39章 《Monday — Iron Hammer》
鉄槌は、
大きな音を立てて落ちるとは限らない。
海の向こうで火が上がり、
その余波は、静かな月曜の朝に届く。
本当に恐ろしいのは、
壊れる瞬間ではなく、
そのあとも世界が平然と回り続けることだ。
テレビの音で、目が覚めた。
音というより、
赤だった。
画面いっぱいに、
速報の文字が流れている。
『――速報です』
アナウンサーの声は、
異様なほど落ち着いていた。
『南米・コロンビアにおいて、アメリカ軍による大規模な軍事作戦が実施されました』
空爆。
その単語だけが、頭に残る。
画面が切り替わる。
夜。
炎。
崩れる建物。
上空からの映像。
『麻薬関連組織の保管施設および流通拠点が、同時に攻撃を受けた模様です』
私は、リモコンを握ったまま動けなかった。
指先が、冷たい。
『死者は、現時点で百名以上』
『外国籍の関係者も含まれており――』
画面の隅に、
小さく文字が出る。
日本人を含む数名が死亡。
視界が、揺れた。
顔から、血の気が引いていく。
――私たちが流した情報だ。
それを、アメリカは使った。
私の指示だ。
今、
安全地帯にいる自分の立場が、
一番怖かった。
なのに。
胸の奥で、
何かが喜んでいる。
⸻
端末が、短く震えた。
メール。
各位宛
差出人:千堂
件名:完了
想定通りです。
殲滅です。
⸻
それだけだった。
説明も、感情もない。
私は、画面を閉じた。
⸻
続けて、もう一通。
⸻
From: Cindy
Subject: done
All OK.
Clean result.
Routes are gone.
No recovery.
Payment received.
As agreed.
⸻
画面を、閉じる。
胃の奥が、重くなる。
テレビでは、
次の映像が流れていた。
『今回の攻撃対象には、民間企業が管理していた倉庫も含まれています』
社名は出ない。
でも、分かった。
日山郵船。
日山郵船が所有している麻薬倉庫。
その情報も、
私たちがアメリカに流した。
標的は、一つじゃない。
南米ルートそのもの。
倉庫も、
資金の流れも、
物流も。
徹底的に、潰す。
そういう計画だった。
⸻
テレビを消した。
部屋の中は、静かだった。
足に、力が入らない。
私は、窓の外を見ていた。
夜景。
いつもと変わらない光。
街は、何も知らない。
数十人が死んでも、
世界は普通に回る。
「……悠輝」
小さく、声が漏れる。
「あなたは今どこにいるの」
あれから何度連絡しても、出ない。
呼び出し音が切れるたび、胸の奥に苛立ちが溜まっていく。
私が悪い。
ただ、謝りたかった。
それなのに、
会えないことに苛立っている。
「会いたい」
口からこぼれたその言葉が、
まだ私に、悠輝に会う資格があるのかと、胸の奥へ鋭く返ってきた。
窓ガラスに映った自分を見つめる。
そこにいるのは、
少しだけ疲れた顔の女だった。
自分という輪郭が、ゲシュタルト崩壊を起こしていくようで、
私は反射的に目を閉じた。
途端に、押し寄せる怒り。
抗おうとする心。
そのたびに、内側で何かが砕けていく
唇が、わずかに動く。
「……許さない」
藤堂高雄。
岡部紗希。
⸻
神代レオンと南米ルートは、これで消えた。
藤堂高雄の片腕はなくなった。
だが、それで終わりじゃない。
高雄が本当に築いてきたものは、
海の向こうの倉庫だけじゃない。
日本の会社の中にも、
まだ鎖のように残っている。
人事。
監査。
帳簿。
物流。
取引先。
表向きは、ただの企業活動。
でも、その内側を辿れば、
最後は高雄に繋がる。
ここからは、力の勝負だった。
迷いは、なかった。
⸻
最初の異変は、
誰にも気づかれないほど小さかった。
それは、不正でも事件でもない。
単なる人事異動だった。
特別対策室には、十名の専任スタッフがいる。
私が直接選んだ十人だ。
各社の監査役は、彼らがまとめている。
毎日、定時で報告が上がってくる。
端末に表示された一覧を見ていた。
「日山金属株式会社」
「監査役、交代」
「坂口義夫」
その名前を見た瞬間、
画面を見ていた私の指が止まった。
「形式上は、定期交代」
「問題なし、って処理」
確かに、どこにも赤は出ていない。
でも。
「……タイミングがいい」
藤堂高雄の推薦で日山金属社長が変わった直後。
監査役も、変わっている。
⸻
表面的には、許容範囲だった。
契約書。
議事録。
決裁印。
すべて正しい。
経歴を確認する。
元・日山商事経理部。
高雄の直属だった人間。
「なるほど」
監査役の交代自体は、人事権の範囲内だった。
それだけなら、問題はない。
