41章. 《Fractal》
母になって、初めて見えるものがある。
与えられなかった愛。
切り離された血。
守るために隠した罪。
壊れたものは戻らない。
それでも、切ったはずの線は、
別の場所でまた繋がってしまう。
母になった紗希は、
その残酷さと優しさを、
ようやく知る。
世界は、何も変わっていなかった。
ニュースは淡々と流れ、
電車は時間通りに走り、
ビル群は、昨日と同じ影を落としている。
――藤堂高雄が逮捕された、その翌日も。
⸻
留置場の廊下は、白かった。
音が、ほとんどない。
足音も、声も、すべて吸い取られていく。
藤堂高雄は、そこにいた。
手錠をかけられ、
背筋だけは、不自然なほど伸びている。
「……久しぶりだな」
「まだそれほど時間は経ってないじゃない」
「ここは暇でな。時間が長いんだ」
そう言って、彼は笑った。
経営者の笑みでも、権力者のそれでもない。
ただの――
疲れた人間の顔だった。
「余裕の顔ね」
「俺の意思だからな」
「最後の判断を、紗希に任せたのも俺」
「紗希、良い判断だった」
嫌味ではなかった。
自慢でもなかった。
「さすがだ、プロフェッサー」
南米ルート。
子会社の配置。
資金の逃がし方。
戻し方。
消し方。
善悪の話ではない。
彼の作った世界は、最初からフラクタルな構造でできていた。
だからすべて壊れることはない。
何かがなくなれば、そこを飛ばして繋がるだけだ。
⸻
莉花は、参考人として呼ばれた。
形式だけ整えたような事情聴取だったと、あとで聞いた。
確認。確認。確認。
それでも莉花は、自分の罪を、自分の口で言った。
南米ルート。
その崩壊。
そこで生まれた死。
粉飾経理。
証拠は、探しても出なかった。
何一つ、残っていなかった。
残さなかったのは、私だ。
⸻
私は、すべてを使って動いた。
マネーロンダリングされ、
何層にも分断され、
名前を失った資金。
それを、あえて目立つ形で動かした。
動かせば、足がつく。
だからこそ、動かす。
「ここにある」と知らせるため。
「ここを見ろ」と視線を集めるため。
捜査は、人がやる。
人は、光るものを見る。
私は、光らせた。
光が照らしたのは、高雄だった。
同時に、私は、闇も作った。
隠れたのは、
日山食品の赤字。
数字の歪み。
不自然な繋がり。
日山郵船からアメリカに流れた裏金。
そこに、隠した資金を滑り込ませた。
帳簿を整え、
履歴を消し、
証拠になり得るデータを、残らない形にした。
削除ではない。
存在しなかったことにする。
それが、私の役割だった。
光が強いほど、闇の中は見えなくなる。
⸻
莉花の罪の大半は、形として地上から消えた。
証言をする者もいない。
南米ルートで起きた死も、裏金の全体像も、法がそのまま掴める形では残っていなかった。
だが、すべてが消えたわけではない。
莉花は、自ら罪を口にした。
その供述によって、
粉飾経理、証拠隠滅、一部の資金操作について、起訴はされた。
公判でそれを支える形は、もう地上に残っていなかった。
法は、彼女を裁こうとした。
だが、自白だけでは有罪に届かない。
それでも、拘置所の中で、
莉花自身が、自分で裁き続ける。
それは仕方のないことだった。
壊れきってしまうよりは、まだよかった。
私は、そう判断した。
正義はもはや関係ない。
やるべきことは、すべてやった。
あとは時間が解決するのを、
待つしかないのだ。
⸻
高雄は、面会室のガラス越しに言った。
「もう余計なことは、するな」
余計なこと。
それは、感情のことか?
