちた。


手術は続いた。


時折、輸血パックを持って走っていく看護師。

応援に駆けつける医師たち。


処置室を出入りする者たちの顔色は、誰一人として和らがなかった。


僕は、処置室の前で立ち尽くしていた。


岡部夫婦も駆けつけていた。

二人とも、泣いていた。


僕は血のついた手を、まだ洗えずにいた。


あの瞬間、

隣にいたのは莉花のはずだった。


そう見えた。

誰の目にも、そう見えた。


でも、違った。


刺されたのは、紗希だった。


莉花の髪型。

莉花の服。

莉花の歩き方。


莉花の代わりなんかじゃない。


莉花と僕を助けるために、自分からその姿を選んでいた。


その結果、

刃は、紗希に向かった。



ICUの扉が開いた。


医師は、慎重に言葉を選んだ。


「まだ、生きています」


若い外科医の声は、

静かすぎるほど静かだった。


「ただ、肝臓の損傷がひどい。縫合だけでは保たない可能性があります」


「……どういう意味ですか」


悠輝の声は、掠れていた。


医師は一拍置いてから、言った。


「移植ができれば、助かる可能性があります」


その一言で、

空気が変わった。


緊急手術で、いったん出血は抑えられた。

だが、肝臓の損傷は想定より広く、

縫合だけでは保たない可能性が高いという。


岡部夫人が、

静かに口を開いた。


「……私は、この子の実の母ではありません」


声は震えていた。


「実母は、私の妹です」


医師が顔を上げる。


「血縁は?」


「あります」


岡部夫人は、泣きそうな声で続けた。


「血液型も同じです」


採血と検査が、すぐに始まった。

注射器。確認。

慌ただしく人が動く。


それでも、

可能性があるなら、辿るしかなかった。



採血の結果、血液型は同じだった。


場の空気が、わずかに動いた。

だが、その希望は長く続かなかった。


造影CTと適合検査の結果、

叔母の肝臓では紗希を保たせるだけの容量が足りない。

逆に切除すれば、ドナー側の危険が大きすぎる。


医師は短く告げた。


「不適合です」


重い沈黙のあと、

岡部の夫が口を開いた。


「双子の妹がいます」


医師が尋ねた。

「妹さんの、お名前は」


短い沈黙のあと、

岡部の夫が答えた。


「……藤堂莉花です」


岡部夫妻は、短く視線を交わした。


「……あなた、お願い」

「莉花ちゃんも、必ずわかってくれる」

岡部夫人の声は、今にも崩れそうだった。


岡部は無言で頷き、携帯を取り出した。

その手はわずかに震えていたが、声は冷静だった。


「岡部だ。至急、検察と拘置所側に繋げろ」

「藤堂莉花の件だ」


そこで初めて、

この場の誰もが、彼が“父親”である前に“県警本部長”でもあることを知った。



双子だったことは、移植の可能性にはなった。


だが、それだけで手術ができるわけじゃなかった。


血液型、肝容積、血管走行。

莉花がドナーとして耐えられるかどうか。


すべてを確認した上で、ようやく医師たちは「間に合うかもしれない」と言った。


だが、そのためには、

もう一つ越えなければならない現実があった。


ドナー候補である莉花本人の意思。

そして、莉花がいるのは拘置所だった。


莉花は、移植に応じるのだろうか。



警察と検察と病院の間で、

調整が始まった。


本人の同意がいる。

移送の可否もある。

検査も必要だ。


何一つ、簡単ではなかった。


拘置所の接見室で、

莉花はその話を聞いた。


最初は、意味が分からなかった。


「紗希さんが刺されました」


そこまでは、届いた。


でも、その次の言葉が、

うまく頭に入ってこない。


「肝損傷が重く、

生体肝移植の可能性を検討しています」


莉花は、黙っていた。


刑事も、

医師も、

誰も急かさなかった。


「ドナー候補は、あなたです」


沈黙。


長い、長い沈黙だった。



「……何で」


やっと落ちた声は、

自分でも驚くほど弱かった。


「何で、紗希が」


医師は答えない。

答えられないのだ。


紗希が莉花の変装をしていたこと。

莉花を狙った刃が、