だが、監視する側に高雄の側近が入るということは、
帳簿も、内部監査も、最初から塞がれるということだった。
脅されているか、
持ち上げられているか。
どちらでも、同じだ。
内通者。
私は高雄に関係する末端企業の一覧を開いた。
断ち切る鎖の選別を始める。
最初は、小さく。
切れた鎖は、連鎖で重くなり、
やがて全体を崩しにかかる。
高雄に関係する末端企業を、狙い打ちする。
⸻
次に見たのは、数字だった。
売上。
在庫。
取引先。
どれも、一つずつなら誤差だ。
でも。
「……ズレが、同じ方向だ」
モニターを重ねる。
一本一本は、ただの線。
でも――
重ねると、形になる。
「同じ業者……」
最終受取先住所が一致している。
別会社を装っている。
名義も違う。
処理も、表向きはきれいだ。
でも。
出口が同じだ。
藤堂高雄は、金を動かしている。
現金を動かすのは想像以上に大変なのだ。
私は、画面を見たまま呟いた。
金を回収するための網だ。
物流と帳簿。
それだけを支配している。
これなら金は、
勝手に流れる。
⸻
端末が鳴った。
千堂さんからだ。
南米。
「倉庫、全部リスト通りだった」
通信状態は、少し荒れている。
「日山郵船が管理してた分も、例外じゃない」
「……流した?」
『ああ』
迷いのない声。
『全部、アメリカに渡した』
それ以上、言葉はいらなかった。
彼は、そういう人間だ。
⸻
通話を切ったあと、
私は紗希のやりそうな手口を追った。
途中から、ログが消えていない。
紗希も、子どものことで手が回らないのかもしれない。
一瞬そう思った。
だが、違う。
紗希にしては、あまりにもずさんだった。
これは手抜きじゃない。
何か別の意図がある。
ログの切り方。
名義のずらし方。
参照先の逃がし方。
表面は整っている。
だが、繋ぎ目だけが不自然だった。
私はその継ぎ目を追った。
すると、消しきれていない監査ログが出てきた。
坂口義夫。
監査報告書の修正履歴。
承認時刻の不自然なずれ。
差し替えられた添付データ。
私は帳簿を開き、
取引記録と監査報告を一つずつ擦り合わせていく。
売上。
在庫。
移動伝票。
承認印。
間違いない。
坂口は見逃したんじゃない。
見逃した形にして、通している。
不正監査。
私は、ゆっくり息を吐いた。
これは使える。
⸻
端末が震えた。
倉橋からだった。
『資金が底をつきます』
『粉飾も、そろそろアラが出てきます』
私は短く息を吐いた。
「もう少し頑張って」
すぐに返信する。
「藤堂高雄を社長の椅子から引きずり降ろせれば、なんとでもできる」
間を置かず、返ってくる。
『このままでは、こちらが粉飾で捕まります』
私は、画面を見たまま打った。
「まだいいじゃない」
指が止まらない。
「私は殺人教唆よ」
「バレたら、アメリカ大統領だって影響がある」
自分で打ちながら、
その言葉の重さを、どこか遠くで聞いていた。
「肝を据えて、仕切り直ししなさい」
「日山インシュアランスの保険を使えば、しばらくは息継ぎできる」
少しして、倉橋から返ってくる。
『事故でも起こせと?』
私は、すぐに打ち返した。
「そこから先は、自分で考えなさい」
送信。
短い沈黙。
そのあと、倉橋から返事は来なかった。
⸻
私は、坂口義夫を呼び出した。
「あなた、監査役の役目はわかっている?」
坂口は黙っていた。
「会社を守ることと、藤堂高雄を守ることは違うのよ」
私は資料を坂口の前に置いた。
監査ログ。
修正履歴。
取引記録。
擦り合わせた帳簿。
坂口の顔色が、わずかに変わる。
「まだ間に合うわ」
私は静かに言った。
「監査役として会社の側に戻るなら、道は残す」
「でも、高雄の側に残るなら、不正監査の証拠を出して、懲戒解雇を進める」
部屋の空気が、止まる。
私は坂口を見たまま言った。
「選んで」
「今ここで」
逃げ道は、用意していない。
⸻
藤堂高雄は、まだ気づいていない。
自分が守ってきた、
完璧な構造に、
最初の亀裂が入ったことを。
「派手な演出は、水面下を隠す」
私は、小さく呟いた。
空爆。
壊滅。
死者の数。
誰もが、そっちを見る。
その間に、
本当に見るべきものは、
社内の奥で静かに動いている。
逃がさない。
ふと、そんな言葉が頭をよぎる。
でも、もう遅い。
「……悠輝」
その名前を呼んだときにはもう、
私の中の何かは、少しずつ狂い始めていたのかもしれない。
沈黙の向こう側で、
地獄は――
もう、始まっていた。
どれだけ壊れても、
それでも最後には会いたいと願ってしまう。
――割れても末に、会はんとぞ思ふ。
その心だけが、
まだ莉花の中で息をしていた。




