40章. 《MUD(泥濘)》
どちらかを選べば、
もう片方は失う。
そんなことは、最初から分かっていた。
それでも私は、選ばなければならなかった。
その先に残るのが、
消えない二人の罪だとしても。
思っていたより、静かだった。
金属が弾けるような派手な音じゃない。
乾いた、ただの断絶音。
気づいたのは――
私だけだった。
私の心の奥で。
⸻
藤堂高雄の執務室。
私は、久しぶりにそこへ入った。
高雄は、資料から顔を上げた。
そのまま、しばらく黙って私を見る。
「……莉花?」
私は眉をひそめた。
「違うわよ。紗希」
高雄は立ち上がりかけて、目を細めた。
「なんで莉花の変装をしてるんだ?」
「違うわよ。髪を伸ばしてるの」
「……そうなのか」
私は視線を逸らした。
「自分の好きな格好してるだけ、
気にしないで」
高雄は即座に言った。
「無理だ。とても気になる」
「あまり見ないで」
「……帰るわよ」
踵を返しかけた私に、高雄の声が飛ぶ。
「待ってくれ」
その声だけが、少し弱かった。
私は足を止める。
高雄は、ひどく疲れた顔で言った。
「……南米ルートが、完全に消滅した」
低い声だった。
南米ルート崩壊。
アメリカ軍の直接介入。
倉庫壊滅。
流通遮断。
日山郵船は、大打撃を受けた。
私は頷く。
表の数字は、まだ持ちこたえている。
だが――裏が、干上がり始めていた。
高雄は、それを誰よりも理解している。
「……莉花は、やり過ぎた」
ぽつりと、そう言った。
「闇資金は、損失を考えると半分以下だ」
私はソファーに腰を下ろし、端末を見ながら言った。
「タックスヘイブンからマネロンした資金は、まだ各口座に六百三十億プールしてあるわよ」
「ただし、戻して使える状態にするには時間がかかる」
「無理に動かせば、足がつく」
高雄は短く頷いた。
「わかってる」
だが、その声にはもう苛立ちより疲労のほうが濃かった。
「……紗希。もう収拾がつかない」
私は、何も言わなかった。
「お前がいない間、メールの操作もできていない」
「このままじゃ、莉花も俺も共倒れだ」
「……あなたが、そんなふうに言うなんて珍しい」
高雄は、ようやく私を見た。
その目には、疲労が滲んでいた。
「俺は、莉花に安定した日山を継いでほしかった」
一瞬、言葉の意味が入ってこなかった。
高雄は続ける。
「この会社には、最初から汚れた部分があった」
「だから俺が全部まとめ上げ、引き取るつもりだった」
「裏の金も、南米も、全部だ」
「莉花には、表の会社だけを渡したかった」
私は、小さく息を吐いた。
「……なんで、莉花にそう言わないの?」
高雄は、かすかに笑った。
乾いた、どうしようもない笑いだった。
「莉花が、そんなことして受け取ると思うか?」
「……無理ね」
「ああ」
高雄は視線を落とした。
「俺は、真理子に約束したんだ」
「莉花に苦労はさせないって」
その言葉だけは、妙にまっすぐだった。
私は思わず言った。
「不器用な親子ね」
高雄は何も答えなかった。
私は、端末から内部監査システムの情報を引き出す。
画面に並ぶ数字を追う。
日山食品。
月次決算。
赤字計上。
「……これは限界だ」
南米ルートを潰すために使った裏金。
その金を捻出するための、粉飾決算。
赤字を出した時点で、
表に出るのはわかっていたはずだ。
――倉橋は、どうするつもりだ。
「どうした?」
高雄が、低く聞いた。
「……日山食品の数字が、かなり荒れてる」
事実だけを返す。
「粉飾か?」
「ええ」
「限界か?」
「かなり」
高雄は、数秒だけ沈黙した。
「まずいな」
私は、画面から目を離さずに言った。
「私も裏切ったと思ってる」
高雄は黙っている。
「だから、あの子は変わった」
「もう元には戻せない」