彼は最後まで、経営者だった。
世界を、数字と配置で見る人間。
私は、頷いた。
感情は入れない。
「莉花を守る役目は、もうお前じゃない」
「決断をしたのは、私でしょう?」
高雄は、そこで初めて視線を逸らして言う。
真実は、残酷だった。
「紗希、お前は俺の血の繋がった娘だ」
一瞬、意味が繋がらなかった。
娘、という言葉だけが、頭の中で繰り返される。
「……何を言ってるの」
高雄は、視線を外さずに続ける。
「おまえたちは、双子だ」
高雄は、そこで一度だけ言葉を切った。
「莉花は、おまえの妹だ」
言葉が、遅れて落ちてくる。
「お母さんは、出産後に体調を崩し、死んでしまった」
岡部家に子がいなかったこと。
母の妹が、岡部の妻だったこと。
正信の強い希望で、一人が養子に出されたこと。
その事実を、彼は淡々と口にした。
「それが、私?」
「いずれ話すつもりだった」
「だが、母のいない莉花が可哀想で言えなかった」
「皆で集まって決めたことだ」
「亡くなった母親も、生前にそうしてくれと望んだ」
その言葉は、
話さなかったという事実を、柔らかく包むための言葉だ。
「妻が亡くなり、私は仕事に取り憑かれた」
「莉花に苦労させない思いもあった」
「……だが一方で」
「思ったとおりの結果に酔い、
人を駒のように使うことの、
快感には、限度がなかった」
「欲はどんどん、
大きく膨らんでいった」
「莉花は、それを見て育った」
「だから、莉花から離れた」
「ただ、それだけのこと」
「おまえはもう藤堂家から離れ、幸せになれ」
「……」
「会議後、莉花の憎しみは、俺から紗希に向いた」
遠ざけた妹と呼び寄せた姉。
「あのまま進めば、姉を殺すまで莉花は止まらない」
「その時は理解しきれてなかった」
「紗希を得意げに使い、莉花を諦めさせたかった」
「でも結果それは、火に油を注いだだけだった」
「多分、内心は烈火のように怒り狂っていたと思う」
「今は俺が莉花のことを、一番理解している」
「あいつは俺にそっくりだ」
「そして紗希、おまえは優しかった母親に似てる」
「紗希、ありがとう」
「莉花を救ってくれて」
私は妹を助け、
結果的に、父を差し出した。
涙が止まらない。
「なぜ、今さらそんなことを」
「もっと早く言ってくれたら……」
「今だからだ」
「もう何もしなくていい」
「俺のいなくなった所なんて、
すぐに埋まるさ」
「ごめんね、……お父さん」
「おまえのお父さんは正信だ」
「そんなこと、もうどうでもいい」
「莉花が、あそこまで壊れた理由」
「私に向いた感情が、あったから」
「嫉妬と、怒り」
「私と莉花は、同じ男を好きになってしまった」
「私は引くつもりだった」
「そう、あれは事故」
「でも私は、その人の子を産んだ」
高雄のこれほど驚いた顔を初めてみた。
「だからね……
私達はもう、離れたらダメなの」
「そうしないと、憎しみも消えない」
「ごめんね、……お父さん」
「莉花は、私がちゃんと支える」
「俺に何かできること……
何もないな」
「ダメな父親だ」
「大丈夫よ」
「それより、ちゃんとしてて」
「一番いい弁護士をつける」
「いつか、子供にも会わせたい」
「その日まで、ちゃんと生きて」
「必ずそんな日が来るから」
「お父さん」
高雄は何も言わず、面会を打ち切って部屋を出て行った。
⸻
莉花は、証拠隠滅のおそれがあるとして、拘置所へ移送された。
裁判は、長く続いた。
だが、被害の全体像は最後まで立証されなかった。
法は、事実より形を見る。
形を消したのは、私だ。
⸻
莉花も、拘置所で真実を知った。
私たちが双子だということ。
分けられ、隠され、
別々の人生を歩かされたこと。
彼女は、さらに不安定になった。
私は、何度も面会に行った。
私の妊娠が莉花と間違えた事故だったこと。
自分も悠輝が好きだったから、はっきり抵抗ができなかったこと。
子供が産まれたこと。
悠輝が莉花のために南米に行きレオンに撃たれて重傷だったこと。
すべて話した。
半年が過ぎた頃、莉花は静かに変わり始めた。
「私に悠輝は会ってくれるかな?」
「悠輝は、元気になって待ってるよ」
「莉花も、早くここから出ないといけないよ」
⸻
悠輝の体内に残った破片を取り除く手術は、日本で行われた。
長い時間がかかった。
けれど、成功した。
命は繋がった。
ただ、記憶はまだ曖昧だった。
私は、母に子供を見てもらい、
悠輝のリハビリを手伝っていた。
歩くこと。
食べること。
短い会話を重ねること。
その中で、悠輝は時々、何かを思い出しかける。
「海。
光。
青い水槽」
「……水族館」
その言葉だけが、ぽつりと落ちた。
私は、その一言を聞いた時、
胸の奥で何かが揺れるのを感じた。
翌日、医師に相談し、外出の許可をもらった。
長時間は無理。
刺激も、できるだけ少ない方がいい。
それでも、行く価値はあると思った。
私が連れていく。
切ったはずの線が、別の場所でまた繋がる。
そういう壊れ方しか、私たちは知らなかった。
⸻
電車は、昼の光を乗せて走っていた。
車内は空いている。
どこにでもある、平日の昼だった。
悠輝は窓の外を見ていた。
まだ少し痩せた横顔。
それでも――生きている。
私はその隣で、そっと肩にもたれた。
悠輝は、何も言わなかった。
嫌がることも、身体をずらすこともない。
それだけで、十分だった。
今日だけは、
紗希ではなく、
ただ、莉花の残像として隣にいたかった。
電車が揺れる。
悠輝の肩にもたれて眠ってしまった、あの時間を思い出す。
そう思えるくらい、午後のひとときは穏やかだった。
だから――
その少し後ろの座席から、
じっとこちらを見つめている影に、
私は気づけなかった。
顔も、血も、人生も。
切り離されたはずなのに、
二人のあいだにある線は、最後まで綺麗には消えなかった。
莉花に向けられた感情は、
いつか紗希にも届くのかもしれない。
憎しみも、執着も、愛さえも。
まだ何も起きてはいない。
けれど、静かな午後の光の中で、
運命だけが、もうこちらを見ている。