代わりに紗希を裂いたこと。


そんな説明は、

事実であっても、

救いにはならない。


「双子であることは、

適合の可能性としては有利です」


医師は静かに続ける。


「ただし、最終的には検査次第です」


「紗希を私が助ける?」

その言葉の奥にあったのは、

拒絶じゃない。


恐怖だった。


自分の代わりに刺された。

自分が憎み、

悠輝を奪ったと思っていた相手が、

自分の代わりに血を流した。


その現実のほうが、

よほど刃物みたいだった。



紗希が死ねば、悠輝が戻ってくる。


そんな考えが、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。


「……無理」


莉花は言った。


「そんなの……」


言葉が続かない。


「嫌よ」


紗希を助けることか。

紗希の中に自分と同じ血が流れていることか。

自分がその相手に救われる側ではなく、

救う側に回らされることか。


全部だった。


「私は、紗希を……」


そこから先は出なかった。


憎んだ。

傷つけた。

奪われたと思っていた。


でも今、

死にかけているのは紗希の方だった。


自分のせいだ。



医師が席を外した後も、

莉花はしばらく動けなかった。


拘置所の白い壁が、

妙に近く見える。


逃げ場なんて、最初からない。


机の上で、手が震えていた。


紗希。

あの女。

姉。

双子。

もう一人の自分。


胸の奥が、

ゆっくりと冷えていく。


そして、その冷たさの底から、

別の感情が浮かび上がる。


「……私のせいじゃない」


呟いて、

すぐに分かった。


違う。


少なくとも、

そう言い切れる立場には、

もういない。



その頃、

病院では紗希の状態がさらに悪化していた。


出血は止まっても、

肝機能の数値が落ちていく。


意識は浅い。

呼びかけへの反応も鈍い。


悠輝は、

ICUのガラス越しにその姿を見ていた。


紗希は、

眠っているようにも見えた。


けれど、

その身体はもう、

少しずつ保てなくなっていた。


医師が横に立つ。


「時間がありません」


悠輝は、何も言えなかった。



もう一度、

拘置所に連絡が入る。


今度は、よりはっきりした言葉で。


「このままでは、助からない可能性が高いです」


莉花は目を閉じた。


浮かぶのは、

あの日の後ろ姿だった。


自分の姿をした、紗希。


電車の中で、

悠輝の肩に頭を預けていた横顔。


あれは、

奪うためじゃなかった。


そこまで考えて、

莉花は初めて理解した。


紗希は、

最後まで自分を守ろうとしていた。



「検査を受ける」


声は低かった。


けれど、はっきりしていた。


刑事が顔を上げる。

医師も、言葉を待っていた。


「適合するかどうか、調べて」


莉花は俯いたまま言う。


「助かる可能性があるなら」


そこで一度、

言葉が切れた。


唇が震える。


「……紗希を死なせたくない」


私が死ねばいい。

紗希が生きるなら、それでいい。


そう思った瞬間、

それが願いではなく、罰なのだと分かった。


外では、移送のための緊急車両が待っていた。



日山ホールディングスは、

何もなかったように、そこに立っている。


ガラスは磨かれ、

関連会社の不祥事で下落した株価も、すでに持ち直していた。

世界は前に進む。


それが、現実だ。



卵は、割れた。


元には戻らない。


白身と黄身は混ざり、

形を失った。


それでも、欠けたところを埋めることはできる。


美しくはない。

正しくもない。


ただ――

壊れたものから、違う形へ。


戻れないと知ったまま、前に進む。


移植のため、手術台に横たわる。

それだけが、私に残された答えだった。

皆、傷つき、

庇い合わないと生きられない。


それでも人は、

ときどき自分の傷より先に

誰かを守ろうとしてしまう。


それはもう、

優しさや愛では語れない。

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