「莉花は、もう止められない」
部屋の空気が、重く沈んだ。
「……今なら、まだ間に合うかも」
高雄は私を見た。
「どうする」
「終わらせるしかない」
しばらくして、高雄は椅子にもたれた。
「……わかった」
「俺はどうなってもいい」
かすれた、ひどく疲れた声だった。
「すべて、紗希に任せる」
⸻
夜の警察庁。
父――
岡部正信警視正の執務室。
「紗希」
「どうした」
私は、二枚の書類を机に置いた。
一枚は、莉花の不正。
粉飾。
資金操作。
特別背任。
不正送金。
もう一枚は、藤堂高雄の不正。
外国為替法違反。
麻薬取締法違反。
証拠は、十分すぎるほど揃っていた。
正信は、二枚を見比べたあと、私に返した。
「……本当に、いいのか?」
「もう限界」
私は短く答えた。
「親子対決は、終わらせる」
「このままいけば、日山は終わる」
父は黙ったまま、私を見ていた。
私は、二枚の書類を見下ろした。
指先が、一瞬だけ止まる。
それから、莉花の書類を破いた。
乾いた音が、部屋に落ちる。
残った一枚を、父に差し出した。
「これで、いいんだな」
私は、黙って頷いた。
正信はそれ以上何も言わず、
書類を受け取った。
私は、部屋を出た。
警察は、動き出す。
静かに。
確実に。
本当の断絶音は、
すぐ先だ。
私は、廊下の途中で立ち止まった。
小さく、息を吐く。
「……ごめんね」
⸻
その日の夜。
南米から、日本へ来た。
高雄の執務室に通された私は、
黒い服のまま立っていた。
手の中には、小さなカプセルのついたネックレスがある。
「兄が、アメリカの空爆で死にました」
高雄は、黙って私を見た。
私は、震える指でネックレスを持ち上げる。
「遺骨を入れたカプセルです」
「これしか、残っていません」
部屋の空気が、凍る。
「DNA鑑定で、兄のものと一致しました」
高雄の顔から、わずかに色が消えた。
レオン。
あの男の、最後に残ったものは、
指輪でも時計でもなく、
灰のような骨の欠片だけだった。
私の目は、泣き腫らして赤かった。
それでも声だけは、妙に静かだった。
「兄は、ずっとあなたのために動いていました」
「最後まで、逃げなかった」
高雄は、ゆっくりと目を伏せた。
「……可哀想なことをした」
低く、かすれた声だった。
謝罪とも言えない。
慰めにもならない。
それでも、それしか出てこなかったのだろう。
高雄は少し間を置いて言った。
「少し、ここで待ってくれ」
私は何も言わず、頷いた。
高雄は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
執務室は、急に静かになった。
私は視線を机の上のパソコンに向けた。
画面は、業務メールのままだった。
開かれていたのは、紗希とのやり取り。
その下には、南米からの報告メール。
そして、レオンの最後の送信履歴。
私は、ゆっくり画面を読む。
首謀者は、藤堂莉花。
実行者は、千堂。
一行ずつ、目に焼きついていく。
レオンの死は、アメリカのせいじゃなかった。
偶然そこにいたわけでもない。
意図して殺した。
涙は故郷に置いてきた。
兄と共に。
もう、泣くことはできない。
残った絶望は、静かに憎しみに変わっていた。
藤堂莉花。
絶対に、許さない。
私は、藤堂莉花の名前を開いた。
画面に、彼女の情報が静かに並ぶ。
その一番上には、顔写真が表示されていた。
私はしばらく、その顔を見つめた。
兄を奪った女の顔を。
それをスマートフォンに収めると、
私は何も言わず、静かに部屋を出た。
私の命は、兄のおかげだった。
育ててくれたのも、
地獄の中で守ってくれたのも、兄だった。
だから、その死は
悲しみだけでは終わらない。
今の私に残っているのは、
静かに燃え続ける怒りだけだ。




